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そのときふと、翔琉が言う〝繋いでいく〟とはこのことか、と康平は思った。
手の中にはなにもない。少しぬるくなったペットボトルが握られているだけだ。でも、目に見えるバトンを渡されたわけでも、直接的な言葉をかけられたわけでもないのに、確かに今、紫帆から。紫帆のその姿から青春を繋いでもらった実感があるのだ。
「……なんか、胸にズシンときたわ……」
そうぽつりと落とした南波の声がどこか湿っていた。
「次は
「そうだよ。しっかり繋いでもらったんだ、クヨクヨなんてしてらんないでしょ」
南波の肩を抱き、口々にそう言う康平たちの声も、どこかしっとりしている。
「そうだよな! 二年の先輩たちも一年のおれらも落ち込んでる暇なんてないよな! 正直、あまりの大差に〝一勝〟の目標も堂々と掲げられないくらい弱かったんだって、あれからみんな、気持ちの糸が切れちゃってたけど。それを繋ぐことも、初代からの先輩たちの思いを繋いでいくことになるんだもんな。ふたりとも、今日はいいものを見させてくれてありがとう。その先輩にも、頑張るから見ててくださいって言っておいて!」
だんだんと頬を上気させていった南波は、うんうん頷きながらそう言うや否や、ばっと腰を上げて応援スタンドを駆け上がっていった。もしかしなくても、今から野球部の連中に会いに行くつもりだろう。どうやら今日は部活が休みなことを忘れているようだ。
嵐のように去っていく坊主頭に呆気に取られつつ翔琉と目を合わせると、
「ぶはっ」
「あははっ」
その瞬間、同時に吹き出して笑ってしまった。
南波と仲良くなっていくにつれ、こいつは案外浮き沈みの激しいやつだと知っていったわけだけれど、まさかここまでのやつだったとは、正直思っていなかった。
でも、これが南波の良さなのだ。これでこそ南波だと思う。
もしかしたら、今の野球部には暑苦しいやつが声高に一勝を掲げて騒ぐくらいがちょうどいいのかもしれない。だって、大敗を期してすっかり弱気になった心の奥底にも、きっと〝一勝〟という思いは消えていないはずなのだ。きっとみんな、燻ぶっているだけなんだと思う。本当は大声に出して言いたい。――勝ちたい、と。
その心に火をつけて回ってくれるやつを、みんな求めているのだろうと思う。翔琉が康平の心に火をつけてくれたように、康平たちが紫帆の心に火をつけたように、起爆剤となるなにかを求めている。それには南波はこれ以上ないほど打って付けの役回りだ。
そのきっかけになれたなら、それだけで渋る南波を連れ出した甲斐がある。
「つーか、さっきのはなんなんだよ。〝繋いでいく〟ってクサすぎんだろ」
「いいじゃん、べつに。康平だって満更でもない顔してたじゃんか」
「……うっせ!」
「ほら。言葉に詰まるところとか、ほんとわかりやすいよねー。本当はグッときたんでしょ? 康平はそれを素直に言えないだけなんだもんね。はいはい、わかってますー」
「っだよ! そうだよ、それのなにが悪いんだよ!」
腹筋がよじれるほど笑い合っていたのも束の間、なんだかんだ売り言葉に買い言葉的な流れが生まれ、やや乱暴にお互いの肩や脇腹をどつくと、再び声を上げて笑う。
「でもさ。紫帆さん、すげー格好よかったなー……」
「なー。部長が惚れるのもわかるってもんだよ」
「あれ? 康平って紫帆さんが好きなんじゃなかったっけ?」
「はあっ⁉ てか、まだそんなこと言ってんのかよ。いつの話だよ、それ」
「いやいや、マジな話でさ」
「んなわけないだろ。どっちかっつーと、わりと苦手なタイプなんだよ、藤沢先輩は。彼女にするなら、もっとふわふわしてて小さくて可愛らしい子にするわ」
ようやくグラウンドから引き上げていく紫帆の姿を目に捉えながら、取り留めのない会話をする。紫帆には大概失礼だが、全部を見透かしているのに顔や態度には出さないあのポーカーっぷりは、それだけで近寄りがたいし、無性に背筋がゾワゾワしてしまう。
離れたところから格好いいと思っているくらいがベスポジなのだ。自分でもびっくりするくらい本当にそれ以外の感情はない。それに、今は恋愛なんかより翔琉と走っていたほうが断然楽しい。けしてモテないからって痩せ我慢をしているわけじゃない。
「そういや田上は〝やまとなでしこ〟みたいな子なら彼女にしてもいいとか言ってたっけなー。黙って半歩後ろを付いてくるような子っていうの? そういう子じゃないと面倒くさいんだってさ。女の子の好みも男の数だけあるってことなのかなー」
「え、田上って誰だっけ?」
「ほら、東北大会の優勝インタビューでおれのことをボロクソに言ったやつ」
「そんなやついたっけ?」
「……ぶはっ!」
ひどく真面目に切り返すと、途端に翔琉がまた笑い転げた。
翔琉は話の流れで思い出しただけだろうが、康平の中ではとっくに抹消した名前だ。しかも、やまとなでしこじゃないと面倒くさいって、なんて傲慢な男だろうか。
――あれから検索したんだ、おれは。ウェブ版の新聞記事で見つけたおまえ、べつにイケメンでもなんでもなかったじゃねーか。つーか翔琉も急に思い出すんじゃねーよ。
おれにはおまえで、おまえにはおれだろうが。
康平は内心、面白くない。
「……なにがおかしいんだよ」なんだかよくわからないが、めちゃくちゃ妬ける。
すると、すぐに意味を察したらしい翔琉が、しおらしく微笑する。
「だよね。おれにはもう関係ない名前だよね」
「そうだよ。当たり前のこと言ってんじゃねーっつーの」
「……うん」
ときには、どうしたって過去が邪魔をすることだってあるだろう。康平だって、短距離で伸び悩んでいた中学時代が完全に消え去ったわけではない。でも、そうやってたくさんの回り道をしたからこそ広がった世界の中に、過去の自分はもういない。
「県民大会が終わったら、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」
「どこ?」
「中学」
答えると、翔琉がニッと白い歯を見せた。
「もちろん」
中学の陸部の顧問に会いに行かなきゃなと、唐突に思ったのだ。会って、今のおれはこんなにも陸上が楽しいと思っていることを伝えたい。あのときの表彰台のてっぺんの芝生色が、今はおれの相棒なんだって。断ってしまったけれど、あのとき長距離に転向しないかと誘ってもらえて感謝していると。そう伝えるなら、今だと思った。
*
【うおぉぉ! 野球部のみんなにラインしたら、今から自主練すっぺって普通に部活になったんだけど! なにこれ、超超感動モンなんだけど‼】
いつの間にか届いていた南波からのラインに気づいたときには、空はほんのり茜色が差す時間帯となっていた。ドア付近の手すりに寄りかかりながら、康平はテンション高めのそれに『よかったな』と返事を打つ。素っ気ないなと自分でも思うが、それ以外にどう返したらいいのだろうか。男同士でスタンプとか、なんだか気持ち悪いじゃないか。
「なんかドキドキすんね」
「どこが」
「いつもは乗らない路線に乗ってるとことか、景色とか」
向かいでは、翔琉が潜めた声を弾ませる。「あっそ」なんて適当に返しながら、けれど康平もこの路線に翔琉が乗っていることが心強かった。確かに違和感はものすごいが、翔琉が楽しいならまあそれでいい。こんなんでも相棒なのだ。心強さは人塩である。
県民大会終了後、友井たち陸部の部員と別れて乗ったのは、東北本線の上り電車だった。康平には馴染みの路線。けれど翔琉の目には新鮮に映るのだろう。反対側の手すりから少し身を乗り出して笑う翔琉のやけに嬉しそうな顔が、半分だけ西日に染まって赤い。
いや、康平と一緒だから嬉しいのだろう。康平はまだ、心の奥底に溜め込んでいるものをすべて翔琉に見せてはいない。それをこれから見せてもらえるのだから。
母校の中学に着いた頃には、空の茜にさらに色が増していた。突如思いついてそのまま来てしまったわけだから、顧問に会えるかは運次第といったところだろうか。
物珍しそうに辺りをキョロキョロ見回す翔琉を連れて、校門からグランドへ回る。陸部やその他、外競技の部室は、学校の東側だ。東西に延びる南向きの校舎の形に沿うようにして作られたグランドを縦に突っ切った先に、室内プールや給食センターの建物が並ぶ奥まった敷地がある。その一角に、プレハブの部室棟が何棟か並んで建っている。
陸部の部室は、プレハブ棟の二階、康平たちから見て右の角部屋だ。ちょうど校舎が途切れるそこからは、夕方には西日が目に染みるし、遠くに奥羽山脈も見渡せる。
「ここが康平が使ってた部室か……」
中学の校舎そのものに大した違いはないだろうに、相変わらずキョロキョロしっぱなしの翔琉を従え部室の前で足を止めると、やけに感慨深げに翔琉が言う。
「そ。顧問に大会には出せないって言われて、床に転がってた誰かのスパイクシューズをめちゃくちゃに壁に叩きつけたり、臭すぎて吐きそうになったりした陸部の部室」
「ふっ。誰かのって」
「いや、ちょうど手近にあったんだよ。もうボロボロで履けないやつだったし」
翔琉がおかしそうに笑うので、康平も微笑を漏らしながら言い訳をする。
顧問からは再三、部室は綺麗に使えと言われていたが、そこは男子専用の部室だけあって、伝統的に男臭いし汚かった。履けなくなったスパイクなんかが持ち帰られることなく転がっているのが常で、空のペットボトルも、教師の目を盗んで持ち込まれたのだろう何年も前の週刊少年漫画雑誌も、ただでさえ狭い空間の肥やしになっていた。
ちなみに、女子は女子で、女子のプレハブ棟に部室が設けられている。男子棟と横並びに建つそれは、表向きは男子棟となんら変わりはないはずなのに、なにかが決定的に違っていた。今でもそれは変わりないようで、きっと現役の彼らも女子に汚いだの臭いだのと言われて肩身が狭かったりするんだろうと思うと、無性に懐かしかった。
陸部の部室を見上げる翔琉の横顔をそっと盗み見ると、相変わらず感慨深げな表情をしたままだった。そんな相棒に、ここを見せられてよかったと心から思う。
ここが康平の原点だ。ここからすべてがはじまった。
「――戸塚?」
するとふと、後ろから声がした。翔琉と同時に振り返ると、束になった部室棟の鍵を持ったひとりの男性教諭が、西日に影を長くして立っている姿が目に映る。
「戸塚やろ? なんや急に見違えて。えらい逞しなったし、全身から自信が溢れとる」
「
「高総体の結果を見て驚いとったとこなんや。……長距離、はじめたんやな」
逆光のせいで顔はよくわからないが、声や訛りがごま塩頭の――陸上部顧問の長久保であることを容易に裏付ける。「今日はどうしたんや? 恋しゅうて会いに来たか?」
「いえ……まあ、はい」
「どっちやねん」
「いや、先生と話がしたくて会いに来ました」
鍵をぶら下げているということは、部室棟の見回りに出てきたのだろう。どうやらいいところに来たらしい。あと数分遅かっただけで、結果はずいぶん違っただろう。
そうはわかっているのに、いざ本人を目の前にすると、康平の口からは途端になにも出てこなくなってしまった。言いたいことも伝えたいこともたくさんあるはずなのに、喉の奥が詰まって言葉が出てこない。そんな康平の横でぺこりと頭を下げた翔琉に長久保も小さく会釈を返すと、長久保はカチャリと鍵の音を立てながらゆっくりとこちらに近づいてきた。徐々に顔がはっきり見えるようになるにつれ、その顔がなんとも言えない微苦笑をしていることに気づいた康平は、さらに喉の奥が詰まるような心地がした。
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