■1.お互い、陸上が嫌いになる前に 1

「おれ、福浦翔琉ふくうらかけるっていうんだけど、もしかしなくてもきみ、境江二中の戸塚康平君だよね? 唐突なお願いでホント悪いんだけど、おれと駅伝部作って大会に出てくれない?」

「――は?」

 それは、唐突でもなんでもなく、ただの意味不明な弾丸だった。

 胸に祝いの赤花を付け、やや緊張した面持ちで各々教室を出ていく入学式の帰り。康平もぺしゃんこの通学鞄を肩に掛けて教室から出ようとした、その矢先。あの日、オレンジに挟まれて表彰台のてっぺんで笑っていた芝生色がぬっと目の前に立ちはだかり、にこにこと愛想のいい笑みを浮かべながら、わけの分からないことを言ってきた。

「失礼します人違いですそんな人知りません」

 一方的に名前と顔を知っているだけで、会ったこともなければ話したこともない相手のあまりのフランクさに逆に警戒心しか湧かず、康平は一本調子で言うと相手の横を通り抜けることにした。しかもなにやら康平のことを知っているような口振りだ。普通に怖いし、ちょっと危ない感じもする男だ。言っている意味もわからないし、関わりたくないと思うのは必至だろう。もちろん目も合わせない。合わせたら負けだとさえ思う。

「ちょちょちょっ!」

「うわっ⁉」

「最初に『は?』って言ったんだから、もう自分が戸塚康平だって認めたも同然でしょ? おれとがっつり目も合ったじゃん。なんでそんな他人のふりすんのよ」

 しかし、ぐっと腕を取られ引き留められてしまった。けっこうな勢いで後ろに引かれたので、体のバランスが崩れて焦った声が出る。そんなのお構いなしに必死な口ぶりで食い下がってくる相手は、悔しいけれどしっかりと的を得た発言で、康平は苦虫を噛み潰したような顔で唇を噛みしめるだけだ。いくら不意を突かれたとはいえ、素直に反応しすぎてしまった。そんな自分が恥ずかしく、同時に恨めしく思う。顔が熱い。

「ね? ちょっとだけでいいから、おれの話聞いてくんない?」

 そんな康平になぜか気をよくしたらしい相手――福浦翔琉は、凛々しく整った形のいい眉をハの字に下げ、腰を折りつつ顔の前でパンと両手を合わせて拝んだ。

 自分より体格のいい相手のつむじを間近でまじまじと観察できる機会なんて、そうそうないかもしれない。綺麗な時計回りの円を描くつむじは、頭頂部に二つ並んでいた。それがしっかりこちらを向いている。なんだか気が逸れる眺めに、ため息しか出ない。

「ああもう。なんなのおまえ。おれになんの用?」

「! やっと自分が戸塚康平だって認めた! 話を聞いてくれる気になった?」

「なってない。おまえがあの福浦翔琉だから仕方なくだから」

 康平は、ぱっと顔を輝かせた翔琉に間髪入れずに訂正する。

 面識はまるでない。康平がただ一方的にその名前を知っているだけだ。とはいえ、その福浦翔琉が今まさに康平の目の前にいるのだ。残念ながら自分とは雲泥の差である有名人を目の前にして露骨に嫌な態度を取れるほど、康平の肝は据わってはいなかったのだ。

 ちくしょう。なにあいつのネームバリューにビビッてんだよ、おれ。

 舌打ちさえできなかったのは、翔琉が全国レベルのトップスプリンターだからだ。康平が翔琉を一方的に知っていたのもそのためで、今年からはどうかわからないが、康平の中学三年間の部活は、顧問の「北園きたぞの中の福浦翔琉を表彰台のてっぺんから引きずり下ろせ! 負けっぱなしで悔しくないのか!」という檄が一番耳に残っていると言っても過言ではないほど、彼の名前を聞かない日はなかった。引導を渡された日、顧問が言っていた〝勝たなあかん相手〟とは、こいつのことでもある。

 まさかその福浦翔琉が、三年間落ちこぼれ続けた康平の顔と名前を知っているとは夢にも思わなかったけれど。ただひとつ言えるのは、どこで知ったのかもわからない上、実際の翔琉は康平のイメージとずいぶんかけ離れていたため、余計に怖いことだ。

 もっとスカしたやつだと思っていたのだ。自分の実力を鼻にかけるような。


「で? 全国レベルのトップスプリンターともあろう福浦翔琉が、なんで駅伝なわけ?」

 教室の戸口を二人で塞いでしまっており、女子の咳払いで後ろがつかえていたことに気づいた康平と翔琉は、とりあえず廊下に出て窓側の壁に並んで背中を預けることにした。

 式も終わったし、早いところ家に帰って昼飯にしたいところだが、きっと翔琉は自分の話を聞いてもらうまでは解放してくれないだろうという確信もあった。爛々と輝く翔琉の瞳は、康平に数分間の時間のロスを覚悟させるには十分すぎるほどキラキラしている。

 春の柔らかな陽光が二人の濃紺のブレザーの背中に平等に降り注ぎ、ぬくぬくと温かい中、改めて尋ねると、翔琉はわずかに眉をひそめたものの、すぐに破顔した。

「おれ、昔から、箱根駅伝とかニューイヤー駅伝とか高校駅伝とかを見るのがすごい好きだったんだけど。高校からは心機一転、長距離に転向することにしたんだよ」

「はぁ? なにその、おれなら長距離も普通にできます、みたいな感じ。これだからデキるやつってイヤなんだよ。たった一つの競技にしがみついてもひとつも報われなかったやつの気持ちを踏みじってるぞ、それ。見るのが好きなくらいで転向すんじゃねーよ」

 対して康平は、あんまりあっけらかんとした調子に聞こえて眉間に深いしわが寄った。

 ここは岩手県は盛岡市だ。〝見る〟とはつまり観戦するほうの〝観る〟で、そのツールはもっぱらテレビだ。陸上をやっていた端くれである康平も、テレビ中継される陸上競技大会はたいてい観ていて、翔琉の言うそれもテレビの前でということくらいはわかる。

 だから余計に腹が立って仕方がなかった。

 言いながら、初めて喋った相手に――しかも県内どころか東北で実力ナンバーワンとも言われる短距離走者の翔琉に、底辺の中の底辺の自分ごときがなんていう口のきき方をしているんだとは思った。けれど、全国大会に出られるほどの実力者がなぜ心機一転する必要があるんだとも思ったのだ。へらへら笑って「長距離に転向することにした」なんて寝ぼけたことを言う翔琉に一瞬で腹の底からカッとなる衝動は、抑えられない。

 康平はギリギリと奥歯を噛みしめる。

 そのまま短距離を続けて、やめていったやつの夢を背負うのが表彰台のてっぺんに立ったやつのすることなんじゃないのか。常に周囲からの期待を双肩にかけられていた翔琉の気持ちはわからないが、期待されないやつは期待されているやつに期待するのだ。それを急に「転向することにした」って。あっさりすぎるし、あっけらかんすぎる。

 別に誰の――康平の許可なんてまるでいらないけれど、これではあんまりだ。

「うん。康平ならそう言うだろうと思ってた。だから一緒に駅伝部を作って大会に出たいと思ったんだよ。一緒に走るなら康平しかいないと思ったんだ」

 すると翔琉は、またわけのわからないことを言ってニッと口角を持ち上げた。

 対して、もう呼び捨てかよ、と強引すぎる距離の縮め方に思わず怯んでしまい、半身を引いて物理的な距離を取った康平の眉間には、ますます深いしわが刻まれる。

 なんだこいつ。

 いよいよ言っていることがおかしい。理解が追いつかない。

「なに言ってんの? こっちは真っ向から否定してんの。否定するやつと一緒に部活作って大会に出ようなんて、その考え自体、普通のやつが考えることじゃないだろ」

 逃げ出したくなる気持ちをぐっとこらえ、康平は噛んで含めるように言う。どうして康平を知っていて勧誘までしてくるのかも、キツい言葉を浴びても笑っていられるのかもわからないが、『だから』の使い方が間違っていることだけは確かだ。

 もしかして、新種のマゾだろうか? 康平はふと思う。

 どのスポーツにも共通するけれど、自分の精神も体も極限まで追い込まなければ、いいパフォーマンスはできない。康平個人の考えとしては、本気で上を目指しているやつほどマゾじゃなければやっていけない気がしている。突き詰めれば、そうなのではないかと。

「だからだよ。康平はおれが長距離に転向することを絶対に許さないだろ? おれはそこがいいと思ったんだ。新しい可能性を探るための一歩は、真っ向から否定してくれる相手がいてこそ大きく踏み出せると思わない? なにがなんでもやってやるっていう、やる気にも繋がるし、康平だって長距離に転向すれば伸びるかもしれない。お互い、陸上が嫌いになる前に一花咲かせようよ。まだ三年ある。やめるのはそれからでも遅くないでしょ」

 しかし翔琉は、あらかじめ用意していたように淀みなく言い切った。反対に康平は額に手を当て、長いため息をつく。相手が福浦翔琉ということで、あまりぞんざいには扱えないと思い数分のロスは仕方がないと諦めたが、是が非でも振りほどいて帰ればよかったと激しく後悔する。だって、誰がこんなに話が通じないと思うだろう?

 打っても打っても全然響かない。まさに暖簾に腕押し、糠に釘。自分の気持ちの、せめて十分の一でも理解してもらえているという手応えがまったくないのだから。

 逆にその頑なさを買うとすれば、転向の意思は康平が思っているよりずっと固いと取れるだろう。ちょっとやそっとじゃ揺るがないほど、すでに強固なものだったと。

 だがやはり思考がマゾだと思う。否定し続けるやつをそばに置いてまで、なぜわざわざ長距離に転向する必要があるのだろうか。その思考回路が意味不明だ。

 翔琉ほどの成績なら、県内のみならず県外からも相当数のスポーツ推薦のオファーがあったに違いない。それなのに、なぜ引く手あまたの推薦を蹴って最終的に誘っているのが康平なのだ。たくさんの推薦の代わりにしては、だいぶしょぼいではないか。

 もちろん、そばに置かれる気なんてさらさらないが、そもそも翔琉に陸上を嫌う理由なんてないだろう。エリートにはエリートの苦労があるとは思う。でもそれを、まるで同じことで一緒に苦しむ仲間みたいに「お互い」と一括りにするなんて、煽られているような気分にしかならないし、バカにされているんじゃないかと逆に疑ってしまう。

「お前、おれのことバカにしてんの? おれのことを知ってるってことは、中学の成績も知ってんだろ? って言っても成績なんてひとつもないけど、なに、これって同情?」

 その気持ちが実際に言葉となった。頭の中で翔琉の言っている言葉の真意を推し量ろうとしたがまったくわからず、代わりに卑屈な言葉ばかりが口をついて出る。

「……え?」と聞き返す翔琉の顔は純粋な驚きに満ちていて、それが無性に腹立たしい。

 思ってもみなかったところから変化球を投げ込まれたときのような顔。こういうふうに思っているなんてひとつも考えたことがなかったような顔に、とうとう感情が爆発する。

 ――エリートの物差しで考えるんじゃねーよ!

 しかしここは校内だ。かなり少なくはなってきたが、まだ残っている新入生もいる。ここで大声を出せば嫌でも注目を浴びるだろう。最悪なのは、ケンカだと早とちりした誰かが先生を呼びに行くことだ。誰だって入学早々、先生に目を付けられたくはない。

 仕方なく、康平はまた訥々と口を開く。

「底辺にいたことがないから、軽々しくそんなことが言えるんだ」

「どういうこと?」

 が、康平の必死の機転になど少しも気づかず、翔琉は怪訝な表情で尋ねる。

 どうやら言わんとすることが伝わっていないようだ。そんな翔琉に一瞬唖然として、けれどこれまでのわずかな経験則から、こいつは他人の気持ちや感情を察したり汲み取ったりできる能力に欠けているやつだったとすぐに思い直した。

 あの日の表彰台のてっぺんにいた芝生色は、いざ話してみれば、ただの空気の読めないやつだった。同じことを話しているはずなのに、どこか微妙にピントがずれる。話が噛み合っている確かな実感がまるでない。それが執拗に付き合いにくさを感じさせる。

「はあ……。あのな」

 ため息をつくと、康平は再再度、噛み砕いて説明してやることにした。散々劣等感をぶちまけて格好悪いところを見せれば、呆れて諦めてくれるかもしれないからだ。

「お前がなんでおれの顔と名前を知ってるのかはわかんないけど、お前と違っておれは三年間一度も試合で走ったことがないの。補欠にすら名前が載らないような底辺なの。底辺のやつからすれば、伸びるかもしれないとか、まだ三年あるとか言われても、一つも響かないしバカにしてんのかって思うの。それが、おれがどれだけ手を伸ばしても届かないようなところにいるやつの言葉であればあるほどだ。わかるか? この気持ち」

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