14-8


竜姫たつきさんを、返してもらうぞ……!」

「ひっひっひっ! そいつは無理な相談じゃなぁ……」


 黒い力が極限まで濃縮したような球体の、奥の奥、まるでエアポケットのように、そこだけ、なにも存在しない空白のような空間に用意されていた、気味の悪い紋様が複雑に組み合わさった結界の上で、俺と老婆は、にらう。


 ここはまるで、俺を待ち受けるための、死刑場のようでもあった。


「アレには、その命をささげて、黄泉の門を開いて貰わんと、困るからの……!」


 しかし、そう言いながら足元に目を向ける老婆を見れば、ここが、ただの足場ではないことは、すぐに分かる。とはいえ、門というわけでもないことも、足元の紋様を見定め、その力の流れを分析すれば、理解できた。


 あえていうならば、これは俺を足止めするための壁であり、ふただろう。


 つまり、竜姫さんがいるのは、このさらに、下だ。


「とはいえ、あの娘には、同情しとるよ。そしてもちろん、感謝もな?」


 しかし、いくら破壊しようとしても、この足場はらぎもしない。おそらく……、というか、間違いなく、その原因は、余裕の笑みを浮かべている老婆だろう。


 つまり、奴を倒すしか、先に進む方法はない。


 だけど……。


「永遠に我を封じたくば、龍脈に触れられる王の力なぞ、残すべきではなかった! そんな血脈なぞ、絶やしてしまえばよかったのに!」


 芝居がかった大振りな仕草で、わざとらしく隙を見せた老婆の誘いに、そう簡単に乗るわけにはいかない。


 下手のことをすれば、終わるのこちらだと、俺の超感覚がげていた。


「しかし、奴らには、それができなかった……。いやさ、神器に干渉する可能性を、この地に生きる全ての人の子にあたえ、その発芽を待ったのだから、もしかして、長き時がてば、いつか龍脈の力を、制御できると期待したのかもしれんが……」


 まるで、見てきたかのように……、いや、おそらくは実際に、遥かな昔から、全て見てきたのだろう老婆が、不気味に笑った。


 もしも、奴の言葉が真実ならば、八咫竜やたりゅう隠匿いんとくされていた情報も、後世こうせいに黒い力のことを、伝えるためだったのだろう。


 果たして、遠い遠い昔の誰かは、いったいなにを考えて、後の世に、龍脈に触れるための力を伝えたのか、なにを思い、消し去りたい過去を、伝承として残したのか、なにを祈って、気の遠くなるほど未来に、神器を動かし、封印を解いてしまうという危険な可能性を残したのか……。


 俺には、分からない。


「それこそが、傲慢ごうまんよ! そんな時なぞ、永遠におとずれぬというのに!」


 しかし、あの老婆は、そんな先人せんじんの思いを、無駄だと断じて、笑い飛ばす。


「だからこそ、そんな傲慢を押し付けられた子供の、あの娘と、そして、もちろん、お主にも、同情はしておるよ。言ってしまえば、ただの犠牲者じゃからな」


 だけど、そんなことは、どうでもいい。


 遠い昔の誰かの思惑も、それを笑う老婆の過去も、どうだっていい。


 大切なのは、その誰かのおかげで、俺と竜姫さんは、出会ったということだけだ。


「とはいえ、同情はしても、加減はせんがな。ひひひっ、ああ、そうよ……」


 ひとしきり、言いたいことは言い終えたのか、うつろに笑う老婆が、その全身の力を抜いて、だらりと腕を下ろし、天をあおぐ。


「加減なんてしていたら、可愛い子供に、死という救いを、さずけられぬ!」


 からっぽの瞳で、なに一つ存在しない漆黒を眺めながら、枯れ木のような老婆は、そのしわだらけの顔を、くしゃりとゆがませる。


「だから、感謝してるのよ……。まだわずかとはいえ、外側から、門を開いてくれた、あの娘のおかげで……」


 そして、最後に、その喉から、震えるような声を絞り出した……。


 その刹那。


「ようやく、わらわが、表に出られる……!」


 見慣れた老婆の姿が、まるで、最初から存在しなかったかのように、ちりとなって、呆気あっけなく、見る影もなく、ボロボロと、崩壊する。


 そして……。


「我が名は、伊邪那美いざなみ……、死の神にして、黄泉の主なり……!」


 老婆の残骸から、音もなくるように現れたのは、異形の怪物だった。


 あくまで簡単に表現するならば、見上げるほどに大きな黒い真球の頂点に、人型のシルエットが生えているとでも形容すればいいのだろうか。


 そう、シルエットだ。あくまでも、人の形こそしているが、その顔には、目も鼻も口もなく、ただその輪郭で、若い女性のように見えるというだけで、印象としては、デッサン用の人形に近い。


 ただし、その黒い体表がケロイド状にゆがみ、じゅくじゅくと不気味にうごめく様子を見れば、それが無機質な人形だとは、とても思えない。


 そこにいるのは、間違いなく、神を名乗る……、怪物だ。


「さあ、それでは、お主にも……」


 怪物と成り果てた老婆……、いや今は、もはや口調どころか、声すら変わり、その全身を震わせた異形が、高らかに両手をかかげた。


 その神々しさすら感じる異様に、俺の本能が、戦慄と共に理解する。


 あれこそが奴の、八百比丘尼やおびくにを名乗っていた老婆の、真の姿だと。


「死という名の、救いをあたえてやろうぞ!」


 そして、伊邪那美を名乗る死神が、なにかに陶酔するように、声の調子を上ずらせながら、不吉な宣言を叫んだ瞬間、下半身ということになるのか、奴の黒い球体が、不気味な鳴動を見せながら、波紋のように波打ち始めて……。


 ……くる!


「――ふっ!」


 まるで、鋭い刃が肌に触れているような緊張感の中で、それでも、相手の動きを、正確に見極めた俺は、伊邪那美の球体から、恐ろしい勢いで飛び出した、無数の黒い触手を、ギリギリで回避することに成功した。


 よし、やはり今の俺には、ちゃんと見えている……!


「死が救い? ずいぶんと、乱暴だな!」

「ははははっ! 教えてやるぞ、小僧! 愛とは、乱暴なものなのだ!」


 空間に黒い線を引くように、こちらにせまる触手を回避しながらも、なんとか距離を詰められないかと、俺は隙を探すが、なかなかに難しい。


 触手の動きに、規則性はなく、僅かな動きで避けようにも、慣性なんて無視して、鋭角な方向転換を行う上に、数が多すぎるために、どうしても、回避は大きな動きになってしまい、接近することすら困難だ。


 さらに、神器の力で破壊しても、破壊した瞬間には、一瞬すらもかからず、即座に補充され、そのまま襲われてしまうので、意味がない……!


「そう! 死こそ、救いぞ! 確かに、最初は妾を裏切った者たちを恨みもしたが、長い長い時の中では、そんなものに、意味などないと悟ったわ!」


 ネズミのように逃げ回るしかない俺に対して、その場から、動くことすら必要ない伊邪那美は、余裕の声で、身勝手な持論を語りながら、さらに触手の数を増やす。


 姿勢を低くし、全力で駆けるが、あの黒い力に対し、速度で振り切ろうとしても、無駄なことは、もう分かっている……!


「どれだけの栄華えいがほころうと! どれだけの武勇ぶゆうせようと! どれだけの悪事を働こうと! 時が流れれば、人は死ぬ! 死んで全ては、無に帰る!」


 そんなことは、分かってる。伊邪那美の言っていることは、ある意味では当然で、この世に生きる者ならば、避けようのない現実だ。


 しかし、そんな当たり前のことを、なにをそんなに、大袈裟に語っているのかと、反論してみる余裕すら、俺にはない……!


 あの触手の欠片にすら、絶対に触れるなと、俺の超感覚が、全力で警告している!


「妾を見捨てた者共も、時の流れには逆らえず、みんな仲良く死に絶えて、気付けば奴らも、全員揃って、妾の中におさまりおった!」


 龍脈とは、大いなる生命の循環であり、伊邪那美は、その流れの中で死を司る。


 もしそれが本当ならば、伊邪那美の理屈に、破綻はない。死んだら、龍脈の流れに乗ることになって、運ばれてしまったら、終着点は、あいつの腹の中というわけだ。


 それはなんとも、ゾッとしない想像だった。


「おお、これこそ無常! だがしかし、これこそ救い! 死んでしまえば、どれだけ憎い相手でも、どれだけ許せぬ相手でも、一切の区別なく、一つになれる!」


 顔のない伊邪那美が、どんな表情をしているのか、分からない。分からないけど、その恍惚の声から、奴が本気で、どこまでも本気で、それこそが、真実だと、絶対の真理だと、信じていることは、痛いほどに、恐ろしいほどに、分かり切っている。


 その数を増やし、からまり、融合し、一つになった巨大な触手を、地にせるように回避しながら、俺の背中は、嫌な汗が流れっぱなしだ。


 このままでは、さすがに……!


「そこには、争いもなにもない! これを幸福と呼ばず、なんと呼ぶ!」


 狂気にも似た信仰をかかげる伊邪那美が、そう叫んだ瞬間に、巨大すぎる触手は再び分裂し、細かい糸のようにほどけて、こちらを絡め取ろうと、暴れ出す。


 だけど、俺はまだ、諦める気はない……!


「さあ、それではお主も……、妾と一つになろうぞ!」

「悪いけど、お断りだね……!」


 あまりにも身勝手な伊邪那美に対して、ハッキリと拒絶の意思を示しながら、俺は複雑怪奇な触手の動きを見切り、不規則さの中に生まれる隙間を縫って、紙一重でも完璧に回避し、体勢を立て直し、再び駆け出す。


「ほう! よく見えているではないか!」

「お陰様でねっ!」


 その通り。俺にはもう、見えている。


 伊邪那美の動きが。


 そして……、あいつの正体が。


 要するに、奴はヒントを出し過ぎたのだ。そのせいで、もしくは、そのおかげで、俺は事前に、その正体に気付き、覚悟を決めることができた。


 そう、必要なのは、覚悟だ。


 見ることはおろか、考えることすら避けたい、人の中にひそみ、渦巻うずまく、目をらしたくなるような醜い負の感情を、受け入れるだけの覚悟……。


 なによりも、そんな負の感情の奥に潜む、絶望的な終わりと、向き合う覚悟。


 伊邪那美という存在は、奴自身が語る通り、まさしく、死の概念、そのものだ。


 だからこそ、伊邪那美は、見ることができない。


 人は……、いいや、この星に生きる生命は、本能で死を恐れ、避けたがる。だからこそ、伊邪那美の姿は見えない。見えていても、見えてはいないと目をつむり、自分で自分に言い聞かせ、死を遠ざけ、拒絶する。


 死が訪れてしまえば、全ては終わりなのだから。


 だけど、それでは、駄目なんだ。


 確かに、死は恐ろしい。しかし、恐ろしいということを理解し、ちゃんと正面で、受け止めることができたなら……。


 どんなに恐ろしいものとだって、目をそむけずに、向かい合うことができる。


 それが、人間の強さだ。


概念がいねん掌握しょうあく……!」


 その強さを、力に変えて、俺は自らの内に潜む、全ての神器に手を伸ばす。


 このままでは、足りない。奴の姿を、見るはできても、倒すことはできない。


 だったら……!


神器じんき融合ゆうごう……!」


 伊邪那美に対抗するために、この身に宿やどる全ての神器の力を、最大限に引き出し、それぞれをつなげて、一つにまとめる。


 それができるか、できないかは、問題じゃない。


 やるしか、ないんだ……!


「――シュバルカイザー・イザナギ!」


 俺の意思に従って、解放された神器の力が、カイザースーツと融合し、金色に輝く装甲となって、この身を包む。


 この手には、天叢雲剣のあまのむらくものつるぎ力を込めた、嵐のような大剣を握り。

 この鎧には、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの力を秘めた、月の紋様を刻み。

 そして背中には、八咫鏡やたのかがみの力が発現した、太陽の光輪を背負い。


 全ての神器を一つとした俺は、この身にあふれる力に任せ、足元の結界を蹴り出し、ただ全力で、走り出す。


「イザナギ……、だと? それは、当て付けのつもりか!」

「さあ、どうかな? それとも、この名に……」


 伝説とは、曖昧あいまいであっても、その中には時として、真実が含まれている。


 俺が名付けた、カイザースーツの名称を聞いた伊邪那美から、隠しきれない怒気が立ち昇り、その声が上ずった。


 そして、まるで奴の意思の乱れに引っ張られるように、こちらに向かう黒い触手の動きが鈍り、荒くなっていく。


 やっぱり、思った通りか……!


「未練でも、あるのかな?」

「……黙れえええええええ!」


 俺の安い挑発に、伊邪那美はあっさりと引っかかり、その語気を強めると、もはや滅茶苦茶な動きで触手を動かし、暴れ回る。


 その無軌道な触手の動きを見極め、避けながら、この手に持った大剣で切り払い、生まれた僅かな隙間を、背中の光輪から発する命気プラーナで広げ、奴の側へ近づくために、この歩みを進めることは、この新たな力で、なんとか可能だ。


 伊邪那美は、先ほどまでより、あきらかに動揺している。


 恨むことには、意味がないと悟った? そんなのは、大嘘だ。そんなことは、奴の言動を見ていれば、すぐに分かる。


 死が救いだと、信じているのは、本当だろう。そうでなければ、死そのもになってしまった奴自身が、救われない。救われることが、なくなってしまう。


 しかし、その根本に潜むのは、決して消えることのない怒りであり、忘れることのできない悲しみであり、隠しきれない殺意であり……。


 愛する者に捨てられたという、永遠に満たされない寂しさだけだ。


「さあ、お主も死んで、救われるがいい!」

「くっ!」


 伊邪那美の動きに、秩序はなくなったが、その激情を吐き出す様な無軌道ぶりと、奴の内側から溢れ出る殺意によって、目まぐるしいほどに勢いを増し、もはや完璧に避けることは難しく、この身に数本の触手が巻き付く。


 その瞬間、漆黒の触手から伝わるのは、濃密な死の気配だ。まさに、死という概念そのものが、恐ろし速度で俺を侵食し、むしばもうとしている。


 この刹那にでも、気を抜けば、俺は死ぬという実感が、この身をつらぬく。


 だが、それがなんだというのか。


「舐めるなっ!」

「――っ!」


 俺は強引に、ただ意思の力で、死という概念をせる。


 自分には、それができると、強く信じて。


「神様ごときが、俺を止められると、思うなよ……!」


 俺は意思の力で、この身に迫る死を跳ね除け、黒い触手を吹き飛ばす。


 そのまま即座に体勢を立て直し、こちらに向けてジグザグに迫る触手をかわしながら前へと進み、そんなこちらの動きを追って、空間を切り裂くように飛んできた新たな触手を、この手に握った大剣で薙ぎ払う。


 しかし、切りがない。


 伊邪那美の黒球から飛び出した無数の細長い触手が、一瞬で格子状こうしじょうに組み上がり、その網目を幾何学的きかがくてきに動かしながら、巨大な壁のようにして、こちらへと押し付けてくると同時に、その網目の接点からは、さらなる触手を伸ばし、俺のことを捕まえ、死という結果を与えようと、殺意も隠さずうごめいている。


 持久力で勝負するのは、愚の骨頂だ。相手は、これまで数千年以上もの、長い長い時の中で、延々と力を蓄えてきた化物なのだから、その息切れを待つなんて、もはや腐っている種を地にえて、花が咲き、樹が育ち、実がなるのを待つに等しい。


 それは、困る。


 この先で、竜姫さんが、待ってる。時間なんて、かけるわけにはいかない。


「うおおおおおおおっ!」


 だったら、強引に、切り抜ける……!


 襲い来る触手を無理に避けず、最小限の破壊で、最短距離を切り開き、この身体にからみついたヘドロのような黒い力にはかまわず、ただ真っ直ぐに、伊邪那美へと向け、光の矢のように、突き進む。


 俺は、悪の総統だ。相手がどんな存在であろうと、関係ない。どこまでも傲慢に、この歩みを邪魔する障害を、ただ思うがままに、打ち破り、踏み潰すだけ……!


「なにっ!」

「――喰らえ!」


 そして、伊邪那美が声を上げる寸前、この手に握った剣は、確かに奴を、貫いた。


「はあ、はあ、はあ……!」


 目的は、達したが、俺はすでに、満身創痍まんしんそういだ。この全身を、黒い触手が締め上げ、カイザースーツを侵食、崩壊させながら、こちらが修復するより早く、ジワジワと、だが確実に、死の感触を送り続ける。


 しかし、これで……!


「……それで、どうするつもりなのかえ? まさか、妾を殺す気か?」


 その胸の中央に、大きな剣が、深々と突き刺さっているというのに、その両手を、まるで子供を抱き締める母親のように広げた伊邪那美の声に、あせりはない。


 いやむしろ、無謀むぼうな特攻を仕掛けた俺を、あざけっているのだろう。


「もしや、死そのものである妾を、殺せると! 本気でそう、思っているのかの!」

「がはっ!」


 そして、まったく苦痛を感じている様子のない伊邪那美が、広げた両手をゆっくり閉じて、俺の首に手をかけると、ジリジリと力をめる。


 その力自体は、大したものではないが、その手の平から伝わる、あまりにも鮮烈な死の気配によって、俺は無様に息をくので、精一杯だ。


「そんなこと、できるわけがない! 死を殺すなぞ、誰にも、不可能なのだ! この世に生きる、誰にもな! ははははははははははっ!」


 それでも、必死になって、この両手で大剣を握り続ける俺に向けて、なにを無駄なことをしているのだとでも言うように、伊邪那美はわらう。嗤い続ける。


 そう、伊邪那美は、死の化身だ。触れた者を、死へといざなう黄泉の主だ。


 死は、殺せない。倒すことなど、できるはずはない。


 ああ、しかし、だがしかし……!


「俺は、誰も、殺さない……!」


 そんなことは、最初から、分かってる……!


「お前を殺すのは、お前自身だ……!」

「……なっ!」


 この両手で握り締めた大剣に、力を籠めた俺の確信に、ようやく気が付いたらしい伊邪那美が、慌てて触手を操り、自分から引き剥がそうとしたようだけど……。


 もう、遅い!


「さあ、たっぷりと、受け取ってくれよ……!」


 俺は全力で、あらん限りの命気を絞り出し、その全てを、伊邪那美に突き刺さっている大剣を通して、濁流だくりゅうのように注ぎ込んでやる。


「おおおおおおおおおおっ!」

「きっ、きゃああああああ!」


 俺の咆哮ほうこうと、伊邪那美の悲鳴が、重なる。


 その間にも、神器の力を使うことで、無限にも等しい量となった命気のうずが、ただひたすらに、無慈悲なまでに、死の女神へと流れ込み、同化していく。


「そんな、馬鹿な……、妾が、妾が、満たされて……!」


 変化は、すぐに訪れた。


 命そのものである命気が、死そのものだった伊邪那美に、再び命の火をともす。


「あ、ああ、あああああっ!」


 伊邪那美の絶叫と共に、まるで、不気味な人形のようだった漆黒のシルエットに、人の肌の暖かさが戻り、生前の彼女が持っていたのであろう美貌びぼうと肉体が、寒々さむざむしい暗黒の空間に、生々なまなましい生命をうつすと、一人の女性が、ただの女性が、輝くほど美しい黒髪を、荒々あらあらしく振り乱しながら、天をあおぐ。


 死であったはずの神に、命が宿やどり、人へと戻る。


 それが、どういう結果をもたらすのかは、自明の理だった。


「ああ、あ、あ、ああ……、あああああああああああああああ!」


 伊邪那美が……、彼女自身がかかえた黒い力が、死という概念そのものが、支配者であったはずの神へと向けて、反旗はんきひるがえす。


 彼女の下半身だった黒い球体が、上部の伊邪那美に向けて、無数の触手を伸ばし、絡め取り、侵食しながら、むさぼくす。


 無慈悲な死は、呆気なく生者を飲み込み、捕食する。


 伊邪那美の信じる救いが、ようやく彼女自身にも、訪れた。


「あ、あ、あ、ああ……」


 まさしく、一瞬で、黒い力に貫かれ、ボロボロになった伊邪那美が、自らを食らい尽くした黒球と共に、自壊じかいしながら落下し、結界の上へと崩れ落ちる。


 それは、容赦のない、決着だった。


「…………っ!」


 とはいえ、勝利を収めたはずの俺にも、余力はない。ありったけの命気を、欠片も残さず送り込んだために、全身を重苦しい疲労が押し潰し、火種が小さくなりすぎたせいで、回復も追いつかない。もはや、息を上げることすら難しい有様で、こうしてカイザースーツを維持できているのは、ただの残滓ざんしにすぎない。


 それほどまに、俺の中身は、空っぽだった。


「分かって、おるのか……? 妾が消えようと、この黒き龍脈は……、増えすぎた、憎悪は、悪意は……、かすみのようには、消え失せてくれぬぞ……?」


 それでも、それでも立ち上がろうとする俺に、もはや、その肉体を維持することもできない様子の伊邪那美が、驚くほどにおだやかな声で、語りかけてくる。


 それは、まるで本当に、母親のようで……。


「分かって、いるさ……!」

「ふ、ふふふふふっ……」


 その身体を、塵のように崩しながら、伊邪那美は笑う。


 我儘わがままを押し通そうとする我が子を、ただ優しく、いつくしむように。


「ああ……、それでも、おぬしなら、きっとなんとか、してしまうのであろうな……」


 避けられぬ終わりを前にして、彼女がなにを思い、なにを考えているのかなんて、俺に分かるはずもない。


 だけど、ああ、だけど……。


 嬉しそうな、その笑顔こそが、こんな悪夢のような死の海へと投げ込まれる前の、本当の彼女だということは、なんとなく、分かってしまった。


 そして……。


「おお、おお……、あたた、か、い……、これ、こそ、が……」


 この世界全てを道連れに、孤独な海へと沈もうとしていた寂しい神は、今はただ、ただ、幸せそうに、頬笑みながら……、


 数千年の時を経て、ようやく、ようやく、眠りについた。


 彼女にとっての、救いと共に。


「急がないと、な……」


 それでも、絶望的な状況は変わらない。周囲を荒れ狂う黒い力は、その力を弱めるどころか、操る者がいなくなった反動のように、さらに無軌道に勢いを増して、嵐のように渦巻き、噴き出して続けている。


 いや、そんな中でも、ただ一つだけ、変わったことは……。


「竜姫さん……」


 俺は、伊邪那美の死と共に、ゆっくりと消え失せていく足元の結界をすり抜けて、感覚の鈍い肉体を、暗い闇へと沈めながら、ここからさらに、下へと向かう。



 大切な人を、取り戻すために。


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