第三話 守れなかったもの

 月読つくよみ達一行は、しばらく河内国かわちのくにへ滞在することとなった。

 河内王が彼の率いる兵の全てに鉄剣を用意するには、時間を要したからだ。

 月読としては旅を急ぎたい気持ちもあったが、少しでも戦いを有利にするためには鉄の剣が不可欠と判断したのだ。

 また王は旅立つ彼らのために、新しい船も造り始めてくれていた。

 大陸からまだ馬が持ち込まれていなかったこの当時、狗奴国くなこくまでは時間的にも兵士の体力温存のためにも、海を航行していくことが最も合理的であったのだ。

 河内王がここまでしてくれるには、月読と言葉媛ことのはひめとの結婚で血縁関係になったことも大きかったが、女大王として幼くして大国を担うこととなった娘壹与いよを、倭国統一によって早く解放してやりたいという父親としての思いもあった。

 そして、これらの恩に対し、月読は狗奴国への道すがら出雲国いずものくにに立ち寄り、鉄の材料であるはがねを仕入れる道筋を確保してくることを約束したのだった。

 当時の倭国内において、出雲の国に住む渡来人が唯一優れた鋼の生成技術を持っていた。

 現状は海外から仕入れている鋼を国内で調達できれば、剣のみならず農具なども短期間で安価に作ることができ、農作業の効率も格段に上がる。

 また、それらを売ることで河内国も潤うはずなのだ。


 旅立つまでの間、月読の兵達は、大雨のたびに氾濫する河内湖の排水用水路の掘削工事に汗を流した。

 それには、魏で土木技術を学んできた牛利ぎゅうりが中心となって動いた。

 勿論、この国でも大雨時は巫女の祈祷に頼るのが当然だったが、知恵によって災害を最小限に抑えることができるということが、少しずつ民達にも理解されつつあった。




 その日、工事の進み具合を確認するため現場を訪れた月読の目に、見知らぬ男と語り合う牛利の姿が映った。

 肩を叩き合って笑顔を交わす様子から、旧友と久しぶりに会った様子だった。

 月読が牛利の背後から近付くと、男の話す内容が聞き取れた。


「その後、許嫁いいなずけとは添遂げられたのか?」


 思わず月読は足を止めた。


「いや、あの方とは結ばれなかったよ」


「さすがに十年は待てなんだか」


 苦笑して男から目を逸らした牛利の視界に、月読の姿が入った。

 牛利は一瞬驚いたような表情を見せたが、男の方を向き直って言った。


「おい、頭が高いぞ。このお方は邪馬台国の皇子、月読命様だぞ」


 それを聞いて男は慌ててひれ伏し、深く頭を下げた。





「あの者は魏にいた頃、張政ちょうせい殿から共に魏の学問を学んだ仲間です。旅の途中、偶然ここを通りがかったそうです」


 牛利は月読に目を合わそうとせずに淡々と語った。


「許嫁がいたのか」


「……」


「お前は、結婚はしないと言っていたが」


 月読は以前から、牛利には何か深い事情があると感じていた。


「よければ話してくれぬか。家臣のことを知りたいと思うのは、あるじとして当然であろう?」


 牛利は視線を外して唇を噛み締めた。

 しばし苦渋の表情を浮かべていた大男は、やがて意を決したように月読の方へ向き直った。


「私の許嫁は男鹿おがの姉です。彼女は難升米なしめによって命を落としました」





 牛利は、難升米の母の実家である豪族の家に生まれた。

 彼の家は代々、邪馬台国の南の端で山際の小さな集落を治めていた。

 川を挟んだ向こう岸にも集落があり、そこを治めていた豪族が男鹿の実家であった。

 二つの家は互いに交流し合い、牛利と男鹿の姉である弥鈴みすずは、親同士が許嫁と決め、本人達も将来夫婦になることが自然なことであると思い育った。

 ところがある日、難升米が卑弥呼から魏へ赴くことを命じられ、身内の中でも腕の立つ牛利は、護衛として同行するよう要請を受けたのだ。

 当初は、魏の皇帝へ女王の言葉を届ければ、任務は終わると聞かされていた。


「お帰りをお待ちしています」


 幼い頃からずっとそばにいた二人にとって、それは初めて経験する長期の別れであった。

 だが、すぐに戻るという牛利の言葉を信じ、弥鈴は笑顔で彼を見送った。

 まだ少年と少女だった彼らは、口づけだけを交わし、帰国後夫婦になることを誓い合って、その日は別れた。



 しかし、皇帝に謁見し金印を賜っても、難升米は魏に留まり続けた。

 彼は早々に金印を持ち帰り、卑弥呼の権力を確固たるものにしたくなかったのだ。

 やがて魏と呉の国境近くに居を構えた難升米は、両国間で小競り合いがあるたびに兵をあげ、牛利を筆頭に戦わせた。

 そして、戦に勝利するたび皇帝から褒美を賜り、贅沢な暮らしを続けていた。

 そんな日々続く生きるか死ぬかの戦いの中で、牛利は弥鈴に再会できる日だけを心の支えに生きていた。


「ここで死ぬ訳にはいかぬ」


 その思いが、時には彼を凶暴な殺人鬼に変貌させ、数えきれない数の敵を殺めてきたのだ。

 そうして十年が過ぎた頃、ようやく難升米は国に帰ると言い出した。

 幼かった月読が成長し、審神者さにわとして民の信頼を集め始めているとの噂を聞き、彼が大王に即位する前に倭国に戻ることにしたのだ。

 帰国後、牛利はすぐにでも弥鈴のもとへ飛んで行きたかった。

 だがなかなか暇をもらえず、焦る気持ちを抑えながら、その後も難升米に仕え続けた。




「お前の実家は山に近かったな」


 ある日突然、難升米が牛利にそう尋ねてきた。

 牛利がうなずくと、難升米は吐き捨てるように言った。


「明後日、兎狩りに行く。お前の実家に泊まるゆえ、用意しておくよう伝えておけ」




 狩りを楽しんだ難升米は、夕刻、共の者達を引き連れて牛利の実家を訪れた。

 直系でないとはいえ、難升米も皇家の血をひく人間だ。

 急に決まった高貴な客の来訪に、田舎豪族である彼の実家は混乱していた。

 牛利は貴人のもてなし方を知らぬ侍女達に、酒や料理の指示を与えるため、座敷と台所の間を忙しく行き来していた。


「牛利様」


 不意に背後から懐かしい声が聞こえ、振り返るとそこには酒の瓶を抱えた弥鈴がいた。

 彼女は大切な客を迎える彼の実家を手伝うため、ここを訪れていたのだ。


「弥鈴……」


「おかえりなさいませ」


 大人になった弥鈴は、しっとりと色香を帯びた瞳を彼に向けていた。

 牛利はこの瞬間まで、既に彼女は別の人生を歩んでいるかもしれないと思っていた。

 だが彼女の言葉から待ち続けてくれていたことを悟り、込み上げる愛しさで胸が熱くなった。

 しかしその場では、まずは客人をもてなすことが先決と、難升米が眠りについた後に会うことを約束し、それぞれの持ち場へ戻ることにした。

 笑顔で手を振った弥鈴は、その足で難升米のそばへ赴き、盃に酒を注いだ。

 この時忙殺されていた牛利は、弥鈴へ向けられた難升米のねっとりとした視線に気が付かなかった。


 その夜、牛利の寝所で落ち合った二人は、改めて再会を喜び合った。

 そして、十年振りに口づけを交わし、契りを結んだ。




 数日後、弥鈴の父が難升米のもとへやって来た。

 難升米は床に寝そべった姿勢で盃を舐め、弥鈴の父を睨みつけていた。

 その傍らに座る牛利の視線は、委縮して肩を震わせる弥鈴の父に注がれていた。


「わしの望みが聞けぬというか」


「……申し訳ございませぬが、娘には心に決めた方がおりますゆえ……」


「それは誰かと聞いておる」


「……申し上げられませぬ……」


 牛利の実家を訪れたあと、難升米は弥鈴を側女そばめとして献上するよう彼女の実家に命じた。

 二人の気持ちを知る父は、意を決して難升米のもとへ断りを入れに来たのだ。

 王の一族に逆らうなど、打ち首も覚悟の上での行為であった。

 しかも彼は、牛利の名を決して出そうとはしなかった。

 自分の命と引き換えにしても、娘の愛する人を守ろうとしていたのだ。


 牛利は心の中で葛藤していた。

 いっそ名乗り出ようかと思いながらも、必死に自分を庇ってくれている父の思いを無にすることもできなかった。


「わかった。そこまでかたくなならば仕方あるまい」


 難升米は意外にあっさりと断りを受け入れた。

 弥鈴の父は一瞬呆気にとられたようだったが、間もなく肩を大きく落とし、安堵のため息をついた。



 帰路につく弥鈴の父を、牛利は難升米の屋敷の門まで送った。


「早く娘を迎えに来てやってください」


 父は牛利の手をとって、懇願するように言った。


「娘盛りに縁談を断り、あなた様を待ち続けた娘を、必ず」


「はい。必ず」


 牛利は意志の固い瞳を弥鈴の父に向けた。

 彼は近く難升米のもとを去り、郷へ帰る決心をしていた。

 その目を見て安心したのか、父は笑顔で手を振り、南へと帰って行った。




 それからしばらく経ったある夜、胸騒ぎを覚えて牛利は目を覚ました。

 深夜の難升米の屋敷の庭を駆け抜け、鎧兜や太刀が納められた武器庫を覗くと、もぬけの殻だった。


「まさか」


 慌てて難升米の兵が眠っているはずの小屋の扉を開け放ったが、そこに兵士らの姿はなかった。

 次に屋敷の門へ行き、門番を問いつめた。


「おい! 兵達はどこへ行った?」


「何でも南の豪族を取り壊しに行くとか」


「なんだって?」


 牛利の顔から一瞬で色が失われた。

 これまでの難升米のやり口を考えると、弥鈴を力ずくで手に入れるため、彼女の家を兵に襲わせるつもりに違いない。

 自分に知らせなかったということは、難升米は弥鈴の相手が自分だと気が付いていたのかもしれない。

 牛利は門番から銅剣を奪い取ると、脇目も振らずに南に向かって走りだした。




 牛利が弥鈴の屋敷に辿り着くと、既に屋敷のあちこちから炎が上がっていた。

 玄関先からおびただしい数の使用人や、護衛の兵達の死体が屋敷の奥へと続いていた。

 彼は目の合った難升米の兵士を、手当り次第に斬り捨てながら奥へと進んで行った。

 通いなれた座敷に足を踏み入れた時、数人の兵が弥鈴の両親を取り囲み、その胸を剣で突き刺していた。

 牛利は吠えるような声を上げて、兵達の体を上下左右に切り裂いた。

 両親の向こうには、炎が迫っていた。

 急いで弥鈴の父のそばへ駆け寄り、抱き起こしたが、彼は既に瀕死の状態だった。

 血に染まった手を伸ばして、父はさらに屋敷の奥を指差した。


「……弥鈴が……この……奥に……」


 父は牛利の手を握りしめ、声にならない言葉を目で語った。


(弥鈴を頼みます)


 その手を強く握り返して何度もうなずくと、父は安心したような表情を浮かべて息絶えた。

 その体を丁寧に床に置き、立ち上がろうとする牛利の足首を何者かが掴んだ。

 瞬間に剣を構えたが、それは血だらけで床を這ってきた弥鈴の母であった。

 彼女は絶え絶えの息で牛利に訴えかけた。


「……男鹿が……息子が……屋敷のどこかに……」


 弥鈴に歳の離れた弟がいることは、彼女から聞いていた。

 牛利が魏に渡ってから生まれたと聞いていたので、まだ年端のいかない少年のはずだ。


「わかりました。必ず助け出します」


 牛利がそう答えた瞬間、母は口から血を吐き、足を掴む手から力が失われた。




「弥鈴!」


 牛利は声を張り上げながら、狂ったように太刀を振り回し、片っ端から兵士達を殺めていった。

 兵士の中には、これまで共に戦ってきた仲間もいたが、もはや躊躇はなかった。

 屋敷の一番奥の部屋の入り口まで来たとき、二人の兵士が剣を手に襲いかかって来た。

 牛利はそばに倒れていた兵士の死体から剣を奪うと、それらを両手に構え、片方で一人の腹を切り裂き、もう一人の首に別の刃を突き刺した。

 そうして部屋に足を踏み入れた彼が目にしたのは、胸に短剣を突き立てて横たわる弥鈴の姿だった。

 彼女は無理矢理連れ去られるくらいならと、自らの胸を刺したのだ。


「弥鈴!」


 抱き上げると、まだ微かに息があった。

 弱々しい涙に濡れた瞳が牛利の顔に向けられたが、視線が定まらず意識が朦朧もうろうとしているようだった。

 しかし一瞬、彼女の視線が彼の瞳を捕えた。


「……おかえりなさい……」


 消え入りそうな声でそう言って弥鈴は微笑み、血に染まった震える手で牛利の頬に触れた。

 だが、その手は間もなく彼の頬に血の色の筋を描いて床に落ちた。


「弥鈴!」


 牛利は動かなくなった女の体を何度も揺さぶり、反応がないことを思い知ると、堅く抱きしめた。

 十年という長い時間、彼を待ち続けてくれた女を守れなかった。

 これまで何百人と殺めてきた彼であったが、ただ一人の命も守れなかったという無力さを、この時心の底から感じていた。




「……ひっ……ひっ……」


 その時、しゃくり上げる幼い子どもの声が耳に入ってきた。


「男鹿か……?」


 部屋の奥を見ると、血しぶきに染まった天幕が微かに揺れていた。

 弥鈴の体を床に寝かせ、剣を再び手に取った彼は、一気に天幕を捲り上げた。

 そこには震える小さな少年の背中があった。

 少年は涙で濡れた不安気な瞳を、肩越しに牛利に向けていた。


「来い。お前は何がなんでも生き残るんだ」


 牛利は右手に血の滴る刀を持ち、左の手のひらを少年に向かって差し出した。





 その後、この夜の出来事を咎められ、命も失うかもしれないと覚悟していた牛利であったが、難升米は彼に何の処分も下さなかった。

 難升米の兵を全滅させたのが牛利であることは薄々気付いていたはずだが、生き残った者がいない以上、何が起こったのか誰も語ることができなかったのだ。

 もしくは牛利ほどの戦闘能力を有した男を、手放すのは惜しいと考えたのかもしれない。

 牛利は男鹿を孤児を拾って来たと言い、小間使いとして難升米の屋敷に住まわせた。

 その際、少年には決して自分の出どころを口にせぬよう言い聞かせた。

 そして、時折剣の稽古をつけてやりながら、何度も語りかけたのだった。


「お前の家族の仇は、必ず私が討ってやる」


 大切な者を守れなかった彼にとって、男鹿を守り、彼に代わって仇を討つことは、罪滅ぼしの意味もあったのだ。



 しばらく経ったある日、牛利に魏の言葉で話しかけてくる者があった。

 長年大陸で過ごした彼は、魏の言葉でも不自由無く会話ができた。

 話しかけてきた男は、魏にいた頃、戦いの合間に学問を学んだ張政という名の役人だった。

 牛利達と共に邪馬台にやって来たこの老人は、なぜかそのまま滞在し続けており、牛利は今でも時折知恵を借りていた。


「おぬしに見せたいものがある」


 物陰に場所を移すと、張政は懐から紫色の布を取り出した。

 彼が手のひらの上でそれを開くと、小さな白く輝く物が現れた。


「……金印? いや、これは……?」


 帰国後、卑弥呼に謁見した際、難升米に代わって金印を献上した牛利にはその形状に見覚えがあった。

 しかし、その時のものとは明らかに色が違った。


「これは銀印じゃ。魏の皇帝より預かって参った」


 張政は素早くそれを布で包むと、再び懐に納めた。


「これを難升米に渡そうと思うが、おぬしはどう思う?」


「何ですって?」


 思わず牛利は顔色を変えて小さく叫んだ。

 先日の嵐の夜、激しい祈祷の末卑弥呼が命を落とし、以来月読が女王を偽って政を行っていた。

 だが、月読がまだ幼いことをいいことに、難升米が実権を握り、この国を思うがままに動かしていたのだ。

 そんな男に魏の後ろ盾を意味する印など与えれば、一層権力を振りかざし、好き勝手するに違いない。


「正直な奴よのう。おぬしは難升米の家臣であろう」


「……」


「よいよい。わかっていておぬしに声をかけたのじゃ」


 張政は笑みを浮かべて、戸惑いを隠せずにいる大男を見上げた。


「魏の皇帝は、呉との戦いに貢献した難升米にこれを与えようとされた。しかし、どうもあの人物に不信感を抱いておられてな。これを持つのにふさわしい人物であるかを見定めるよう、仰せつかって来たのじゃ。逆に言えば、今後この国の大王となった時、魏に忠誠を誓わない恐れがあると判断した場合は、始末しろということじゃ」


 牛利はごくりと喉を鳴らし、思わず拳を握りしめた。

 張政の口ぶりから、彼の判断は後者に違いないと思ったのだ。

 にわかに難升米に仇を討てる日が近付いた気がして武者震いがした。

 そんな牛利の様子を見て、張政は落ち着いた様子で語り続けた。


「まあそう慌てるな。今はまだその時期ではない。今難升米を亡き者にしても、月読様も壹与様もまだ幼く、国が乱れる恐れがある。お二人の成長を待ち、その間に密かに強固な兵を用意しておくのじゃ。その大将をおぬしに頼みたい」


 牛利は一瞬落胆したが、彼も復讐を急ぐために国を乱すことは望まなかった。


「そしてその仕事が終われば、次はおぬしに月読様の片腕となって狗奴国を平定し、魏のまつりごとをならった朝廷を開いて欲しい」


「朝廷を……ですか?」


 牛利は魏で暮らし始めた頃、占いに頼らない朝廷での政を知った時、衝撃を受けたことを思い出した。


「魏の皇帝は、この国の人々の実直さを評価されている。しかし、占いに頼っている政には不安を感じておられる。巫女の神託次第では、魏への忠誠も反故にされる恐れがあるのでな」


「しかし、この国に魏と同じやり方が通用するでしょうか」


 陸つながりで国がせめぎあう大陸と違い、小さな島国である倭国の民にとって、最大の敵は自然そのものだ。

 だからこそ万物に神が宿るとし、それらを敬うことで救われると信じている。

 そんな人々に神託を捨てることなどできるのであろうか。


「確かに、この国の者達には崇め奉る対象が必要のようじゃ。力でものを言わせるよりも、血の尊さに尊敬の念を抱くようじゃしな。だからこそ、神の血をひくといわれる月読様を君主として、朝廷を造るのじゃ」


 月読を君主にした朝廷。牛利もそれならこの国でも受け入れられるように思えた。


「大陸では戦で勝利した者が王をかたるため、争いごとが常に絶えない。今も三つの大国がそれぞれ王を立て、血で血を洗う戦いが続いている。そのことはおぬしも身を持って感じてきたであろう」


 魏にいる頃、牛利は難升米の指示で呉と戦う日々を過ごしていた。

 彼の脳裏には、その頃目にした惨たらしい戦場の様子が生々しく浮かんでいた。

 毎日のように女子ども関係なく、数えきれない数の罪の無い人々が殺害され、無造作に捨てられた死体で川が埋もれるほどになることもあった。


「この国ならば、魏よりも理想的な朝廷が造れるような気がするんじゃ。どうじゃ、共にこの夢を実現させぬか」


 牛利は大きくうなずき、まっすぐ異国の男の目を見据えた。





 牛利の話を聞き終えた月読は、しばらく言葉を失っていた。


「すまなかった。何も知らず、お前のことを疑って……」


 ようやく言葉が出てきた月読は、そう言って牛利に深く頭を下げた。


「もったいない! よしてください」


 慌てて牛利は月読に姿勢を戻すよう促した。


「お前は家族がいると命が惜しくなると言っていたが……」


「同じことです。弥鈴を失って、私にはもう何も失うものはありませぬ。数多あまたの命を奪ってきたこの穢れた命でもよろしければ、あなた様のために喜んで差し出します」


 月読は再び言葉を失い、牛利の瞳を見つめた。

 そしてしばらくして、真剣なまなざしを大男に向けて言った。


「いつか邪馬台に戻ったら、お前の妻の生家のあった所にやしろを建てよう。そしてお前はその社を守り、穏やかに暮らすのだ」


 月読の言葉に、牛利は信じられないという表情で何度も小さく首を振り続けた。

 何より、月読が弥鈴を自分の妻と呼んでくれたことが嬉しかった。

 この時初めて、天から二人のことを夫婦として認められたような気がしたのだ。


「社を守る者がいなくては困る。だから絶対にお前は死ぬな」


 月読は牛利の腕を掴み、まっすぐな力強い視線で大男を見つめた。

 牛利は、思わず嬉し泣きしている自分に気が付いた。

 どんなに苦しくても、哀しくても、涙など出なかった自分が、こんなに涙もろいとはこの時初めて知った。

 そして改めて、この若い皇子を命をかけて支え続けようと心に決めたのだった。

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