第三話 淡い想い

 月読つくよみが女王卑弥呼ひみこを偽り始めて、八年が過ぎようとしていた。

 これほど長きに渡って事実を隠し仰せたのも、ひとえに難升米なしめの巧みな演出の賜物であった。

 難升米は卑弥呼をより神格化させ、民衆にとってできるだけ遠い存在とし、また人々がそう思うよう仕向けたのである。

 女王は神殿の奥へ籠りきり、神託はすべて月読が審神者さにわとして伝えた。

 ただ年に一度、収穫祭の幕開けにだけ月読の扮する卑弥呼を人々の前に立たせたが、それも女王の死亡説等を払拭する目的であったと思われる。

 しかし、その年に一度の対面でさえ御簾みす越しで、また女王が言葉を発する事もなかった。

 ただでさえ瓜二つの姉弟である。

 巫女の衣装を身に着けた月読を疑う者はなかったが、難升米は用心を重ねたのである。

 肝心の神託は、幼い壹与いよが神より賜ることとなった。

 あの悪夢のような夜以降、壹与の巫女としての能力は開花し、修行を重ねることでより正確さを増していった。

 とはいえ、まだまだその能力は未熟であったが、金印の効力により倭国内が安定し、大規模な災害に見舞われなかったこともあり、大きな混乱に至ることはなかった。

 こうして難升米の計画は見事に実を結び、人々に卑弥呼を大王としてではなく神として崇めさせ、現在に至ったのであった。




 壹与は難升米が嫌いだった。

 彼のどこがという訳ではなかったが、その話し方も、行為も、すべてが少女は気に入らなかった。


「第一なによ。あの月読に対する態度」


 彼女が難升米を嫌う要因の大部分が、この一点にあると言ってよかった。


「月読は、あいつの所有物じゃないわ」


 卑弥呼の死以降、まつりごとのすべては難升米を通した上ですすめられてきた。

 月読も「あの男に任せておけば誤りはないから」と決定権を委ねてきたのだ。

 三年前、月読は妻を得た。

 難升米の娘で名を宇多子うたこというのだが、それがまた壹与は気に入らなかった。


「月読も月読よ。あの男のひと言で、好きでもない女を妻に迎えたりしてさ」


 宇多子は父親に似ずとても美しく、また控えめで優しい人柄のため、壹与も彼女を嫌うことはできずにいた。

 月読もこの妻が気に入っている様子で、「宇多子、宇多子」と名を呼んでは、「はい。はい」と答える涼やかな声を楽しんでいるようだった。

 宇多子は嫌いじゃない。

 でもなぜか彼女が優しく微笑むと、やけにまぶしく、思わず壹与は目をそらしてしまうのだった。


 若い夫婦は、どこかへ出かけるとなると必ず壹与も誘った。

 別に断る理由も無いので、いつも彼らの後についてゆく壹与であったが、なぜか仲睦まじい月読達の姿を目の当たりにすると、少女の胸はちくちくと痛んだ。

 それは恋と呼ぶにはあまりに幼稚な感情であったが、彼女にとっては生まれて初めて味わう得体の知れぬ切なさであった。




「壹与、散歩にゆこう」


 壹与が祈祷の間で修行をしていると、いつものように月読が誘ってきた。

 祭壇から向き直った彼女は、乱れた髪を指先で整えながら、戸口に立つ青年を見据えた。

 月読は壹与のそばまで来ると、向かい合ってゆっくりと腰を下ろした。


「今日は、お妃様はご一緒でないの?」


「宇多子は市へ出掛けたよ。新しい紅が欲しいそうだ」


「そう……」


 言いながら壹与は嘘だと思った。

 宇多子は美しい衣や化粧など、あまり関心のない女なのだ。

 衣は清潔であれば、化粧は素肌が美しければそれで十分というのが口癖の彼女が、紅が欲しいからといそいそと市へなど出向くはずがない。

 おそらく月読が「たまには市へ行って紅でも買ってこい」と、送り出したのであろう。

 つまり、宇多子抜きで壹与と話すための口実である。


「しばらくお待ちを。衣を替えて参ります」


「いや、そのままでいい。巫女の装束は好きだ」


 立ち上がろうとする壹与を、月読が手を引いて止めた。


「そんな風にしていると、本当に姉上にそっくりだね」


「卑弥呼様に?」


 壹与は改めて自分の姿を眺めた。


「それを言うなら月読の方が……」


「私は、姉上に似ているだろうか……」


 月読に見据えられ、壹与は言葉を失った。

 確かに今の彼の顔は、八年前からすればずいぶん変わっている。

 ふっくらとしていた白い頬は、骨格に沿って無駄の無い輪郭を見せ、浅黒くさえなっている。

 目鼻立ちもより深く緊張感を漂わせ、少年ぽさは消えていた。

 どこから見ても立派な、たくましい青年である。

 果たしてそんな彼が、女性である卑弥呼に似ていると言えるのだろうか。


「そりゃあ、ご姉弟ですもの……」


 言ってから、壹与は自分の発言を恥じた。

 月読がそんな幼稚な意見を求めているのではないことぐらい、判りきっていたはずなのだ。


「私が姉上の姿を偽るのに、無理がないかということだ」


 壹与の答えに、月読は少し落胆したようだった。

 彼はこの十三歳になったばかりの少女に、少女としての意見を求めない。

 いつでも、一人前の巫女としての発言を期待しているのだ。

 しかしそれは、彼女が卑弥呼の死後、影の巫女としての役割を果たしてきたため、信頼してのことだった。


「もう八年経った。そろそろ真実を話してもよい頃ではないのか。卑弥呼が既にこの世の者ではないことを」


「私はいつでもそう思っていましたよ。月読が王になれば済むことではありませぬか」


「しかし、難升米が……」 


 月読は唇を軽く噛み締めた。

 彼の中でも、最近難升米は目障りな存在になりつつあるのだ。


「なぜ月読があの男に遠慮せねばならぬのです? 所詮、あの者は家臣でしょう?」


 月読が宇多子を娶って以降、難升米の横暴振りには目に余るものがあった。

 まさに影の王であるかの様な振る舞いで、富と権力を我がものとし、月読へ対する態度も横柄になっていった。

 民からは収穫量に関わらず、年々厳しく税を取りたて、それをもとに魏の様式を取り入れたきらびやかな私邸を作り、美しい娘がいると聞くと、無理矢理にでも連れて来て侍らせていた。


「だが、あの男がいなければ、ここまでこられなかったのも事実だ。それに……」


「……お妃様のこと?」


「ああ。難升米を排除することで、宇多子まで失いたくない。あれは、あの男の娘だしな」


 壹与は突然、目頭が熱くなるのを感じて床の上へ視線を移した。

 この時初めて、宇多子を憎いと思った。

 あの女は何も知らない。

 卑弥呼の死も、偽りの卑弥呼の正体も。

 それでいて、見えないところで月読を縛り付けている。

 そんな宇多子が、理由もなく恨めしかった。


「では、難升米に相談してみることですね。私には何もできません」


 壹与は無表情にそう言いながら、宇多子を月読に与えた難升米を、やっぱり嫌いだと思った。


「そうだな。……そうだ、散歩に誘っていたんだったね」


 突然、思い出したかのように月読が膝を打った。


「いい。修行中なの」


 壹与は月読に背を向け、祭壇に向かって再び祈祷を始めた。

 そんな壹与の背中をしばらく見ていた月読は、やがてぽんと少女の肩を叩くと、「じゃあ、また」と言って祈祷の間から出て行った。

 月読が去って行くのを背中で感じながら、壹与の心はひとところに留まらず、結局その日一日、彼女は神の声を聞くことができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る