アノニマス願望

(仮)

第1話

 二十九点。

 肉だ。

 

 返却された答案用紙に殴り書きされた赤い数字を見て、真っ先に思い浮かんだのが、肉、だった。

 赤点であるとか、あまりにも情けない点数であるとかそういった諸々の事情から自分の脳が自然と逃避を選んだのかもしれない。いや、実際にはそんな大層な問題ではないのだろうが。

 

 気にも留めなかったというのが正しいのだろう。だから二十九点などという点数を見て、肉なんてふざけたことが思い浮かんだのだ。そう、別にたいした問題ではなかった。

 俺にとっては。

 教室の中は返却された答案用紙の点数を巡って、クラスメイトたちが一喜一憂、騒々しく立ち回っていた。おまえらテストの点数ごときでよくそんな馬鹿みたいにはしゃげるな。


「はーいテストの解説するから席着けー」


 数学の教師である村上が気だるげに言うと、好き勝手騒いでいたバカ共が慌てて席に着く。


「っと、その前にこのクラスの最高得点は九十八点で山本な」

 

 村上がついでのように言うと、おーとか山本すげーとかバカ共が感嘆の声を上げる。

 当の山本も「いやーたまたまだよ」とか言って照れくさそうに頭を掻いてる。

 

 あっそ、たまたま九十八点取れるならおめーはアインシュタインにでもなってろ、ばーか。


「あっと」村上が俺を見て勿体つけるように言う。「今回の最低得点は、二十九点でした。まー誰とは言わんがなー誰とは」

 

 村上の視線に釣られるように他のバカ共の首が俺の方に向けられる。

 うわーとかくすくすと笑う囁き声が教室を満たす。だれとは言ってなくても俺が二十九点取ったことが丸分かりだった。

 羞恥に顔がみるみる真っ赤になっていくのが自分でわかる。脇から汗が滲み、それが背中にも回り全身が熱くなってくる。くっそ、村上マジで死ね。


「今回赤点のやつは土曜日補習だからな」

 

 村上がまるで俺にだけ言うように呼びかける。他にもいんだろ、赤点のやつ。おれはこの場をやり過ごすように深く俯いて沈黙を貫く。

 そんな俺の内心を見抜くように村上が追い打ちをかけてくる。


「わかったか、太田」


 死ね。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「くっそ死ねゴミ共が! ゴミが! ゴミが! ゴミが!」

 

 今日の数学の時間のストレスを発散するように、俺はネットゲームの中で巨大ボスモンスターをひたすらに狩り続けていた。

 もう何度も倒してきたことのあるボスモンスターの挙動は完全に身体が覚えていた。

 頭で考える必要もなく自然と自分のキャラクターを最適解で操作し、敵をサンドバックのように一方的に攻撃し続けた。

 

 雑魚。ボスが地面にくずおれる様子を眺めながら俺は悦に浸るように呟いた。何体も倒すと多少気分も紛れてくる。

 

 敵が弱すぎるのではない。俺が強すぎるのだ。わざわざ弱めの装備で最高難易度帯のボスモンスターに挑んでいたというのに、まるで手応えがない。

 ま、所詮プログラミングされた同じ動きを繰り返すだけの敵だ。装備が強いだけのゴミ共とは違う。プレイスキルが抜きんでているこの俺相手では、そこまで言うのも酷というものだろう。

 

 ふーっと一息吐きながら俺は思う。

 俺が生きるべき本当の世界はこっちなのだ、と。

 

 最近VR、所謂ヴァーチャルリアリティを題材にしたアニメや漫画、小説が流行になっている。

 そういった物語の中では、ネットゲームはパソコンのモニタ越しに操作するだけの世界ではなく、現実と非常に近い位置にあるもう一つの世界として描かれている。

 ゲームの中での栄光や名声、地位がそのまま現実でのものに変換され、仮想の中での英雄が、現実での本物の英雄になる。

 

 俺が生きるべき本当の世界は、きっとそういうところなのだ。なんの役にも立たない数学なんて勉強する必要なんてなく、少し走っただけで息が切れてしまうような不自由な身体に縛れることのない、電子の中の世界こそが、俺の……。

 はあ、と知らず溜息がこぼれていた。現実がそんなに甘くないことも十分理解していた。将来のことを考えると胸がざわざわと落ちつかなくなる。来年からもう受験生だ。このままの成績では、自分がバカ共と見下している連中と同じようなバカ大学にしか行けない。いや、もしかしたらそれ以下かもしれない。

 それに一生、この豚みたいなチビでデブの醜い身体を引きずって、周りの連中に蔑まれながら、生きていくのか。そんなこと考えたくもなかった。一生ネットゲームだけに没頭できる、そんな世界があったなら……。

 

 ピロリンという音がして俺を現実に引き戻した。ボスを倒して放置していたゲーム画面に吹き出しが表示されていた。別のエリアからでも連絡を取ることのできる個別チャットだった。


『おーい、もう寝落ち?』


 同じギルドメンバーのパルマだった。柄にもなく随分考え込んでいたみたいだった。

 知らぬ間に他のギルドメンバー達がログインしていて、ギルドチャットで時間限定の討伐クエに行く準備を相談しあっていた。


『あーごめん気づかなかった。いま行くー』


 と返信して、俺はまた現実から目を逸らすようにネットゲームに没頭していく。受験はまだ、来年のことだ。今はまだ、楽しいことだけを考えていたい。

 将来について本気で向き合うのは、まだもう少し後からでも遅くないだろう。

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