――『長距離、はじめたんやな』

 そのひと言に全部が詰まっている気がして。

 見限られたとばかり思っていたが、そうではなかったのだろうか? 高総体の結果なんて、熱心に指導していた有力選手のものだけ確かめられればいいはずなのに。この人のことをずっと誤解していたのかもしれないと思うと、胸が圧縮されるように苦しい。

「ほんまに見違えて……。戸塚が楽しそうでよかったわ」

 康平たちの前で足を止めた長久保が、ほぅと吐き出すように言う。それから翔琉を見て「ありがとう」と、やっぱりどこか耳に馴染まない訛りで付け加えた。

「今度おれたち、助っ人にも入ってもらって十一月の日報駅伝に出るんです」

 俯いてしまうだけの康平の代わりに、翔琉が口を開く。唐突な話に目を丸くした長久保だったが、しかしすぐに相好を崩してじょりじょりとごま塩頭を撫でる。

「そうか。ずっともったいないと思っとったんや。戸塚に長距離を勧めたんは、転向すれば試合に出られるんやって言いたかったんやのうて、自主練の成果や体格を見て純粋に戸塚には長距離のほうが力が発揮できるって伝えたかっただけなんや。ほやけど、おれの伝え方が悪かったせいでつらい思いをさせてしもた。それがずっと気がかりやったんや」

 そして改めて翔琉に向き直ると、

「高校に上がって、君が戸塚の心を変えてくれたんやろ? 知っとるで、君、福浦翔琉君やろ。戸塚らの世代には特に〝福浦翔琉を表彰台のてっぺんから引きずり下ろせ〟なんて言って焚きつけたりもしたけど、君もえらいものを抱えてつらそうやったんは、遠くから見てるだけでもわかっとった。……新聞やなんかで見たで、東北大会は棄権やってな。けど、それで思ったんや。あの福浦翔琉もやっと荷物を下ろしてもええと思える仲間らと出会ったんやなって。それが戸塚だったとは、ちょっと思ってなかったけど」

 そう、しみじみと言う。

「わかってたんですか……?」

 今度は翔琉が目を丸くする番だった。そう尋ねる翔琉に長久保は、

「君の中学の頃の顧問もな」

 一瞬だけ顔をくしゃっとして、静かに一度、頷く仕草を見せた。

「いや、その言い方は正しくないな。気づかされたっちゅうほうが正しい」

 しかし、すぐに訂正を入れる。

「……どういうことですか?」

「おれも聞いた話やから、詳しいことはよう知らんのやけど。よう思い出してみ。東北大会のあと、真っ先に連絡をよこしてもいいはずの酒匂さこう先生からは、なんの連絡もなかったと違う? 君らの世代が卒業して、ある部員から洗いざらいぶちまけられたらしいわ。君が部活でどんな目に遭うてたか。周りからどう思われとったか、洗いざらい全部」

「……」

「その子はもう辛抱ならんかったんやろな。なんにもできひん自分にも腹が立っとっただろうし、気づかん酒匂先生にも腹が立っとったんやろ。我儘言うたらあかんて思う君の気持ちは立派やと思う。でも、笑えんくなるまで我慢したらあかんのや。そこは戸塚の頑固さを参考にしたらええと思うわ。……まあ、上手いこと説得できんと伸び盛りの時期を棒に振らせたおれが言えることとちゃうんやけど。でも、だからというわけやないけど、今までつらい思いをしてきたぶん、これからはめいいっぱい弾けたらええと思うわ」

 そう言ってニッと笑うと、驚きに目を瞠ったまま固まる翔琉と康平の肩に順番に手を置き、ぐっと自分のほうに引き寄せた。そのまま長久保は言う。

「戸塚もつらかったやろ。戸塚の思うままにさせたらええのか、無理やり長距離に転向させたらええのか、先生もようわからんくなってしもたんや。けど最高学年になって、三年やし今年が最後やからって思わんわけがなかった。どうにかして試合に出させてやりたいて、ずっと思っとった。でも、戸塚が短距離一本でやりたい言うたからには、その気持ちも汲んでやりたかったんや。その反面、おれのせいで戸塚がほんまに陸上を嫌いになったらどないしよって、ずっとビクビクしてたんやから、世話ないわ……」

 ――ほんまに堪忍やで、戸塚。

 高総体の結果を記した新聞記事に康平の名前を見つけたときや、こうして会いに来てくれた安堵と、その当時の後悔がごちゃ混ぜになったような、どこか震えているその声は、あの日と同じ言葉とはまるで違う響きを持って康平の胸にすーっと染み込んでいく。

 本当は長久保もつらかったのだ。

 下級生にどんどん追い抜かれていく康平を見ていられなかったのかもしれない。 痛々しい康平に、たまらず声をかけようと思っただろう。何度も周りの部員と同じように檄を飛ばしたかっただろう。中学最後の大会には出せないと引導を渡したとき、心を痛めていたのは、もしかしたら言わなければならない立場の長久保のほうだったのかもしれない。

 ああ、先生だからってなにも後悔しないなんてことはないんだな。

 ぐっと引き寄せられた腕の強さに、康平は改めて気づかされたような気分だった。

 長久保の腕から解放されると、康平は真っ直ぐに長久保を見つめて言う。

「先生。おれ今、走るのがめちゃめちゃ楽しいです」

 ここに来るまでは、ああ言おう、こう言おうと頭の中でシミュレーションしていたが、そんなものはまったく必要なかったようだ。本当はこのことだけ伝えられればそれでよくて、翔琉が隣にいるだけで十分に長久保に伝えることができたのだ。それがわからない長久保ではないし、康平もわかってもらえないと肩意地を張っていたあの頃とは違う。

 あれこれ余計な言葉を付け足すより、シンプルに。なにが今の自分にとって楽しいかを伝えられたら、それだけでいいんだと思う。今まで複雑にしていたのは康平自身だ。それらを全部取っ払って残ったのは、長久保への感謝の思いと、走ることが楽しいという、初めて心の底から感じた、あの全身の細胞がわななく感覚だけだった。

「……そうか。その言葉が聞けて、おれもなんや楽しい気分になってきたわ」

「翔琉とふたり、区間記録を狙って走りますから。楽しみにしててください」

「せやな。吉報を待ってるわ」

 長久保が人前ですんと鼻をすする仕草を見たのは、これが初めてだった。


 *


「お、もうそろそろか。乗り換えるとこ、間違うんじゃねーぞ」

 長久保と別れ、最寄り駅である矢巾駅構内。結局往復させることになって申し訳ないと思いながらも、康平の口からは照れ隠しの言葉しか出てこなかった。

 今日はありがとう。たったそれだけなのに、違う台詞で誤魔化してしまう。長久保は見違えたと言っていたけれど、内面は一長一短でそう簡単には変われないようだ。

「なに言ってんの。そんなの間違うわけないじゃん」

 地味に落ち込んでいると、翔琉がカラカラと笑った。今康平がなにを思っているかも、どんな気持ちなのかも、翔琉には手に取るようにわかってしまうらしい。

「南波じゃないけど、今日はありがとね。中学時代の康平が先生からどんなふうに思われてたかを知れてよかったよ。生徒思いの先生だよね、長久保先生って」

 そして、康平が言えないことをいとも簡単に言ってしまう。

「……ちゃんと思われてたんだって気づいたのは今日だったけどな」

 対して康平は、やはり照れくささが先行してしまい、口をモゴモゴ動かすだけだ。翔琉は康平の言動や態度を素直だと言うが、康平に言わせれば翔琉のほうこそ素直だと思う。なぜか決まって皮肉っぽく言ってしまうあたり、相当な天邪鬼だと自分でも辟易する。

「いいんだよ」

 けれど翔琉は、穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと首を振った。

「気づいたときがはじまりなんだよ。おれだって、まさか後輩がおれのことを庇ってくれてたなんて思ってもみなかったし。相手に思われてるって気づいてからどうするかが、大事なんじゃない? 宣言したでしょ、区間記録を狙うって。それでいいと思うよ。今の康平がめちゃくちゃ楽しく走ってるんだって知ってるだけで先生も楽しいと思う」

「そうかな」

「そうだよ。だって、そう言ったじゃん。先生も」

「……ん」

 本当にそうだったらいいと思う。そうあるように走りたいと思う。

「でも翔琉はどうすんだ? 会っておかなくて平気か?」

「あー、うん……」

 尋ねると、翔琉言葉を濁し、ただヘラリと笑っただけだった。他人の気持ちは――とりわけ康平の気持ちはよく言葉にできるのに、自分のこととなると不得意らしい。

「まあでも、無理に会うことはねえよ。話の流れで聞いたけど、会ってもいいと思えるようになったときが会い時だと思うし。おまえのタイミングでいいんじゃない? おれが今日がいいって直感したみたいに、そう思う日が翔琉にもあると思う」

「……そうかな」

「ふっ。そうだよ」

「ははっ。……うん」

 どこかで聞いたやり取りを繰り返すと、ちょうど構内アナウンスが下り列車を告げた。それを合図に壁に張り付けていた背中を剥がし、「じゃあな」と短い言葉を交わす。康平はほかの乗客の背中に混じって翔琉の背中がゆっくりと改札へ向かう姿を見送る。

 中学時代の翔琉は、スカウトされるほどのずば抜けた走りから、ほかの部員とは違う思われ方をしていた。妄信的だったと翔琉は振り返るが、本当にそうだと思う。

 長久保の話によると、重い荷物を背負わせていたことに〝気づかされた〟ということだった。それくらい当時も翔琉が卒業してからも妄信的だったとするなら、いくら後輩が声を上げてくれたとはいえ、簡単に会いたいと思える相手ではないかもしれない。

 本当に翔琉のタイミングでいいと思う。会うか会わないかを決めるのも、翔琉の気持ちでいい。今だと思ったそのタイミングで会えばいいし、あるいは日報駅伝での走りを見せるだけでもいいと思う。康平は、そのとき翔琉にとことん付き合ってやるだけだと決めている。今日の翔琉のように、二つ返事で「おう」と笑って付いていくのだ。

「そうだ、夏合宿のことだけど。明日、川瀬先輩も誘って似内先生に相談してみよ」

 すると直後、人の波に乗りながら振り返った翔琉が声を弾ませた。

 ――『本格的にやるんやったら、本格的なところで練習したらええ。ちょっとした知り合いなんよ、一学の先生と。毎年夏には他県の学校も含めた十校くらいで夏合宿をやってるそうやから、聖櫻の先生とも相談してみたらどうやろ? 興味あるんやったら紹介したるわ。ほかの学校のレベルも知れるし、ええ指導をしてもらえると思う』

 長久保にそう言われたのは、校門を出る直前だった。いったんは「ほなな」と別れたが、少ししてはっと思い出したのだろう、慌てて追いかけてきたようだった。

 さすが強豪校はやることが違うと思ったのと同時に、今までの我流のやり方ではいけないと強く思った。〝区間記録を狙う〟とは言っても、今まで本格的に誰かに指導を仰いだこともなかったし、康平が知っているのは五千メートルだけだ。康平と一緒に走るために引退後は長距離を走り込み、ついこの間までは短距離との二足の草鞋を履きこなそうとオーバーワークの練習をしていた翔琉にだって、同じことが言える。

 第一線で選手を育てている指導者から長距離のノウハウ、駅伝のノウハウを教えてもらえる、またとないその機会を長久保が作ってくれようとしている――。

『ありがとうございます‼』

 もちろん、康平と翔琉に異論なんてあるはずがなかった。途端に目を輝かせたふたりに長久保は満足そうに笑い、「ほな、しっかり相談してみてくれや」と言葉を残すと、再び部室棟の鍵の点検に引き返していった。それが十数分前の出来事である。

「そうだな。助っ人はともかく、陸部はまともな走りをしないとな」

 翔琉の提案に康平もすぐに言葉を返す。

「区間記録、狙うんだもんね」

「おう」

 陸部に長距離の選手は三人しかいない。高校の部は六区間だから、最低でもあと三人は必要だ。助っ人の彼らにはなるべく距離の短い区間を走ってもらうにしても、陸部と同じ練習をこなしてもらったり、順位を上げる走りをしてほしいとは到底言えない。

 康平や翔琉が狙うのは区間記録。受け持った区間を誰よりも速いタイムで走り切り、次のランナーに襷を渡すことが、今回の日報駅伝での目標であり、野望だ。

 こう言ってはあれだが、順位なんて最初からどうでもよかった。純粋にタイムとの勝負で、その過程でひとつでも順位が上がれば、お釣りが来るくらい上出来の結果だ。

 康平の返事に満足そうに笑った翔琉が、片手を上げてホームに出ていく。その姿がすっかり見えなくなるまで見送って、康平も駅舎を出て家路についた。

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