*


 日報駅伝当日。

「おう、翔琉。昨日はよく眠れたか?」

 早朝のがらんとした電車内で翔琉と乗り合わせた康平は、朝のあいさつもそこそこに扉横の手すりにもたれかかって窓の外を眺めていた翔琉に尋ねた。

「まあね。そう言う康平は?」

「ばっちりだ」

 ふんと得意げに答えながら、康平も向かいの手すりに背中をもたせかける。

 これから数時間後にはスターターピストルが鳴る。そのさらに数時間後には翔琉がゴールテープを切る。そのことが会場に向かっている今も若干、信じられないような気分だ。

 けれどベンチコートの下――聖櫻陸部のジャージの下に着込んだ紺碧色のユニホームと、エナメル素材のスポーツバッグに入れた同じく紺碧の襷が、康平にこれは夢でも幻でもなく現実なのだと静かに訴える。絶対にこの襷を繋ぐんだと気持ちを奮い立たせる。

「ねえ康平。会場に着いたら時間に追われるだろうから、今言っておくけど」

 緊張と興奮、高揚感などが入り混じった気持ちでスポーツバッグの持ち手をぎゅっと握っていると、そう言った翔琉がいつになく真剣な面差しで康平に目を向けた。

「……な、なんだよ」

 少しばかりたじろいでしまえば、翔琉はふっと笑って言う。

「昨日、寝る前にいろいろ思い出してたんだけど、おれ、やっぱ陸上がめちゃくちゃ好きなんだなって、そういう結論にしかならなかったんだ。……だから康平、おれをここまで連れてきてくれて本当にありがとね。今日のことは一生忘れないよ」

「んな、大袈裟な……」

「ううん。苦しくても陸上をやってたから康平を見つけられたんだ。康平だって、試合に出られなくても続けてたから今がある。おれには康平で、康平にもおれだって、そう思わせてくれる相手に巡り合えたのは、やっぱり陸上があったからだよ。それを思ったら、なんかもう走る前から胸がいっぱいでさ……。だから、ありがとうなんだよ」

「……っ」

 あまりにクサい台詞に反射的に茶化そうとしてしまうも、さらに言葉を重ねられ、康平は喉の奥がぎゅっと詰まった。自分でもわかる。顔に熱が集まりはじめている。それも急速に。心臓のあたりがむず痒くて、照れくささから口が勝手にモゴモゴ動いてしまう。

「あはは、照れてる照れてる」

 さっと顔に赤みが差した康平を煽るように、翔琉が愉快げな声を上げる。

 本当は、今の台詞全部、康平が翔琉に言いたいことだった。だが、どうやら先を越されてしまったらしい。実際に面と向かって言えるかどうかは別にしても、悔しい。

「ったく、おまえってやつは……。言うことがいっつも突拍子もなさすぎるんだよ」

「だね。反省してる」

「……ほんとかよ? 嘘くせえ」

 言えるのはせいぜい、これくらいの悪態だろうか。思えば翔琉は最初からずっと突拍子もなかったし、無鉄砲だったのだから、今さらかもしれないけれど。

「おーっす」

「はよー。昨日はよく眠れた?」

 やがて一関方面へ向かう電車に続々と見慣れた顔が乗り込んできた。揃いのジャージに揃いのベンチコートを羽織り、肩からはスポーツバッグが斜め掛けにされている。

 その中には三年生の姿ももちろんあった。

 引退後は受験勉強一色となったため、部活にも滅多に顔を出さなくなって久しく、たまに校内で遠くに見かけるくらいだった三年生たち。友井も紫帆もほかの部員も、あれだけ日に焼けていた肌が今はすっかり白く、また髪も伸びた。七月末の引退から四ヵ月弱。一年の三分の一の時間は、ほんの少しだけ康平の胸を切なく締め上げた。

「おー、おまえらが助っ人か! 元部長の俺からも頼む。今日はこいつらをよろしくな」

 何駅か目で千葉たち助っ人も乗り込み、友井が声をかける。

「あ、先輩。紹介します、こいつが南波です。給水係を買って出てくれた」

「おおー! ほんっと助かるよ。おれらも各中継所で選手のウォーミングアップとかクールダウンとかのサポートがあるからさ。いてくれてマジ助かるわ!」

 次の駅で乗ってきた南波を友井たちに紹介すると、その友井が南波の手を取るなりそれを上下にぶんぶん振った。三年生たちは、助っ人の名前を聞いてはいても実際には顔を合わせる機会がなかったのだ。一関まであと三十分ほどというところで全員が揃った姿を眺める三年生たちの目や表情には、誰もが万感の思いを抱いているのが窺えた。


「――みなさん、ありがとうございます! 今日はよろしくお願いします!」

 やがて駅前に広がる日報駅伝会場の前に移動すると、康平と翔琉は全員を前に声を揃えた。自分たちが駅伝を走れるのは、部員たちの理解や協力と、走ってくれる助っ人、それに給水係を買って出てくれた南波の誰が欠けても成し得なかったことだ。何度礼を言っても言い足りないくらいだが、あいにくふたりはそれ以上の言葉を持ち合わせていない。

「お。こんなところにおった。伴走車は任しとき。ええタイミングで声掛けたるわ」

「じゃあおれは、走り終わった選手から順番に拾っていきましょう」

 するとそこで聞き馴染みのある変な訛りと似内の声が康平たちの耳に届いた。

 振り返ると、約四ヵ月ぶりに会う長久保が「戸塚にはガンガン声掛けたるからな~。覚悟しときや~」と、早朝にはあまり似合わない陽気な声で大仰に頷き、腕を組む。

「長久保先生、おれには……?」

 そう言うのは翔琉だ。

 周りから「誰?」と聞かれて中学時代の恩師だと長久保を紹介しながらも、康平も、まるで翔琉には誰かべつの人が伴走に付くのではと思わせる言い方に疑問を抱いた。

 しかしその謎は簡単に解けた。

「久しぶりだな、福浦。……六区の伴走は、先生が任されたんだ。先生じゃ不服かもしれないけど、駅伝のことも一通り勉強した。福浦がどれだけ駅伝に懸ける思いを持ってるのかも知ってる。福浦さえよかったら、伴走させてくれないか。よろしく頼む」

 似内と長久保の間から顔を出したある人物のその言葉で、すべてのことが察せた。

「――酒匂、先生……」

 そう声を絞り出したきり言葉が続かない翔琉を見ると、まさかここに来ているなんて夢にも思っていなかったようだ。康平だって北園中時代の陸上部の顧問が――酒匂先生がこの場に来るとは思っていなかったし、こうして相まみえるのは初めてだ。

 康平は、翔琉や長久保の話から、なんとなく長久保や似内と同年代の先生だと勝手に思い込んでいたところがあった。けれど想像よりずっと若く、三十代中盤から後半に見える。いかにも熱血そうながっしりした体躯や、十一月も下旬だというのに黒く日に焼けている肌は、相当、熱心に部員の指導をしていることを簡単に窺わせる。

 再び「今度は誰?」と聞かれながら、康平は必死に言葉を探した。

 中学時代の翔琉のことを知っているのは、この中では康平と、あの日ファミレスに居合わせた三年生、あとは短距離二年の中村くらいだろうか。誰彼構わず喋っていいような話ではないために知らない部員もいる中、どう説明したらいいだろうと言葉が出てこない。

 そのときふと、康平の頭にさっきの翔琉の声がよみがえった。

「翔琉の中学時代の恩師ですよ。な、翔琉」

 そっと後押しするように翔琉の背中に手を触れると、前半部分は周りの部員たちに、後半部分は未だ表情が固まっている翔琉に向けて、康平は言い切る。

 ――『やっぱり陸上があったから』

 じゃあ、翔琉にもこの言葉しかないんじゃないだろうか。

 陸上があったから、お互いに唯一無二の存在に巡り合えた。今をこうして本当にやりたいことだけに集中できている。翔琉にとっては嫌なことだったり重圧を感じたりするほうが圧倒的に多かっただろう。でも、それがあるから、陸上があったから、自分たちにはこんなにも頼もしい仲間ができ、心から陸上を楽しいと思える〝今〟があるのだ。

 それは、酒匂先生のおかげでもあると言い換えることはできないだろうか。

「……」

 はっと目を瞠り、わずかに口を開ける翔琉の目をじっと見つめ返す。

 中学時代を乗り越えるなら、きっと今だ。――今だと思う。

「……うん、そうだね康平。酒匂先生はおれを陸上と出会わせてくれた恩師だよ」

 康平の思いが通じたのだろう、しばらくの逡巡ののち、翔琉は思い詰めた顔で返事を待っていた酒匂先生に柔らかな笑みを浮かべた。それからふぅと一呼吸置くと、

「後輩がすみませんでした。……伴走、よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げる。

 その姿は康平には、本当の意味で〝あの福浦翔琉〟の二つ名から、短距離から、過度な嫉妬や期待から翔琉が自分自身の力で羽ばたきはじめた瞬間のように見えた。

 これは今まで誰も見たことのない走りをするかもしれない。ふと、康平はそう思う。

 正直、長距離にも才能があった翔琉を、どれだけ陸上に愛されれば気が済むんだと妬ましく思わないわけじゃない。こっちはやっと自分がなにに向いていてなにができるのかがわかったところだというのに、羽ばたきはじめた翔琉の背中は前にも増して遠い。

 ――でも、そんな翔琉が認めた〝おれ〟だから。

 なんとなく癪だけれど、康平は、それだけでどこまでも走れる気がした。


 やがて一区、総勢十七チームの面々がスタートラインに並んだ。二区以降の選手、およびサポート役に回っている部員や三年生たちは先に似内や酒匂先生の車で各中継所へ向かったので、当たり前だがここには本当に康平しかいない。沿道に出れば伴走車に乗った長久保と、ラップタイムや目標時間を計時するタイムキーパー役を買って出てくれた紫帆が声をかけてくれることになってはいるものの、スタートの瞬間だけはひとりだ。

「十秒前」

 九、八、七……。

 マイクに乗ってカウントダウンがはじまった。周りの選手たちと同じように、康平も姿勢を低くし、左手首に巻いたストップウォッチ付きの腕時計に手をかける。

中学時代は走っていても孤独しか感じなかった。けれど今は、スタートの瞬間はひとりきりでも肩に掛けたこの襷が、それを待ってくれている仲間たちが康平にはいる。

「四、三……」

 秒数がなくなっていくたび、康平の心臓は鼓動を強く、より大きくした。

「二、一……」

 さあ行こう。さらに前傾姿勢をとり、康平は後ろに引いた右足に力を込める。

 ――パンッ。

 軽い破裂音とともに、康平は右足を跳ね上げ一歩目を駆け出した。

 大切な仲間たちへ、最終区で待っている翔琉へ、この青をたすくために。


【了】

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青を襷く 白野よつは @chibiichigo

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