第10話.幕間-3

 ミカは裏口から入ると、二階の台所に買い物袋を置き、その足で三階の自室を目指して階段を上がっていった。

「藤崎ケイ……。どこかで聞いた名前なんだけど、どこでだっけ?」

 階段を上る最中、彼女は首を捻る。

 彼の名前を聞いたときから、そのことが脳裏に釣り針みたく引っ掛かっていた。どこかで聞いた名前。どこでだったか。それがわからない。彼と一緒にいれば思い出すきっかけになると期待したのだが、残念ながら思い出すことはなかった。

 ミカは自室に入ると、まずは鍵を閉め、汚れても良い服に着替え始めた。店の手伝いのためだ。

 そうして着替え終えたところで、勉強机に放置された手紙が目に入る。

 それは、先日に受け取った手紙。

 癖と言うべきか、性格と言うべきか、ミカは手紙を捨てられない。捨ててしまうと、その人の想いを否定してしまう気がするので、律儀にも保管しているのだ。

 そして、その手紙を渡してきたのは芳野ヒロであった。

 すこし前のことだ。

 学校の休み時間、トイレに立ったその帰りの廊下だった。

 ――ちょっといいかな?――

 声に振り向くと、そこに芳野ヒロが立っていた。

 ――聞きたいことがあるんだけど、いい?――

 尋ねられるも、ミカは驚きのために即答出来ずにいた。

 そもそも人と話すことが苦手なミカは、クラスメイトの誰とも関わりを持っていなかった。休み時間も読書をして過ごすくらいである。周囲もそんなミカに声を掛けない。そういう性格なのだと気遣われていたのだろう。ただその中で一人、例外がいた。芳野ヒロ。彼女は「なに読んでるの?」と気軽に声を掛けてきた。まったく遠慮がなく、人が読んでいる本の著者を見て、平気で「私はその作者嫌いだな。私が好きなのはあの作者」と言える人。しかし言い換えれば、わかりやすい人でもあった。自分を偽らず、ありのままの姿を見せてくれる人。事実、彼女は真っ直ぐな言葉を好んだ。

 そんなヒロがミカに問うてきた。

 ――水瀬さんって、もらった手紙は取っておくって本当?――

 ――う、うん――

 ――そっか……。あのね、そんな水瀬さんにお願いがあるんだ――

 そして彼女は白い封筒を差し出してきた。女っ気のない簡素な白封筒。

 ――これ、預かっておいてくれないかな?――

 見ると、宛名が書いてあった。ミカに宛てた物ではない。芳野ヒロ宛である。

 ――なんで私に?――

 ――水瀬さんじゃないと駄目なんだ――

 ――私じゃないと? この手紙はいったいなに?――

 ――あはは、それはちょっと言えないんだよね。ごめんね、巻き込んで――

 そう言うと、芳野ヒロは去っていった。

 まったく意味がわからない彼女の行動。

 しかしミカはその背中を呼び止めることも出来ず、また手紙を捨てることも出来ず、そのまま保管しておいたのだ。

「いったいなんの手紙なんだろう?」

 そんな疑問が浮かんだところで、階下から母親の呼び声が聞こえてきた。

「ミカ、悪いけど手伝って!」

 ミカは慌てて部屋のドアを開き、階段の先にいる母親へと声を張った。

「うん、わかってる! ちょっと待って! いま行くから!」

 まだ手紙のことが気にはなったが、手伝いをしないわけにも行かず、ミカは早々に階段を駆け下りていった。そして店に出ると、さっそく父親に丼を二つ渡される。ミカは慣れた様子で受け取り、客の所へ。そこには男女二人組みがいた。ともにミカと同じ学校の制服姿。ネクタイやリボンの色からして、同学年。商品名を告げて丼をテーブルに置き、その際に二人の容姿を見た。男子は、体格が良くて爽やかな顔立ち。女子は、前髪を片側に流した優しげな顔立ち。見覚えがあった。どこでだったか。瞬間的な思索。ミカはすぐに思い出した。今日、揃って下校していた二人組みだ。校舎の軒下から一緒に傘を差して帰る姿を見た。どうしてそんなことを覚えていたのか。それは、二人が後ろからハンディカムで撮影されていたからだ。あれはいったいなにが目的だったのか。それが気になって、この二人を覚えていたのだ。

 と。

 ミカは父親に呼ばれた。その手には丼。次は四番テーブルと言っている。ミカはすぐにそのテーブルを離れ、丼を受け取りに行ったのであった。


「もう八時になるのか。お腹が空いたなあ……。こういう時はラーメンが食べたくなるね。そうだ。藤崎くんはさ、どこかオススメのラーメン屋とかあったりする?」

 コンビニのレジにて、仲濱がそんなことを言い出したのは、客入りがぱったりと無くなった時だった。

「ラーメン屋ですか?」

 仲濱の尋ねに、ケイは腕組みをして考えた。

 実のところ、あまりラーメン屋には詳しくない。外食をするにしても、たいていはファーストフード店だ。さて、それではどう答えたものか。

「そうですねえ……。『ラーメン屋・甕』はどうですかね。まあ、最近知ったばかりの所なんですけど。知ってます?」

「え、甕に行ったことあるの? いいよね、あそこ」

「知ってるんですか?」

「知ってる知ってる。だってあそこ、僕の行き付けだしね。あそこって雑誌に載ったこともあるでしょ。それで、ちょっと気になって通い出したんだ」

「へえ、そうなんですか」

「でも知ってるかな? あそこって今では繁盛してるけど、すこし前までは大変だったんだよ。その、借金取りとかそういうので」

「え?」

「ああ、やっぱり知らないか。今ではもう完済したらしいんだけどね」

「……あの、その話をもうすこし聞かせてもらえたりって出来ますか?」

「べつにいいけど、どうして?」

「いえ。そこの娘さんが友達なんで、ちょっと気になって」

 仲濱はケイの言葉に「あ、そうなの?」と目を丸くした。

「まあ、知りたいなら話してもいいよ」

 水瀬ミカが中学生になる前年、ミカの父親は脱サラをし、今の兼用住宅でラーメン屋を開業。ラーメン屋は父親の昔からの夢だったそうだ。しかし開業して一年目に『ラーメン屋・甕』は閉店の危機に瀕する。原因は借金。その際に利用した金融業者が悪かった。営業時間に柄の悪い連中が店に押し入り、罵声とともに店内を荒らし回った。それにより悪い噂が立ち、次第に客足は遠退いて行ったのだとか。それでも根気強く営業を続けるうちに、客足は次第に増え始めた。そして雑誌に取り上げられると、今までの不調が嘘のように繁盛し、借金も今や完済されたそうだ。

「そんなことがあったんですね」

「そうだよ。でも色々と大変だったろうけど、借金が返せて良かったよね」

「ですね」

 当事者でない以上、水瀬一家の苦労はわからない。想像し、きっと大変だったんだろうと共感した気になるのが関の山だ。それでも、いま心にある感情は嘘ではない。

 とそこで、一人のサラリーマンが入ってきた。

 なのでケイと仲濱はいらっしゃいませ、と挨拶。

 そのサラリーマンが弁当を購入して出ていくまで会話は打ち止めとなったのだった。


 一〇時頃、本日の労働を終えたケイは、空腹に晒されていた。事務室で腹を摩る。適当におにぎりでも買って帰るか。そんなことを考えながら、ふと思い立った。

 まだ営業時間内なのかはわからないが、ラーメン屋・甕に行ってみるか。

 そんな思いつきにより、ケイは甕に行くことにした。


 甕にまでやって来たケイは、外から店内の様子を窺った。どうやら、まだ営業中らしい。ふと、店先に出された看板が目に入った。営業時間が記されている。それ曰く、閉店時間は近いらしい。これはさっさと入った方がいいか。そして暖簾をくぐると「らっしゃい」と溌剌とした挨拶が飛んだ。ケイは店内を見回す。あまり広くないが、カウンター席が七つ、テーブル席が四つ備えてある。客入りは三割程度で、会社帰りのサラリーマンばかり。その中、ケイはカウンター席に腰を据えた。すると、すぐに中年女性の従業員が注文を取りに来た。ケイは壁に貼られた品書きから適当に一つを注文。女性は厨房の男性に注文を告げる。男性は客に背中を向けて調理を始めた。そんな二人を交互に見やって、ケイはその二人がミカの両親だと当たりをつける。

 そんなところで、厨房奥で片付けの手伝いをしていたミカと目が合った。彼女は作業の手を止めてやって来る。顔には小さな驚きと、笑みが浮かんでいた。

「どうしたの?」

「食いに来るって言ったじゃん」

「え? でも、今度って言ってなかった?」

「まあ、そこは柔軟にお願いします」

「あはは、お願いされるようなことでもないんだけどね」

 すると先ほどの中年女性が知り合いなのか、とミカに尋ねた。予想どおり彼女はミカの母親で、厨房の男性はミカの父親らしい。そんな母親の問いに、ミカは困った様子で視線を彷徨わせる。その反応からケイは察した。ミカの性格上、おそらく友達と言って良いのか迷っているのだろう。親に変な勘繰りをされたくないのではなく、藤崎ケイに対しての遠慮。友達と思っているのは自分だけかもしれない、という不安もあるのかもしれない。それがわかってしまったからこそ、ケイは彼女に代わって答えた。学校の友達です、と。これにミカはやや驚きの顔をしたが、すぐに気恥ずかしそうに微笑した。

「あら、友達なの?」

 母親は娘の反応を見て、ケイの言葉を真実と受け取った。

「そう、友達なのね。ゆっくりしていってね」

「はい」

 ケイの返答を聞き、母親は厨房の奥へ。どうやら閉店の片付けに向かったらしい。

「あ、それは私がやるから」

 ミカが母親に言った。どうやら片付けは彼女の仕事らしい。しかし母親はゆっくりしろと返す。ケイと話でもしていろ、という意味のようだが、ミカは聞き入れず、ケイに断りを入れて母親の所へと行ってしまった。

 その直後、ミカの父親が丼をケイの前に置いた。注文品のようだ。しかし明らかに過剰なトッピングがなされている。どういうことかと眉根を寄せると、父親は豪快に笑ってからその疑問に答えた。

「兄ちゃん、ミカの友達なんだろ? なら、おまけだ」

 どうやらそういうことらしい。

 ケイは恐縮して会釈。それから改めて頂こうとした。

 が。

「ところで兄ちゃん。お前さん、ミカを狙ってんのか?」

「え? いや、そういうつもりは……」

「言っとくが、ちょっとやそっとの覚悟ではやらねえぞ」

「いや、だから……」

「欲しけりゃあ、俺を納得させられるくらいの根性を見せてもらわねえとな」

「人の話を聞いちゃいねえ……」

「ん、何か言ったか?」

「いえ、何も……。ラーメン、頂きます」

「おう!」

 ケイは器を持って匂いを嗅ぐと、スープを一口。納得の様子で頷く。

 しばらく食事を進めていると、ミカが裏口よりゴミを出しにいった。

 それを見計らっていたように、父親が話し掛けてきた。

「ところで兄ちゃんよ。お前さん、ミカとは学校の友達なんだろ?」

「まあ、そうですけど。なにか?」

「いや、すこし気になることがあるだけなんだがな……」

 そう前置きして、父親は言った。

「ミカのやつ、学校でいじめられてたりしてねえよな?」

「はあ? そんな話は聞いたことないですけど、どうしてですか?」

「いやな、取り越し苦労ってやつかもしんねえんだけどな。あいつ、放課後はまっすぐ帰ってくるし、休みの日にどこかに行くでもねえ。じゃあ何をしてるかって言えば、家事や店の手伝い、あとは勉強か。いやもちろん、家事や店の手伝いをしてくれるのは助かるし、勉強を真面目にしてて偉いとは思う。けどな、あいつが友達と遊んだり、友達を連れて来たりなんて一度もねえのよ。こうなると、色々と心配になるんだよ」

「えっと、それはつまり……」

「あいつ、他に友達はいんのか?」

 曰く、両親の方は、ミカにもっと高校生らしく遊んでいてもらいたいらしい。

 水瀬ミカは学年主席という秀才で、家事や店の手伝いもこなす。他所の家の者が見れば羨ましいお子さんだろう。まさに見本と言っても過言ではない。そんな彼女の両親だが、親には親の悩みがあるのか、そういった完璧な「よく出来たお子さん」よりも、好きなことをしている子供の方が良いのだろう。

 隣の芝生は青い、というやつか。

「っで、どうなんだ?」

 父親からの催促。

 真実を語るならば、友達はいないと答えるべきだろう。ミカが誰かと仲良くしているという話など聞いたことがない。しかしそれを彼女の許可を得ずに、彼女の親に伝えるべきなのか。それは差し出がましいような気がしてならない。

 ケイはどう答えたものかと唸る。

 しかし、そんな様子から父親は大方を察したようだった。

「そうか、そうなんだな……」

「でも、ミカさんは成績がいいですし……」

「いや、成績が良いってのは親として鼻がけえし、あいつの将来のためにもなるだろうよ。だけどな、やっぱり友達と遊ぶことも大事だと思うわけだ」

「そこまで心配なら、おじさんの方から色々と言ってあげればいいじゃないですか」

「や、俺も言ってるには言ってんだ。だがな、どうも強く言えねえってのかなあ……」

 言い難そうに視線を彷徨わせる父親の様を見て、ケイは何気なく察した。

 この人は、ミカに遠慮しているのではないだろうか。

 借金関連で大変な想いをさせたり店を手伝ってもらったりと、自身が不甲斐ないばかりに色々と苦労をさせてしまった娘に、強い態度で出れないのではないだろうか。

 ミカもミカで、苦労する親に言いたいことを言えずに育ち、気付けばそれが当たり前になっていたのではないだろうか。そして、その遠慮は家庭だけでなく学校生活にも波及。彼女が孤立してしまっているのは、その遠慮の所為なのかもしれない。

 そうなると、その「遠慮」を崩すのは相当に困難だろう。

 なにせ、それが「当たり前」になってしまっているのだから。

 とそこで、何も知らないミカが店に戻ってきた。ケイは話していたことを悟られぬよう何事もなかったかのように食事を再開。そして全てを食べ終えると御代をカウンターに置いて席を立ち、ミカに別れを告げて店の外に出た。

 心地よい満腹感にホッと吐息を洩らす。

 が、気持ちをぶち壊す電話が掛かってきた。

 携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。非通知。怪訝に思いながら通話に出た。

「はい、もしもし」

『やあ、藤崎。これから俺の言うことをしっかりと聞けよ』

 電話口から聞こえる男の声。その人物は一方的にケイへと宣告した。

『お前は俺を失望させた。だからその報いを受けてもらう』

 と。

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