第七話 戦の足音

 狗奴国くなこくとの戦いに向けて出雲国と同盟を結べたことを伝えると、吉備国王は驚きの声を上げた。

 これまでかたくなに共に戦うことを拒んできた出雲国を、この若い皇子がどうやって説得してきたのか知る由もなかったが、少なからず王は長く決着がつかなかった狗奴国との戦いに、確かな手応えを感じたようだった。


 月読達の一行は、旅の準備が整えば、吉備国と海を挟んで向かい合う伊予国いよのくに(現愛媛県)へ向かう予定にしていた。

 伊予国は西側の海から狗奴国に近く、関係も深いと言われている国だ。

 狗奴国同様、海運輸送によって勢力をつけた海人族あまぞくと呼ばれる豪族により支配され、優れた航海術や漁撈ぎょろうだけでなく、大陸からの影響で先進的な農耕技術も有していた。

 伊予国は、これまで邪馬台国との関係を明らかにしていなかったが、どちらかというと狗奴国側に近い立場であると思われていた。

 このままではいざ戦いになった時、東の海からも挟み撃ちされる恐れもあり、避けては通れない国のひとつであったのだ。

 しかし、それはつまり、敵陣の一角に足を踏み入れることにもなりかねず、危険を伴うことであった。


「我が国が狗奴国からの鉄器調達の要請を拒めば、そなた達の動きを止めようとする動きが生じるかもしれぬ」


 出雲国を去る際、月読に王が忠告した。

 これまで戦いに対しては中立な立場を貫いてきた出雲国が、鉄器技術と諸国の兵力を従えて邪馬台側についたとなると、同盟国の少ない狗奴国はかなり不利な立場に追い込まれる。

 そのため、強硬な手段に及ぶことも考えられるのだ。


「くれぐれも、御身に気をつけられよ」


 出雲国王は、月読の命を狙う輩も出て来る可能性を想定してそう言い、伊予国と一戦を交える事態になれば援軍を送ることを約束してくれた。

 吉備国王もその点を懸念し、伊予国に向かう月読に、鉄の剣で武装した兵士を乗せた船団を用意してくれることとなった。

 月読も次の旅はこれまでにない危険なものになることを覚悟し、吉備国滞在中は、連日牛利と共に剣術の鍛練に励むことにした。





「本日をもって、墓地の造成は完了いたしました。明日からは土を盛っていく作業に入ります。どうかこれからも変わらず、工事の安全を神にお祈りください」


 男鹿おが壹与いよの前にひざまずき、静かに語った。


「大儀でした。明日以降も頼みます」


 壹与はうっすらと笑みを浮かべ、淡々とした口調でこたえた。

 頭を深く下げ、男鹿が祈祷の間を去って行くと、壹与は悲し気な顔をして深いため息をついた。

 彼女の傍らに座った張政ちょうせいは、そんな様子を不安そうな表情で見守っていた。

 表面上は、意識して男鹿への想いを出さぬよう努めていても、隠しきれない想いが少女の全身から滲み出ていた。


「おつらそうですな」


 壹与の心の内をうかがうように張政がそう言うと、壹与は伏し目がちに笑って首を振った。


「必要な情報は私がお伝えしますので、男鹿がこちらに来ることを控えさせましょうか」


「それはやめて!」


 張政の言葉に壹与は突然立ち上がり、大声を上げた。

 張政を見おろすその瞳には、涙が滲んでいた。


「しかし、あの者と顔を合わせるのはおつらそうですので……」


 戸惑いながらそう言う張政の腕をつかみ、壹与は老人の顔を睨みつけた。


「そもそも、あなたが私に男鹿を引き合わせたのよ。なのに今更、彼を私から取り上げないで!」


 壹与の頬には、既に幾筋も涙が流れていた。

 男鹿の前で抑えていた想いが、張政の言葉によって爆発したのだった。

 彼女は恋する想いを封じ、男鹿と国を治める同士として接することを心に決めた。

 それが彼と共に過ごすことが許される唯一の方法だと思ったからだ。

 しかし心の中まで変えることなどできるはずもなく、たとえ心を偽った会話しかできないとしても、毎日少年がここを訪れることを心待ちにしていたのだ。

 なのにそんなひとときさえ奪われては、心の置き場所が見当たらなくなると思った。


「男鹿の気持ちを利用して審神者さにわにしたのはあなたよ! それなのに……!」


 張政の両腕をつかんだまま膝を落とし、うなだれた壹与は声を上げて泣き出した。

 乾いた床に無数の涙の粒が染みをつくっていった。





「男鹿様! こちらにお越しください!」


 壹与との謁見を終え、卑弥呼の墓の築造現場へ戻った男鹿を、現場を監督する役人が遠くから呼んだ。

 目をやると、数人の護衛兵達が、長槍を手に円陣を組んでいるのが見えた。

 ただごとではない様子に急いで駆け寄ると、円陣の中心には、後ろ手に縛られ、頭から布を被せられた男が胡座あぐらを組んで座り、兵士らに槍を突きつけられていた。


「地方から派遣されて来た役夫えきふの中に怪しい者達を見つけまして、声をかけたところ逃げ出したのです。この男だけはなんとか取り押さえたのですが……」


 年若い役人はそう言って、男達が去って行ったと思われる方向へ目を向けた。

 男鹿が捕えられた男の方へ向き直ると、布越しにも足に弓矢が刺さっていることが見て取れた。

 おそらくこの男は護衛兵が放った矢によって負傷し、逃げ遅れたのであろう。


「ご覧ください」


 役人はそう言って、男を覆っていた汚れた布を捲り上げた。


「……!」


 あらわになった男の姿を見て、男鹿は思わず息を呑んだ。

 男の顔も、手足も、黒い入れ墨で覆われていたのだ。


「そして、このようなものを腰に挿しておりました」


 役人は手にしていた剣を鞘から抜き、男鹿の前に差し出した。

 それは、鈍色にびいろの刀身に波紋が浮かぶ鉄の剣だった。


「狗奴国の兵士か?」


 希少な鉄製の剣を、とても身分が高そうには見えないこのような兵士が持っているということは、邪馬台周辺国では考えられないことであった。

 また、特徴的な文様の入れ墨は、狗奴国をはじめとする海人族の傭兵ようへいが、士気を高めるため好んで施すことで知られていた。


「おい! 残りの者達はどこへ行った? お前達の目的は何だ?」


 男鹿は、男の肩を激しく揺さぶって問いつめた。

 男は無言で涼しい顔を少年に向けていたが、突然にやりと不敵な笑みを浮かべた。

 そして次の瞬間、くぐもった声を上げて前のめりに倒れると、その口元から赤黒い血が溢れ出した。


「こいつ! 舌を切ったな!」


 役人は忌々し気に舌打ちした。

 男鹿は男の体を揺さぶって、なおも彼らがここへ来た目的を聞き出そうとしたが、間もなく何も語らぬまま男は絶命した。


「逃げた男は何人だ?」


 男鹿は声を荒げて役人に尋ねた。

 少年の顔は蒼白になっていた。


「四人……、いや五人かもしれませぬ」


 男鹿の気迫に役人は後ずさりしながら答えた。

 男の口から聞き出すことはできなかったが、男鹿には彼らの標的が思い当たっていた。

 それは彼にとって、最も大切な者の命だった。


「現場をたのむ!」


 男鹿はそう言い残すと、今来たばかりの神殿への道を駆け戻って行った。





 男鹿が神殿に駆けつけると、入り口付近で門番が殺されて倒れていた。

 彼は門番の手に握られていた銅剣を手にとり、強く握りしめた。

 幼い日の実家で起こった惨事が目に浮かび、少年の手は震えていた。

 難升米なしめの屋敷でも、壹与や女達を外に連れ出す任務を負った彼に実戦経験はなく、人を殺めたこともなかった。

 しかし、直感で怪しい男達のねらいが壹与であると感じた彼は、柄を握る右手の震えを左手で抑えて目を閉じると、大きく深呼吸した。


(たのむ、動いてくれ!)


 自分の体に懇願し、剣を片手に男鹿は祈祷の間を目指して駆け出した。

 途中、回廊や各部屋にはおびただしい数の侍従や侍女達が血を流し、倒れていた。

 これまで神殿が直接敵に襲われたことはなく、不意を突かれ、護衛兵も間に合わなかったのだろう。

 敵は少数とはいえ、丸腰の侍従や侍女には為す術がなかったに違いない。


 祈祷の間に近付くと、護衛兵が入れ墨をした男達と戦っていた。

 男達の鉄製の剣に対し、護衛兵の銅剣は刃を合わせるたびに刃こぼれをおこし、彼らは我が身を防御するだけで精一杯のようだった。

 男鹿も敵に向かい、剣を突き合わせたが、そのたびに金属片と火花が飛び散った。

 それでも、彼は敵の隙を突いて一人の男の脇腹に剣を差し込み、一気に切り裂いた。

 初めて感じる肉や骨を切る鈍い感触と共に血が飛び散り、彼の顔や衣を赤く染めた。

 幼い頃から牛利ぎゅうりから剣術を刷り込まれていたせいか、頭で考えるより先に体が動いた。


「男鹿様! 大王のもとへ!」


 ひとりの兵が敵と向かい合いながら叫んだ。

 男鹿はうなずくと、祈祷の間へ一気に走った。

 途中、彼の行く手を阻むように敵が現れたが、護衛兵が押さえ込み、それを乗り越えてさらに進んだ。



 祈祷の間に入ると、入れ墨をした男が二人、護衛兵相手に剣を振り回していた。

 床に横たわる兵の数から、彼らがかなりの手練であることがわかった。

 祭壇の前には、両手で剣を構えた張政の背中で、震える壹与の姿があった。


「壹与様!」


「男鹿! なぜ戻って来たの!」


 壹与には、学問に長けた男鹿が剣術に優れているとは思えなかった。

 そのため、自分の身の安全より少年の身を案じたのだ。

 だが男鹿は素早く女王のそばへ駆け寄り、背を向けて立つと、敵と剣の刃を巧みにぶつけ合い始めた。

 しかし、そんな彼の銅剣に目を向けると、刃は欠け、刀身にはひびが入り、折れるのも時間の問題かと思われた。

 鋭く耳をつく金属音が響くたび、壹与は目をきつく閉じた。

 次に目を開けた時、戸口付近で戦っていた護衛兵が、敵にたすき状に斬られて倒れるのが見えた。

 もう、室内には護衛兵で動ける者は誰もいなかった。


「男鹿! これを!」


 追いつめられ、張政の目前まで迫った男鹿の背中に向かい、老人は手に持っていた剣を差し出した。

 張政の剣は、魏で造られた鉄製だった。

 男鹿は、片手に握った銅剣を敵の刃と交えながら、もう一方の手を背中に回し、張政の剣を受け取った。

 両手に握った二本の剣を交差させ、敵の攻撃を押し返すと、彼は素早く銅剣を捨て、鉄の剣に持ちかえた。

 そして、それを両手で握りしめると、そのまま身を屈め、隙のあった男の腹を掻っ切った。


(切れる……!)


 その軽さと切れ味に少年は驚く間もなく、正面から剣を振り下ろしてきたもう一人の男に向かって、屈んだ体勢から一気に剣を振り上げた。

 鉄剣同士がぶつかり合うと、やわらかい銅剣と比べ物にならぬほど、柄を握る手に激しい衝撃が走った。

 そうして刃を交えながら、今度は男鹿が敵を追い込み、壹与から距離を置くように、戸口の方へ移動して行った。


「男鹿様! 残りはそいつ一人です!」


 祈祷の間に駆け込んで来た護衛兵が、入れ墨の男の背後で剣を構えて声を上げた。

 男鹿と兵士に前後を挟まれ、それを聞いた男は舌打ちをすると、いきなり剣を自分の腹に突き刺した。


「こいつ!」


 慌てる護衛兵の前で、男は一度刺した剣を体から引き抜くと、再び今度は自分の胸を突き刺し、その場に崩れ落ちた。

 敵に身柄を拘束される前に、死をもって自分の口を封じるよう命じられているのだろう。

 間もなく男の体は動かなくなった。

 肩で激しく息をつきながら、しばらく男の屍を呆然と見ていた男鹿だったが、我にかえると、慌てて祭壇の方に目をやった。


「壹与様。お怪我は?」


 男鹿の呼びかけに、張政の背後から駆け出した壹与は、一直線に少年の胸に飛び込んで来た。

 思わず男鹿も、片手に剣を握ったまま少女を両手で受け止めていた。


「……よかった……」


 泣きじゃくる壹与の肩を抱きながら、男鹿は大切な者を失わずに済んだ安堵感を噛み締めていた。

 だがその直後、張政が近付いて来る様子が目に入り、彼は身を固くした。


「その剣は、おぬしにやる」


 張政はそう言って、剣の鞘を差し出した。

 てっきり、壹与を抱きとめたことを咎められると思っていた男鹿は、不思議そうな表情を浮かべて老人の顔を見た。


「それで今後も、大王をお守りするのじゃ」


 男鹿が鞘を受け取ると、張政は黙って祈祷の間を出て行った。

 男鹿は鞘を握った左手で壹与の背中を抱き、右手に下げた剣を見つめた。

 その刃には血糊がべっとりと絡み付き、彼の手は爪の中まで赤黒い血で汚れていた。


(もう、戦いは始まっているのだ)


 男鹿は汚れた己の手を見つめながら、改めて女王を命をかけて守る決意を固めていた。





 狗奴国の兵らしき男達に神殿が襲われ、壹与の命が狙われたとの報告は、吉備国にいた月読のもとにも届けられた。


「狗奴国め……。我々は警戒していて襲いにくいとみて、邪馬台を狙ったな」


 報告を受けて、月読は歯ぎしりをして悔しがった。

 今回の件は月読達の動きを察知した狗奴国が、大王である壹与を亡き者にして、同盟国の結束力をそごうとしたものと思われた。

 そこまで考えが及ばず、何も手を打たなかった自分を月読は悔いた。


「壹与に怪我はなかったのか?」


「壹与様は男鹿の働きでお怪我もなく、難を逃れられたようです」


 牛利は少し誇らし気に胸を張った。


「奴は私が幼い頃から剣術を叩き込みましたからね」


 それを聞いて、月読は少し安堵の表情を浮かべた。

 牛利に長年直々に仕込まれたのであれば、その腕は確かであろうと思われたからだ。


「墓の現場は他の者に委ねて、なるべく男鹿を壹与のそばにおけぬのか」


 月読の言葉に牛利は黙り込み、あらぬ方向に目線を移した。


「張政殿が、あまり奴を壹与様のおそばにおきたがらぬのです」


「……?」


「まあ、男の私から見ても、奴はいい男ですからね」


 牛利の口ぶりから、月読には事情が飲み込めた。

 同時に、またしても報われない恋に苦しんでいるであろう壹与を思い胸が痛んだ。

 いずれ巫女の職務から解放されたとしても、邪馬台国の大王にまでなった壹与が、大夫たいふの身分である男鹿と夫婦になることは民も同盟国も許さないであろう。

 男鹿が幼い頃から抱き続けている壹与へ対する想いも聞いているだけに、愛し合いながらそばにいることさえはばかられる二人の心情を思うと、尚更切なかった。


「壹与はまた泣いてるんだろうな」


 月読はそうつぶやき、下唇を噛み締めた。

 壹与にしても、出雲国で出会った夕月ゆづきにしても、巫女とはいえ生身の人間なのだ。

 生きていれば恋もし、神以外の者に心を奪われることもあるだろう。

 それを考えると、死ぬまで巫女であり続けた卑弥呼がいかに偉大であったかを今更ながらに思い知らされた。

 かといって彼は、世にいる巫女達に卑弥呼のような人生を歩んで欲しいとは思えなかった。

 やはり巫女一人に責任を負わせるまつりごとは、とっくに限界に達しているのだ。

 改めて朝廷を造る必要性を感じ、月読は狗奴国との戦いへ向けての意志を固めた。

 そして顔を上げた彼は、真剣なまなざしを牛利に向けて言った。


「牛利、河内国王に使者を送ってくれ。航路で河内国に入って来る怪しいやからの取り締まりを強化するようにと。また、今回の件で不安を抱えているであろう、壹与の力になってやって欲しいと」


 牛利は月読の顔を見つめ、大きくうなずいた。






 夏も盛りを過ぎた頃、河内国王が壹与のもとを訪れた。

 二人が顔を合わせるのは、壹与が女大王ひめのおおきみに即位した際、王が祝いに訪れて以来だった。

 しかし、そのときは数ある同盟国の王達からの祝辞への対応に終始し、親子がゆっくりと言葉を交わす機会はなかった。

 数年振りに向かい合って座った父と娘の立場は、以前とは大きく異なっていた。


「お久しぶりでございます」


 父は娘に深く頭を下げ、両手を床についた。

 邪馬台国に忠誠を誓う河内国の王にとっては、娘といえども壹与の方が立場は上だった。


「お怪我がなくて何よりでした。怖い思いをされましたね」


 不審な者達に命を狙われた壹与に、王はいたわりの言葉をかけた。

 娘の自分に対し、丁寧な口調で語りかける父の姿を、壹与は不思議な気分で見ていた。


「……でも、幼い頃から身の回りの世話をしてくれた、侍従や侍女を多く失いました」


 壹与は、今にも泣き出しそうな表情で小さくつぶやいた。

 そんな女王の顔を見つめ、河内国王は眉をひそめた。

 このまだあどけなさが残る娘が背負っているものを思うと、不憫で仕方がなかった。


「そなたが男鹿か」


 話題を変えるように、王は女王の後ろにひかえる少年に声をかけた。

 男鹿は神妙な面持ちで両手をつき、ひれ伏した。

 改めて背後に愛しい少年の存在を感じ、壹与の頬は微かに紅潮した。

 そんな娘の表情に父は一瞬目をとめたが、すぐに視線を少年の方へ戻した。


「大王の命をお守りしたそうだな。大儀であった。私からも礼を言う」


 王の言葉に、少年は一層身を低くした。


「それだけではないな。よくぞ重い職務を担ってくれたな」


 頭を下げたまま、男鹿は河内国王はすべてを知っているのだと思った。

 壹与にもう神の声が聞こえぬことも。

 そんな彼女に代わって、自分が審神者として神託を偽っていることも。


「大王、少し外の風にあたりながら、お話致しませぬか」


 河内国王は優しく微笑みながらそう言った。





男鹿あのものを、愛しく思われているのですね」


 回廊を歩きながら、河内国王は壹与に語りかけた。

 壹与は唇を噛み締め、父から目を逸らした。

 この話をするために、父は自分だけを外に誘い出したのだ。


「私にはもう神託が聞こえませぬ。既に巫女である資格はないのです。それでも彼を愛してはいけないのでしょうか」


 思わず壹与は、ずっと納得できなかった正直な気持ちを父にぶつけてみた。

 張政と違い、父なら自分の気持ちを理解してくれるのではないかと思ったのだ。


「事実はどうであれ、民達にとってあなたは巫女であり女王なのです。それを裏切ってはなりませぬ」


 予想に反して壹与の肩に手を置いた父は、少し強い口調で言った。


「まるで飾り物だわ」


 うつむいてそうつぶやいた壹与の目から、涙がこぼれて床に落ちた。

 そんな様子を見て父はしばらく言葉を失ったが、気をとりなおして娘の肩に置いた手に力を込めた。


「そうです。あなたは飾り物でよいのです。間もなくあなたの名の下に、三十あまりの同盟国の数千の兵が戦いに身を投じます。中には命を落とす者もいるでしょう。あなたには、彼らの心のよりどころに徹する義務があるのです。特定の者にだけ心を寄せている場合ではありませぬ」


「そんなの無理よ。私にはそんな大きなものは背負えない」


 壹与は涙に濡れた大きな瞳で、父の顔を見つめた。


「あなたは邪馬台国の女王なのですよ。覚悟なさい。卑弥呼様は、民達のために身をも滅ぼされたでしょう」


「私にはそんなことできない。神と言われた卑弥呼様と私では違いすぎる」


 肩を押さえられたまま、壹与は首を左右に激しく振りながら泣いた。


「いいえ、あなたならできるはずです」


 娘の顔を覗き込むように見つめながら、父は少し声を荒げた。

 尚も泣きじゃくる壹与の頬に両手を添えてその顔を上に向けさせると、王は強引に目と目を合わせた。


「あなたは、卑弥呼様の娘なのですから」


 壹与は一瞬聞き違いかと思った。

 しかし、視線の先には赤く充血した父の目があった。

 壹与は両手で口元を覆い、小さく首を左右に何度も振った。


「嘘……、だって、私のお母様は……」


 壹与は優しかった母、姉姫えひめの面影をうっすらと思い浮かべていた。

 母を失った時、まだ幼かった彼女の記憶はおぼろげであったが、そのまなざしがいつもあたたかかったことは確かだった。


「あなたは、卑弥呼様と私の娘なのです……」


 河内国王は、壹与の頬に添えていた手を再び彼女の肩に置き、深くうなだれた。

 壹与は立ち尽くしたまま、ただ呆然と父の肩越しに天高く立ち上る夏の雲を見つめていた。

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