6.
「……霧ヶ峰は情報漏洩を徹底的に排除しているから、そういった情報は決して外部には漏れないはずだけど?」
静かな口調とは裏腹に、千尋の右手から人差し指が伸び、印を書く準備をしている。ぞっとする程廊下の温度が下がった気がした。
「……っ、わ、我々とて、あくまで確信を得ることが出来なかった。普通の学校ならば1日とかからない生徒情報の把握も、この学校の場合1ヶ月もかかったのだからな。それも、一部の情報は完全な裏付けが取れないままだった。お前たち2人の情報もそんな曖昧な情報の1つだった訳だ。本当はもっと、生徒が成長する前に作戦に移る予定だったのだ」
「……作戦?」
敵の言葉に浩介は眉をひそめる。ついさっきまで、実戦そのものを繰り広げていたのだから、嫌な予感もする。
敵は互いに目を合わせると俯いた。
「これ以上、具体的なことは言わん。後は煮るなり焼くなり好きに……あ、ちょっと待った、焼くのはちょっときついかもしれん」
豪火の奔流に呑まれた恐怖を思い出したのか、敵が顔を青ざめてかぶりを振った。
「そう。じゃあ、沸騰させた鉄砲水で煮てあげる」
強張った表情のままそんなことを言う千尋に、浩介が慌てる。
「待て待て待て神条! んなことしたら死んじまうだろ!?」
浩介が慌てて千尋の肩を掴むが、千尋は動揺した様子を見せず、冷たい視線を敵に向けたままだ。
「……この人たち、私の生い立ちを知っているようだから」
千尋の言葉に、浩介は彼女の内の触れてはいけない部分を知る。
「……だからって、殺さなくても良いだろう。いくら何でもやりすぎだ」
「……いいえ、私のことを知っていること自体、本来おかしいのよ。今や事情を知っているのは、私を含めた数少ない生き残りと、そして残るは……恐らく私の里を……私の故郷を……」
言葉半ばに、千尋が震えだす。
「神条……」
真相がどうであれ、浩介はこれ以上千尋に喋らせない方が良いと思い――
「取り敢えず、揉むぞ」
「え――やぁんっ!?」
――唐突に胸を揉んだ。
「うん、やっぱ柔らかいな。それでいて張りがある。最高だ」
「なんでビンタされながら人の胸を揉めるわけ!? あなた最低よ!」
千尋が真っ赤になりながら浩介に往復ビンタを食らわせる。顔を左右に揺さぶられながらも浩介は揉むことをやめない。
「あんたが落ち着くまで俺は揉む」
「これで落ち着ける訳ないでしょう!?」
そんなやりとりをしながら――千尋は自分の心が落ち着いてきたことを感じていた。千尋が落ち着いていくのとは対照的に、浩介の頬は腫れあがっていったが。
「しかしどうしたもんかな、こいつら」
「……なんであなたは……あれだけビンタされてまだ私の胸を……」
浩介は大まじめな思案顔をしながら、未だに千尋の胸を揉んでいた。千尋は徐々に力が抜けてきたのか、抵抗が弱まっていく。
――そのとき。
縛り上げた敵の足元に、大きな黒い渦が浮かんだ。浩介と千尋はやりとりを止めて息を呑む。
「これは……頭領の……!?」
敵の1人が呟いた瞬間、2人揃って吸い込まれるように闇に消えてしまった。僅か数秒程度の間に、浩介と千尋が闘った相手は綺麗にこの場から消えてしまった。
「……誰か、手引きしてる奴がいるんだな」
「そのようね。取り敢えずあなた程変態ではないことを祈るばかりだわ」
再び胸揉みを再開しようとした浩介の手を全力ではたきながら千尋が言う。
「ま、取り敢えずここは離れるしかねえか。……ん?」
頭をがしがしと掻きながら歩き出した浩介の直線状――廊下の端から、何かが迫ってくる。
形状は玉のようだった。
ボールという訳ではない。色が付いていないという表現が正しいのかも分からない、周りの空間を圧縮したような、奇妙な形。
それが、走るよりは遅く、歩くよりは速い程度でゆっくりと迫ってくる。
「……っ!?」
分かりやすい魔法印による攻撃でもないため、2人は一気に警戒の色を強める。玉に対して前方に位置していた浩介が千尋を庇うように腕を横に伸ばすと、千尋はきょとんとした顔をした。そして自分が庇われていることに気付くと、頬を仄かに赤らめて、その腕をぺしりとはたく。千尋の反応に浩介も驚いたが、それでも視線は玉から外さなかった。
「それ」は浩介と千尋の目前10メートル程の地点で、ぎゅっと縮まった。
「――っ、『水』『膜』『広』『強』『強』――我らを守れ――」
千尋が急いで印を生成するが、それが発動するよりも早く、玉が爆ぜた。2人は両腕を翳したが、何も起こらない。
代わりに、声が響いた。
『お前たちの仲間は預かった。第二練武場で待つ』
「……っ!?」
うるさくはなく、けれど一言一句はっきりと聞き取れる声が廊下に響き、防御態勢に入っていた浩介と千尋の耳にも当然ながら届いた。
2人が腕を下ろすと、廊下は既に元の静寂に包まれていた。
「……なんだ、今の……?」
浩介が呆然とする横で、千尋はプレートを弄っていた。その顔は険しく、良くないことが起こっているのだと浩介はすぐに分かる。
「……何が起きてる?」
浩介の問いに、千尋が顔を上げる。物憂げな表情は恐ろしい程美しいが、今は見惚れている場合ではなかった。
「……さっきプレートを見た時から、点滅の位置が変わっていない組が覚えているだけでも何組もあるわ。それに……さっきの声が言ってた第二練武場で、急にいくつも点滅し始めている。ゴールするにはどう考えてもまだ早いのに」
「それってつまり、さっきの奴らが……」
「……そのようね。しかも、先生たちとプレートによる連絡も取れないわ。携帯も当たり前のように圏外だし」
「……ずいぶんとまあ、分かりやすい展開だな、おい……」
浩介と千尋は事態を察した。
特殊な印『闇』を使う敵。浩介も千尋も、それどころかこの学校の教師でさえ把握していない能力。
敵の目的は分からないが、恐らくこの階で訓練していた同学年の生徒たちは軒並み攫われたと考えるのが妥当だろう。ある組はプレートを残したまま、またある組はプレートごと。そうして、プレートに表示されたマップでは、最終目的地である第二練武場に不自然なまでに点滅が増えたのだ。
「どうする?」
浩介が千尋に尋ねると、千尋は自信たっぷりに笑い、長い髪をかき上げた。
「決まってるでしょう。全滅させるわよ」
「そこは同級生を助けるって言えよ……」
げんなりした様子で浩介が言うと、千尋は首をくりんと傾げる。
「それはあなたがやってくれるでしょう? それくらいには信頼してるわよ?」
「え、あ、そうなのか?」
不意に投げかけられた言葉に、浩介は急に顔が熱くなるのを感じる。千尋はごく自然と言っているが、浩介にとっては中々の殺し文句だった。
「それじゃ、第二練武場に行くとしますか」
「そうね」
――2人とも、この学校に入った理由はそれぞれ全く違う。
それでも、この学校に入るものは皆、生徒・教師問わず心に描くものがある。
悪を倒す、正義の味方。
時代錯誤ともとられかねない概念ではあるが、それでも人の心を捉えずにはいられない魅力があるのも事実。
先陣を切って敵に立ち向かう者。
それを後ろから補佐するもの。
帰りを待って、怪我人を癒すもの。
思い描く立場は違えど、みんな目指しているものは同じだ。
だから、この状況は、浩介と千尋にとってあまりにも分かりやすかったのだろう。
視線が交わると、2人は小さく笑みを浮かべた。
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