5.

「……驚いたわ。まさか『闇』の印をかき消すなんて。闇を光で相殺すると言うのはすぐ考えられるけど、それでもちょっとやそっとの光じゃびくともしないはずなんだけれど」


 弥生が驚いた顔で千尋を見る。何が起きてもさして驚かない弥生の瞳が、驚愕に満ちていた。


「ものは試しと思ってやってみたのよ。あなたの言う通りただ『光』の印を使っただけではダメそうな気がしたから、光を極大まで強めてそれを圧縮してみたの」


 ここまで上手く行くとはね――と言って、千尋が右腕を翳すと『光』の印を出し、その横に『大』の印を浮かべる。そして『大』の印を『極』の印で一気に効果を高め、合成した印を光の印に重ねると――練武上の中心に太陽が生まれたかのように眩い光に包まれた。目を閉じても瞼を貫いてくる光に浩介は腕で目を隠していると、すぐにその光はやんだ。恐る恐る顔を上げると、千尋の手のひらの上に、バスケットボール程に圧縮された光の球が浮いていた。


「なるほど、とんでもないエネルギー量ね……さっき私が使った印もかなり効果を強めていたけれど、それさえねじ伏せたのね。素晴らしいわ」


 弥生が嬉しそうに笑う。千尋の才能を見せつけられて尚、己の勝利が揺るがぬものであると確信しているようだ。

 それで――と言って、弥生が口の端を吊り上げる。次の瞬間、彼女の周りに大小様々な黒渦が発生し、まるで宇宙のどこかを切り取ったような光景を見せた。


「その素晴らしい光の球で毎回私の印を相殺するつもりかしら? こんな風に大小何個でも出せるし、そのどれもがあなたたちを捕らえることの出来る必殺の威力を備えているのよ?」


 弥生の言葉に、勝機を見出しかけていた浩介がぐっと喉の奥を鳴らす。弥生の言う通り、確かにこのままでは防戦一方で終わるのが関の山だ。

 どうすべきか……と浩介が考えあぐねていると、千尋が浩介の肩をとんとんと指で叩いた。浩介が振り向くと、千尋は自信に満ちた笑みを浮かべて、人差し指をくいくいと曲げて耳を貸せと促してくる。何事かと思いつつ耳を寄せると、千尋はぽそぽそと喋り始めた。


「戦いが長時間にもつれ込んだら、恐らく私たち2人がかりでも負けるわ。だからあの人が油断している内に……」


 そこから千尋が話した作戦に、浩介は目を瞠りながら頷く。作戦の全てを伝え終えて千尋が顔を離すと、浩介はぽかんと口を開けて千尋を見つめた。


「……神条って本当にすごいんだな」

「……っ? な、なによ、そんなの今更でしょう……っ?」

「知性の意味でも、スタイルの意味でも」

「……っ」


 一瞬、浩介の心の底からの褒め言葉に顔を赤らめた千尋だったが。浩介の続く言葉で無表情になると、鍛え上げられた肉体の水月を貫手で正確に射抜いた。


「……何で鳩尾ばっかり……死ぬ……っ」


 顔面蒼白で呻く浩介の背中をばしんと叩いた千尋が、「まったく……」と小声でブツブツと呟いた。弥生は2人のやりとりに一抹の違和感を覚えたが、康介が顔を上げて弥生を見据えた所で、すぐさま脳内の思考の奔流を止めた。いくら子供とは言え、一瞬でも油断をすればやられる程の強者だ。決して侮ってはいけないと構えを取って目の前の2人に備える。


「それじゃ、行くぞ神条!」

「勝手に仕切らないで。あの人ごとあなたの身体を貫くわよ」

「あんたの場合本当に出来るから困る……」


 げんなりした顔から一転して、浩介が両手を翳す。


「『速』『速』『速』『速』『速』『速』――皆の前から消え失せて、韋駄天の如く駆け回れ――」


『速』の印が6つ重なって浩介の胸の中に溶け込むと――詠唱の通り、浩介の姿が消えた。そして練武上の床がべこりと凹み、少し遅れて凄まじい音がした。ただの踏み込みの音が、まるで爆発音に聞こえる。


「……普通だったら、肉体強化の印をそこまで使っても身体が耐え切れなくて印の効果がキャンセルされる筈だけど……あなたはどれだけ強い身体を持っているのかしら」


 千尋が呆れたように声を漏らした。

――浩介や千尋と同じ1年生でも、浩介が使う肉体強化系の印は使える。しかし、例えば『速』の印を2重3重に使おうとすると、身体の耐久力を越えてしまって折角出した印がキャンセルされてしまうのだ。それを浩介は6つ同時に扱うことが出来る。尋常ではない耐久力を有していることが伺えた。

 神速の踏み込みで間合いを縮める浩介に、弥生も負けていない。浩介の印の発動に食い気味で闇の印を足元に発生させると、瞬時に自身がそこへ入り込んだ。浩介は動きを止められず黒渦の上を通過しかかったが、そこへすかさず千尋の光球が叩きつけられた。先程のケースを考えれば弥生の身体が黒渦から弾き出されて再び浩介の軌道上に姿を現す筈だが、弥生も学習していて既に別の場所に作っていた黒渦から脱出していた。


「この……っ!」


 10m近く離れた弥生に浩介がすかさず飛びかかり、千尋も弥生の逃げ道を塞ごうと光球を複数発に分けて放つ。弥生は一瞬で複数個作った黒渦の中を匠に行き来して、浩介から離れながらも浩介と千尋両名に黒渦を通した攻撃を加える。物理的に飛び道具を放つこともあれば、印で作った氷の柱を叩き込んだり、或いは直接彼らの身体を掴んで黒渦に引き込もうとする。たった3人しかいない、ましてや三つ巴でもない戦いだと言うのに、練武場の全面を利用した同時多発的な戦闘が繰り広げられていた。


「……くそ、埒があかねえ……っ」


 千尋の前に神速で洗われた浩介が、激しく息を切らす。長期戦向きではない戦闘法であることは目に見えていた。


「そうね、これでは神草くんが力尽きて殺されるのが目に見えているわ」

「殺されるの!? しかも俺だけ!?」


 命のやりとりをする戦闘中でも、2人は茶目っ気を忘れない。弥生から見れば千尋は浩介の陰に隠れて顔しか見えず、楽しそうにやりとりしているようにしか見えない。


「ふふ、これだけ緊張した場にいながらそんな会話が出来るなんて……2人とも随分と図太いわね。それでも、そろそろ決着をつけないとね」


 弥生がふっと笑みをこぼすと――初めて、両手を前に翳した。


「2人は本当に強いわ。敬意を表して、私も全力を出してあげる」


 浩介の背後で、千尋が「まずいわね……」と呟いた。


「『闇』『広』『深』『闇』『広』『深』『闇』『広』『深』『闇』『広』『深』『闇』『広』『深』『合』『進』――生きとし生ける物たちが、行き着く先は闇、闇、闇。黒に呑まれてゆらりと消えろ、嫌だと言っても叶いはしない――」


 弥生が長い詠唱を終えると――全ての光を飲み込むようなブラックホールの如き黒渦が弥生の前に現れて、練武場を上下左右に覆い尽くした。人一人分程の厚みを持った黒渦が、浩介と千尋の下へと死の行軍を開始する。


「印を20個発生させて、今出来る限りの黒渦を作ったわ。ただのろのろと進むことしか出来ないけれど、この場所いっぱいに広がった渦から逃れる術は無い。どうせしないとは思うけれど、ここから逃げようと思っても無駄だからね。部下が全ての出入り口を塞いでいるから」


 黒渦の向こうから弥生の声が聞こえる。


「……やるじゃない。しょうがないわね……神草くん。私が足止めしてあげるから、後はあなたで何とかしてちょうだい」


 浩介の返事を聞くことなく、千尋が両手を翳す。そして艶やかな黒髪が鮮やかな蒼に変わってゆく。浩介は目を見開いた心配したが、今回の千尋は殺意に蝕まれておらず、決意を秘めた表情をしていた。


「『光』『大』『極』『強』『進』――生まれ出てたる決意の光よ、目の前の闇を打ち砕け――」


 詠唱を終えると、極限まで強められた光が球状になり、小さな太陽が生まれた。弥生の生み出した黒渦と同様にゆっくりと前に進み始めると、間もなくして弥生と千尋の印がぶつかり合った。


 光と闇の衝突。


 昼が夜に変わるとき、夜が朝に変わるとき、何も音など聞こえないように――千尋と弥生の生み出した光球と黒渦の衝突にも、音は生じなかった。

 けれど、音はせずとも――大気が揺れた。ずずず……と禍々しい音が聞こえそうな圧迫感が広大な練武場を満たし、まるで全身に強い重力がかかっているような感覚を浩介は覚えた。

 一進一退の攻防を続けるも……数十秒もすると、徐々に黒渦が押し始めた。


「……あなた、どういうつもり? さっきその髪の色になった時よりも、明らかに使っている印の数が少ないのだけれど」


 弥生の訝しむ声に、千尋はふんと鼻を鳴らした。


「別に? 全力を出すまでもないと判断しただけよ」


 この髪の色になっている間は印の威力が増すのよ、疲れるんだけどね――と千尋は笑う。


「それにこれは私一人で戦っている訳じゃない。とても癪だけれど……こういう時は彼の方が決着を付けるのに向いているようだから。……ほら、出番よ――」

「おう」


 千尋の声に応じて、浩介が不意に前に倒れ込んで、身体が地面に着く直前に、凄まじい前傾速度で踏み切った。


「何をして……? あ」


 浩介が踏み込んだ音を聞いて何を無駄なことを……と弥生は首を傾げたが、自身の黒渦の変化に気付いた瞬間、勝利を確信していた己の慢心を呪った。

 優勢を誇っていた弥生の黒渦だが、それでも千尋の光球により威力を削られ、『闇』の印の2つとそれに伴う『広』『深』の印が消えていて、計6つの印がキャンセルされていたのである。必然的に黒渦も小さくなり、練武場を綺麗に覆い尽くしていた闇に確かな隙間が生じていた。浩介は壁と黒渦の隙間を神速で通り抜け、壁を蹴って切り返すと一直線に弥生の下へ向かった。


「しま……っ!」


 弥生が目を剥いて慌てて、目の前に手を翳す。何か印を――と思った矢先、黒渦の向こうで声が聞こえた。


「『光』『隠』『留』の内『隠』『留』を解除」

「え……うぁっ!?」


 詠唱が聞こえた瞬間、浩介の身体から突如光の印が生じて、辺りが眩い光に包まれた。虚を突かれた弥生は、きつく目を瞑って超速で思考を巡らせる。


――この為に印を温存したのか――!


 千尋が浩介と会話している時に、こっそりとこの印を施していたのだ。本来であれば術者が操って場所を操作しなければいけない印だが、浩介が高速で移動するためとても自分で場所を操作するのは出来ないだろう。そのため『留』の印で光を浩介の背中に止め、更に『隠』の印で『光』の印の存在自体を隠したのだ。

 やられた――と歯噛みしながら、弥生はうっすらと目を開く。とは言え条件は浩介も同じ筈と思ったが、浩介が目を閉じてこちらに突進してきているのに気付く。初めから狙いを定めておけば目を瞑っていても問題無いのだろう。浩介の身体能力あっての策である。黒渦の為に何も無い中でよくこれだけ丁度良いタイミングで……と千尋の技術に驚きながらも、弥生は咄嗟に浩介の前に両手を翳した。


「『闇』『広』『大』『深』――目の前の敵を呑み込め――!」


 一切の余裕なく詠唱をすると、ほぼ同時に、再び黒渦の向こうから声が聞こえた。


「『光』『大』『極』『球』『飛』『隠』『留』の内『隠』『留』を解除」

「な――っ!?」


 弥生が瞠目するのと、浩介の身体から圧縮された光球が現れて、弥生の黒渦の下へ飛んでいき相殺したのは同時だった。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉっ!!」

「きゃあ――っ!」


 どさどさどさ――と物々しい音が立つと同時に、練武場を埋めていた黒渦が消滅する。


「浩介くん、大丈――」


 元の艶やかな黒髪に戻り、すかさず浩介の下へ駆け寄った千尋の動きが、ぴたりと止まった。


「う……うー……ん……んおぇあっ!?」

「あ……んぁ……っ!?」


――浩介が弥生を押し倒す格好で、その上弥生の豊満な乳房を揉みしだいていた。


「……何か遺言はある?」

「言い訳をさせてもらえない!? ちょっと待ってくれ今離れるから……っ!」

「あ、あの……私、君だったら結構良いかなって思ったんだけど……恥ずかしいけど初めてだから、もっと優しく……っ」

「ちょっと待って事態を悪化させないで! すげぇ嬉しいこと聞いちゃったけど!」

「今なら限界を突破して20個くらい同時に印を出せそうだわ。安心して、生まれたことを後悔するくらい苦しませてから殺してあげる……」

「怖すぎるだろっ!?」


 闘いを終えた練武場は、異様な程ふやけた空気に包まれた。




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