第三話 望まざる運命

 河内国へ到着した壹与いよと邪馬台国兵は、父の留守を預かる王子の歓迎を受けた。

 河内湖の港には、数十隻の船が邪馬台兵のために用意されていた。

 船には武器や航行中の食料などが既に積み込まれ、彼らが乗り込めば、すぐにでも出航できる状態に準備されていた。

 壹与は兵の指揮官を務める男鹿おがの弟として、王子に謁見する彼に同行し、宮殿へ向かっていた。

 女王であることを隠して旅する彼女には、男鹿の身の回りの世話をする役目が与えられ、二人の立場は表面上は逆転していた。


 久しぶりに訪れた故郷は、懐かしい潮の香りがした。

 女王に即位してから、彼女が河内国を訪れたのは初めてのことだった。

 幼い頃、育ての母である姉姫えひめに手をひかれて歩いた宮殿へと続く道の景色を見ていると、自分が邪馬台国の女王であることも夢なのではないかと思われた。

 壹与の前には、肩で風を切って歩く男鹿の背中があった。

 いつも後ろに控えていた男鹿が、今は自分の兄であり上司として堂々と前を歩いている。

 前方に広がる湖に反射する光が、彼の後ろ姿を縁取りきらめいていた。

 壹与は眩しさに目を細め、早足で歩くその背中を小走りしながら追って行った。





 壹与と男鹿は謁見の間に通され、王の代理を務める王子と対面した。

 年の離れた腹違いの兄は、久々の妹の訪問を心から喜んだ。


言葉ことのはにも、お顔を見せてやってください」


 そう言って兄は傍らの侍女を呼び寄せ、小声で何か伝えた。

 うなずいた侍女は一礼して一旦部屋を後にした。

 しばらくすると愛らしい赤ん坊の声と共に、異母姉言葉媛が戸口から姿を現した。


「壹与……? 壹与なの?」


 姉は男を装った妹の姿に驚き、思わず小さく叫ぶように言った。


「おいおい、邪馬台国の女大王ひめのおおきみにあられるぞ。言葉遣いに気をつけよ」


 王子はそう言って言葉媛をたしなめたが、壹与は微笑んで首を振って見せた。

 だが次の瞬間、姉の胸に抱かれた赤ん坊に、彼女の目は釘付けになった。


「もしかして、月読つくよみの……?」


「ええ、抱いてやってくれる?」


 ぎこちなく掌を天に向けた壹与の腕に、小さく柔らかい命が預けられた。


「……かわいい……」


 自分の腕の中で小さな拳をしきりに振り、短い足で必死に宙を蹴る赤ん坊を見つめ、壹与の中にこれまで感じたことのない感情が芽生えていた。

 この無垢な存在が、かつて愛した人の分身だと思うと一層愛しさが増し、自然と笑みがこぼれた。

 そんな妹の横顔に、言葉媛はしばらく見入っていた。


「皇子様にそっくり……」


 男装した妹に戦地にいる夫の面影を見て、媛の瞳にうっすらと涙が滲んだ。

 そして姉は背後から愛し気に妹の頭に頬を寄せ、首元を両腕で優しく包み込んだ。


「気をつけてね」


「……はい」


 壹与も姉の胸元に顔を寄せて目を閉じた。

 そんな壹与の腕の中で、月読の皇女ひめみこは無邪気に笑い声を上げていた。

 言葉媛は壹与を抱きしめたまま、傍らに控える少年の顔を見上げた。


壹与このこをお願いしますね」


「はい」


 男鹿は媛の言葉に表情を引き締め、丁寧に頭を下げた。





 王子達へ別れを告げ、二人は兵達を待機させている港へ戻った。


「待たせたな」


 兵の配備を任せていた役人の姿を見かけ、近付きながら男鹿は軽く片手を上げた。

 若い役人は男鹿の顔を見ると嬉しそうに笑顔を見せ、左右に首を振った。

 そして壹与の存在に気付き、小さく頭を下げた。


「男鹿様に、こんな可愛らしい弟君がおられたとは……」


 役人にじっと見つめられ、壹与は正体を見破られるのではないかと不安になり、顔を地面に向けた。


前審神者まえのさにわ、月読命様に似ていらっしゃいませぬか?」


「出航の準備は、どの程度すすんでいる?」


 役人の言葉を遮るように、男鹿が問いかけた。

 役人は慌てて現状を説明し始めた。

 だが、一通り説明を終えると、彼は再び壹与の顔に視線を向けた。


「お名前は……? なんとお呼びすればよろしいでしょう?」


「……」


 男の名など用意していなかった壹与は、冷たい汗をかいて黙り込んだ。

 うつむいて目を泳がせている壹与の隣で、男鹿も必死に周りを見回しながら考えを巡らせていたが、しばらくしてその視線が湖の向こうに広がる海原で止まった。


「……なぎだ。静かな海の水面のように、穏やかな人生であれと」


 壹与は弾かれたように、役人を見据える少年の横顔を見上げた。


「いいお名前だ。私は野猪のいです。旅の間よろしくお願い致します。凪様」


 そう言って野猪と名乗った役人は、二人に一礼するとその場を去って行った。

 その姿が見えなくなると、男鹿は大きくため息をついた。


「……勝手に申し訳ありませぬ」


 気まずそうに言って男鹿は唇を噛んだ。

 その顔を見て壹与は微笑んで首を振った。


「素敵な名前。ありがとう」


 彼女は心の中で少年が付けてくれた名を何度も繰り返した。

 彼女にとってそれは、彼から与えられた最初で最高の贈り物だった。





 間もなく、邪馬台と河内の兵は一団となって河内湖を出発した。

 湖から海原に出た一行は、男鹿が満ち潮の時刻を読み、潮に乗って一気に西へ航路を進めた。

 彼らは右舷側に続く陸を眺めながら、日中は海上をひたすら航行した。

 冬の海上は乾いた風が肌を刺すように冷たかったが、その風が追い風となり彼らを西へと運んだ。

 それでも、通信用使者が操る小型船と違い、船体の重い大型船では、一日に進める距離は限られていた。

 目視で陸を確認しながら進む当時の航海は、日が暮れると最寄りの港に停泊するしかない。

 また、天候や潮の向きによっては、待機を余儀なくされる日もあった。

 そのような時は、最も近い同盟国の港に使者を送り寄港の許可を要請するのだが、月読が旅をしながら協力を仰いだ国々は、どこも兵糧と簡易宿泊所を用意して彼らを歓迎してくれた。




 港へ着くと兵達は協力し合って火をおこし、夕餉ゆうげ支度を行った。

 壹与も無骨な男達に混じって薪を焼べ、生まれて初めて飯を炊いた。

 食事が出来上がると、男達は思い思いの場所で円陣を組み、地べたに腰を下ろすと、粥や酒を一気に喉へ流し込んだ。

 壹与も男鹿の隣に腰を下し、殆ど味のない水っぽい粥を少しずつ口に運んだ。


「凪様は、誠に男なのですか?」


 酒の入った男達の中には、たまにそう言って壹与に絡んで来る者があった。


「女であれば、求婚したいくらい美しい」


「たとえ女であっても、男鹿様が兄上では手を出せんぞ。きっと殺される」


 壹与のそばを片時も離れない男鹿を見て、男達はそんな軽口を言って笑った。

 そんな他愛のない話に壹与も声を殺して笑い、その隣で面白くなさそうな顔をして男鹿は粥をすすっていた。

 戦への旅とはいえ、宮殿の中だけで過ごしていては味わえないこのようなひとときは、壹与にとって何もかもが新鮮だった。


 腹を満たすと兵達は雨風だけが凌げる粗末な小屋で就寝したが、壹与には王の暮らす宮殿に寝所が用意されていた。

 各国の王には密かに邪馬台国の女王が同行していることを伝えてあったため、名目上は男鹿が体を休める場所として寝床が用意されていたのだ。




 その夜、壹与は明石国の宮殿内の寝所で眠りについていた。

 すきま風の冷たさに目が覚め、天幕を持ち上げて戸口の方へ目を向けると、壁際に座った姿勢で眠る男鹿の姿があった。

 彼は肩に立てかけた剣に寄りかかるようにして寝息を立てていた。

 室内には天幕で仕切られた場所に男鹿の分の寝床も用意されていたが、いつ敵が現れても壹与の身を護れるよう、彼はこのような休み方をしていたのだ。


 壹与が男鹿の寝顔を目にしたのは、この時が初めてだった。

 開くと涼し気なその目元は、閉じていると意外に幼く見えた。

 日中は潮や風の向きを読んだり、兵の指揮をして疲れているはずなのに、夜も自分の身を護るため床にもつかず、こんな姿で眠っているのかと思うと壹与の胸は熱くなった。

 壹与は自分が掛けていた上掛けを抱えて彼に近付くと、静かにその体を覆った。

 瞬間、男鹿の目が見開き、剣を握る手に力が込められた。


「……壹与様……」


 そこにいるのが壹与だとわかり、男鹿は安堵のため息をついた。


「ごめんなさい。風邪をひくと思って……」


「……ありがとうございます」


 優しく笑って、男鹿は壹与の顔を見上げた。

 その顔を見て、壹与は思わず上掛け越しに彼の肩に手をかけると、少年の唇に自分のそれを重ねた。

 男鹿は一瞬驚きの表情を見せたが、やがてゆっくり瞳を閉じて彼女の唇に応えた。


 その時、外の回廊から微かな足音が聞こえた。

 反射的に壹与の体を引き離し、剣を構えた男鹿は、戸口の外に鋭い目線を送って息を殺した。

 だが、しばらく経っても何事も起こらないことを確認すると、彼はほっと息をついて壁に寄りかかるように再び腰を下ろした。


「明日は早朝この地を発ちます。もうお休みください」


 男鹿はそう言って上掛けで体を包むと、赤らめた顔を壹与から背けて目を閉じた。





 月読の指示により明石国の軍が合流し、さらに大きくなった船団はなおも西を目指して突き進んだ。

 その船団の中心部分で壹与を乗せた船は武装した兵を乗せた船に幾重にも囲まれ、敵の攻撃に備えて強固に護られていた。

 そうして、二十日あまりの航海を経て吉備国軍と合流した一行は、伊予国のある伊予之二名島いよのふたなのしまを目前にした海上にいた。

 この海は以前、月読の率いる船団が呉から襲われた場所だった。

 そのとき呉の船団が島陰に潜んでいたと聞いている男鹿は、緊張した面持ちで一見穏やかな海原と大小の連なる島々に目を配っていた。


「男鹿様、前方に怪しい船が航行しております」


 白い帆を立てた小舟に乗った監視兵が、壹与達の船に横付けして大声で報告した。


「わかった。見に行く」


 そう言って男鹿は、小舟に乗り移ろうと甲板の手摺りに足を掛けたが、何かを思い出したかのようにその動きを止めた。


「凪……」


 壹与の顔を見て、彼は戸惑いの表情を見せた。

 敵かもしれない船を見に行くのに、壹与を連れて行くわけにもいかず、かといって彼女のそばから離れるのも不安だったのだ。


「凪様なら、私が共におります」


 港で壹与に名を尋ねた野猪が、男鹿に向かって声を上げた。

 男鹿は一瞬思いを巡らせたが、心を決めたようにうなずいて見せた。


「頼む。すぐに戻る」


 そう言って男鹿は縄梯子を伝い、身軽に小舟へと飛び移った。

 彼を乗せた監視船は風に乗り、あっという間に前方の船団の波に紛れて行った。


「男鹿様は、あなたのことが心配で仕方がないのですね」


 野猪はそう言って壹与に微笑みかけた。壹与は少し顔を赤らめて、若い役人から目を逸らした。


「あなたは、あの方の弟などではないのでしょう?」


「……」


「実は明石国へ寄港した夜、寝所でのあなた方を見てしまったのです」


 あの夜、回廊から聞こえた足音を思い出し、壹与は真っ赤になって口元を手で覆った。

 そんな彼女の顔を見て、野猪は確信を得たように首を何度も縦に振った。


「男鹿様に想い人がいると知れば、女達が残念がりますな」


「?」


「ご存知ありませぬか。女達の間で男鹿様の人気は大変なものなのですよ。魏の学問に長け、見目も美しい。その上、大王が狗奴国の兵に襲われた際には見事な剣さばきも見せたとか。女達が騒ぐのも無理はありませぬ。王族であった月読様と違って、大夫たいふであれば一般の者にも手が届きそうですしね」


 野猪は目を輝かせて一気にまくし立てた。

 彼は男鹿に対して強い憧れを抱いているようだった。


「豪族や大夫からは、ぜひ娘をもらって欲しいと縁談がいくつも持ち込まれているそうですが、かたくなにお断りするのには理由があったのですね」


 野猪は壹与の顔を改めてじっと見つめ、納得したように何度もうなずいた。

 壹与は男鹿に縁談がきているなど、聞いたことがなかった。

 だが考えてみれば、月読も審神者を務めながら宇多子うたこを妻に迎えていた。

 年頃を迎えた彼に、そんな話が持ち上がったとしても不思議はないのだ。


「一時期は大王との仲を噂されておりましたが、さすがにそれはあり得ぬこと。所詮は噂話でした」


「……あり得ぬこと……」


 野猪の言葉を反復して、壹与は思わず泣き出しそうになった。

 改めて第三者にそう断言されると、男鹿と密かに心を通わせることさえ、やはり許されないことなのかと悲しくなったのだ。


「不思議にそれ以外に浮いた話がないと思えば、まさか女に興味がなかったとは……」


「……?」


 野猪は壹与が男鹿の弟でないことは見破っていたが、女であることには気付いていなかったのだ。

 それは少女のように美しかった月読に、彼女が似ていたからかもしれなかった。

 壹与は正体を知られる恐れがないとわかり、一瞬安心した。

 だが男である凪としてよりも、女王として男鹿と愛し合うことのほうが認められない現実に、やりきれない気持ちになった。


「このことは誰にも申しませぬ。ご安心を」


 野猪が胸に手を当てて真剣な表情でそう言った時、男鹿を乗せた監視船が戻って来た。


「漂着していた呉の船を拾った、ただの漁夫だった」


 小舟から乗り移りながら、男鹿は不審な船の正体を伝えた。

 野猪はほっと胸を撫で下ろして笑顔を見せた。


「月読様の兵が呉の兵と闘った時、あるじを失った船が流れ着いたのかもしれぬ」


 言いながら男鹿は、いつもと少し様子の違う壹与に気が付いた。


「凪、どうした?」


 尋ねる男鹿に、壹与は目を合わさずに首をうなだれた。


「……では、私はこれで……」


 気まずい空気を感じ、野猪はそそくさとその場を去って行った。





「壹与様、なにかありましたか?」


 周りに人気がなくなると、男鹿は改めて尋ねてきた。

 壹与は短い着物の裾を握りしめ、うつむいたまま小さな声でつぶやくように言った。


「あの者に、私達が兄弟でないと見破られたわ」


「え……」


 壹与が女王であることも知られたのかと思い、一瞬で男鹿の顔色が変わった。


「でも、私が女であることには気付いていない……」


 それを聞いて男鹿はほっと肩で息をついた。

 そんな顔を見て、壹与は軽い苛立ちを覚えた。


「縁談がいくつも来ているそうね」


「……あいつ……」


 男鹿は野猪が去って行った方向に顔を向け、小さく舌打ちした。

 壹与は不機嫌気味に顔を背け、突き放すように言った。


「承諾すればいいのに。どうせ私は……」


 壹与の言葉を皆まで聞かず、突然男鹿の手が彼女の手首を強く掴んだ。


「……それは、本心ですか?」


 今まで見たことがない険しい目が、壹与に向けられていた。

 壹与はその目に捕えられたように視線を外せないまま、震えながら何度も左右に首を振った。

 怯える少女の顔を見て我に返った男鹿は、慌ててその手を離し、彼女から目を逸らした。

 言葉を失い、互いに顔を背け合った二人の背後に、再び監視兵の操る小舟が近付いて来た。


「男鹿様、前方で伊予国軍の副官だという男が、あなた様に会いたいと申しております」


 気を取り直して表情を固めた男鹿は、船の柵に手をかけて、監視兵の乗る小舟を見下ろした。


「どのような男だ?」


「かなりの大男です。爾岐にぎと名乗っております」


 爾岐の名は牛利ぎゅうりから送られた使者から聞いていた。

 女王を乗せた船の到着が近いと聞いて、護衛をかねて迎えに来たのだろう。


「わかった。会いに行く」


 そう言って男鹿は、壹与の背後の船上に設けられた屋形の陰に視線を向けた。


「野猪、そこにいるのであろう。もう一度凪を頼む」


 屋形の陰から顔を出した野猪は、ばつが悪そうな表情を浮かべながら男鹿の前へ進み出て来た。


「ただし、無駄話は慎め」


 男鹿に睨まれ、野猪は肩をすぼめた。





「おぬしが男鹿か」


 監視船に乗ってやって来た少年を、爾岐は笑顔で迎えた。

 男鹿は爾岐の乗る船に近付きながら頭を下げた。

 小舟が横付けされ、伸ばされた大男の手に少年が掴まると、その体は軽々と甲板に引き上げられた。


「若いな。いくつだ」


「十八です」


 爾岐は改めて目の前の華奢な少年を見つめた。

 体は細身だが、涼し気な瞳には他を圧倒する力強さが感じられた。


「女大王は?」


「船団の中央部にいらっしゃいます」


 常に腰に携えた剣から手を離さず、隙を見せない少年に、爾岐は並々ならぬ覚悟を感じていた。

 彼がこの若さで二千近くの兵を率い、ずっとこのように神経を尖らせて旅してきたのかと思うと、せめてこの先はその責務から解放してやりたいと思った。


「よく来たな。月読様がお待ちだ。伊予国までは我々が案内する。港に着くまで少し話でもせんか」


 少年の緊張を解こうと爾岐は笑顔を向け、その肩を軽く叩いた。


「いえ。私は大王の船へ戻り、あの方をお護りします。お話は後ほど、伊予国に着いてからゆっくりと」


 男鹿は表情を崩さずそう言うと、軽く頭を下げて監視船に飛び移った。

 そして船上から爾岐を見上げ、再び深く頭を下げると、監視兵へ大王の船へ戻るよう命じた。

 爾岐はしばらく呆気にとられたように、後続の船団に紛れて行く小舟を見送っていた。


「融通のきかん奴だな」


 少年を乗せた小舟が見えなくなると、爾岐はそうつぶやき、苦笑いして首を振った。





 間もなく壹与達一行は、爾岐の率いる小隊に導かれ、伊予国の港へ着いた。

 百隻近くを数える大小の船は、左右に分かれて列を成し、港に向かって一直線に海上の道をつくり停泊した。

 その海の上の道を、爾岐の乗る船に続いて、ひと際大型の船が進み出て来た。

 その船の舳先には、背筋を伸ばして風を受ける男鹿の姿があった。

 彼の視線の先には、埠頭で彼らを迎える兵士らの群れがあった。

 その兵士らの輪の中に、手を振る高貴な身なりの男達が数人見えた。

 近付くにつれ、その中に懐かしい顔ぶれがはっきりと見え始めた。


「月読様……」


 輪の中央で笑顔で大きく手を振っていたのは、約二年振りに目にする月読だった。

 そんな彼の一歩後ろには、剣に手をかけて仁王立ちしている牛利の姿があった。

 男鹿は、旅の終着点が見えて否が応にも込み上げて来る安堵感を抑え、自分自身を律するように剣の柄を握りしめた。

 壹与にも早く月読の顔を見せてやりたかったが、無防備な船首に彼女を立たせるのは危険と判断して、後方に待機させていた。



 船が埠頭に横付けされると、甲板から地上へ向けて大きな板が架けられた。

 やがてその上を男鹿に手をひかれ、男の身なりをした壹与が渡って来た。

 その様子を見守る月読の姿が目に入り、壹与の瞳は潤んだ。

 二年ぶりに再会した彼は一層逞しく、落ち着いた大人の男になっていた。


「よく来たね」


 地上に降り立った壹与は、月読の昔と変わらない優しい笑顔にただ微笑んでうなずいた。

 その名を口にすれば涙が溢れ出しそうで、声は出せなかった。


「男鹿、疲れたであろう。ゆっくり休んでくれ」


 月読に声をかけられ、少年は剣を握ったまま深く頭を下げた。

 そんな男鹿の姿に、月読の後方から牛利の厳しい視線が向けられていた。

 月読の傍らには、覇夜斗はやとが驚きの表情を見せて立っていた。

 彼は邪馬台国の女王が少女であることは承知していたが、まさか男の身なりをして現れるとは想像もしていなかったのだ。


「こちらは、出雲国王の覇夜斗だ」


 月読に紹介され、壹与はうっすらと微笑んで見せた。

 一見小柄な少女の意外に大人びた表情に、覇夜斗は一層戸惑いの表情を見せた。


「お会いできて光栄です。女大王」


 いつになく神妙な態度で、覇夜斗は少女に頭を下げた。


「壹与、まずは身を清めて着替えておいで。ここには体を癒す温泉もある。旅の疲れを洗い流すといい。その姿も悪くないが、やはり女の姿のお前を見たい」


 月読の言葉に、壹与は顔を微かに赤らめた。

 そんな彼女から視線をずらし、月読が軽く手を上げると、数人の侍女が進み出て来た。

 壹与は皇子に一礼すると、侍女達に囲まれるようにして、宮殿へ向かって行った。


「驚いたな。そなたにそっくりだ」


 緊張が解けたように大きく息をつき、覇夜斗は頭を掻いた。


「随分態度が大人になった。昔は子犬のように駆け寄って来ていたのに」


 少し寂しそうに苦笑しながら、月読は壹与の後ろ姿を見守る男鹿に目をとめた。


「そりゃあ、あんな目で見つめられたら、女に目覚めるわな」


 覇夜斗も、愛しそうに少女を見つめる少年に視線を送り、鼻で笑った。

 そんな彼の目に、険しい表情で男鹿に近付く牛利の姿が映った。


「ちょっと、こっちへ来い」


 睨むようにしてそう言う牛利に、男鹿は唇を軽く噛んでうなずいた。





 無言で背を向けて歩き続ける牛利の後を、男鹿も黙ってついて行った。

 人気のない船の陰まで来ると、牛利は男鹿の正面へ向き直り、いきなり少年の顔を拳で殴りつけた。

 勢いで地面に倒れ込んだ少年にたちばなが駆け寄った。

 彼女はいつもと違う牛利の様子が気になり、二人の後をつけて来ていたのだ。


「牛利、いきなり何をする!」


 橘は少年の背を庇いながら牛利を怒鳴りつけた。

 彼女に抱えられるように上半身を起こした男鹿の口元からは、血が滴っていた。

 それを手の甲で拭い、少年は大男を睨みつけた。


「なぜ、大王をこのような危険な旅に向かわせたのだ!」


 牛利は、今回の大王の旅を止められなかった男鹿への怒りが収まらなかった。

 仕方がないことと月読にはなだめられたが、我が子のように育ててきた彼を信頼していただけに、その行動をどうしても許すことができなかったのだ。


「では、どうすればよかったと言うんだよ!」


 男鹿は血走った目で大男を見上げ、大声を上げた。


「お前も壹与様を危険な目には遭わせたくなかろう。そう言って、思いとどまっていただければよかったではないか」


「巫女として生きる覚悟を決めたあの方に、未来も約束できぬのに、自分のために生きてくれなどと言えるかよ!」


 牛利は一瞬言葉を失った。

 気持ちが高ぶって息の上がった男鹿は、目を一旦伏せて呼吸を整えると、今度はひと言ひと言噛み締めるように語り始めた。


「己が望む生き方と、運命とは必ずしもひとつではない」


「……」


「あんただってそうだろ。姉上がいつも言っていた。あんたは本来、書でも読んで静かに暮らすのが性分なのに、剣術に優れたその腕が戦の世界にあんたを引きずり込むと」


「お前……」


 自分が弥鈴みすず許嫁いいなずけであったことを男鹿に伏せていた牛利は驚きを隠せず、見開いた目で少年を凝視していた。

 彼には暴走した難升米なしめの兵を止めるために弥鈴の屋敷を訪れ、偶然見つけた少年を捨て置けず、連れ帰り育てたと伝えていたのだ。


「あんたが魏で過ごしている間も、姉上はいつもあんたとの思い出を嬉しそうに話していた。あんたが姉上の許嫁だったことは昔から知っている」


 呆然と立ち尽くす牛利を前に、男鹿は立ち上がり、口の中の血を吐き捨てた。


「あんたこそ、いい年していつまでも物騒なものを振り回してるなよ。そんな生き方、姉上は望んでいない。難升米を討って、姉上を守れなかった罪滅ぼしはもう済んだはずだ」


 牛利の腰の剣に目を向けてそう言い、男鹿は彼に背を向けると、兵達が荷を降ろす船着き場の方向へ引き返して行った。





「結局、おぬしの方が説教されるとはな」


 少年の背中を見送ると、橘は大男を見上げて苦笑した。


「随分しっかりした息子ではないか」


 長年多くの少年兵を育ててきた橘は、母親のような心境で男鹿を見ていた。

 そして、少年の心を慈しむようにつぶやいた。


「だがあの子は、自分が幸せになることなんて、少しも考えていないようだな」


 牛利は掌で目元を覆い、何度も小さく左右に首を振った。

 そんな彼の背に橘は優しく手を添えた。





 船着き場へ向かう途中、積み荷を運ぶために用意され、道端に並べられた荷車の前で、男鹿はぴたりと足を止めた。


「また盗み聞きか」


 正面を見たまま男鹿がそう言うと、車の陰から野猪がのっそりと姿を現した。

 彼の顔は青ざめ、悲し気に歪んでいた。


「凪様は、大王だったのですか……」


 野猪は、自分が大王と男鹿との仲をあり得ないと言った時の悲し気な凪の顔を思い出し、罪の意識を抱いていた。

 同時に、尊敬する男鹿の報われない恋を思うと、切なさで胸が張り裂けそうだった。


「わかったろう。私にはあの方をお護りすること以外、他に何もできることはないんだ」


 拳を固めて正面を見据えたままそう言い残すと、男鹿は再び船着き場に向かって歩き始めた。

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