毒蛇と魔女
キルケがクロウをつれて部屋を去っていったあと、氷の剣が溶けてレルネーは床に転がった。屋敷の主人が大ケガをしたと言うのに、召使いたちはレルネーの毒を恐れて近寄りもしない。
痛い。苦しい。
誰か。
傷口から流れた大量の血。
早く処置をしなければ危うくなる。腕を動かすたび傷口が鋭く痛んだ。けれど、自分でするよりしかたがない。この広い屋敷で彼に触ろうとする人間は一人もいないのだから。彼らを支配し動かしているのは信頼における主従の関係ではない。死がもたらす恐怖だ。
お気に入りのデスドールが壊れて転がっている。その綺麗なガラス玉の瞳がレルネーをじっと見ていた。
誰か。
自分を回復させたらもう一歩も動けない。
宝石をひとつまいて魔物を呼び出す。
「僕をベッドへ連れていって」
魔物はレルネーを抱えあげると彼の私室へ歩き去った。
血が飛び散り、壊れた家具が散らばり、焦げて転がったデスドールが無惨な姿をさらしている。主が去ったその部屋に、防護服を着た数人の使用人が入ってくる。ヒュドラーである主の血糊を掃除するためだ。少しでも吸い込めば即死に至る。
そのため彼にさわれる者はいない。
ベッドに寝かされて紺の天幕を見つめる。
誰も様子を見に来ない。いつものことだがこんな日は寂しいと思う。血も涙も何もかも、彼の体に通うものはすべて毒だった。吐息さえひとを殺すのには十分だった。
そのせいで両親に疎まれ抱き締められたことなど一度もない。何も知らずにレルネーに抱きついてきた幼い妹は命を落とした。それ以来、彼はこの屋敷の子でありながら、外へ出されることもなく、いないように扱われていた。
ある日、彼に唯一優しかった年嵩のメイド長が亡くなった。皆レルネーを怖がって近寄りもしないのに、彼女だけはレルネーのとなりに座り話をしてくれた。
レルネーは彼女を怖がらせたくなくて、触らないように手袋をし、喋るときは息がかからぬようにそっぽを向いた。彼女がついレルネーの頭を撫でそうになると急いで逃げ出しさえした。でも、本当は優しく抱き締めてほしかった。
ねぇ、誰か。
誰もいなくなった礼拝堂で、棺のなかに眠る彼女に初めて触れた。もう、命のないその人は、触れても死ぬことはない。レルネーは彼女を抱き締めた。ずっとこうしたいと思っていたのに、温もりを感じたいと思っていたのに。冷たい彼女を抱き締めながら、レルネーはそれでも嬉しかった。
大好きな彼女を抱き締められて嬉しかった。
ねぇ、誰か。僕を抱き締めて。
微かな物音がしてレルネーはベッドの上に身を起こした。
視線を巡らせれば、鏡の前に黒いローブの女性が立っている。
キルケだ。
月光のみが青く照らす室内を滑るようにこちらへ向かってくる。レルネーはベッドから滑り降りると、マントルピースの上に有る宝石をいれたホンボニエールに手を伸ばした。
「怖がらなくていいのよ。苛めないから」
レルネーは宝石をまいて魔物を呼び出す。
ところがキルケがちょっと指を動かしたとたん、産み出されたばかりの魔物が消されてしまった。核を潰されたのではなく、宝石に戻ってしまったのだ。
床に落ちて転がった宝石のひとつをキルケは拾い上げて何気なく指先で転がす。
「煙の魔物を使うのは、貴方に触ってもダメージを受けないからよね? 可哀想なレルネー。誰にも抱き締めてもらえなかったの?」
少しづつ距離を詰めてくるキルケに恐怖を感じたのかレルネーは次々に魔法を使った。防御の魔法、足止めの魔法、幻覚の魔法。けれど何れもキルケには効かなかった。涼しい顔で振り払い、微笑を湛えたままレルネーの側へ寄ってくる。
「デスドールを作るのも、抱き締めても死なない相手がほしかったからでしょう?」
「来ないでよ、キルケ! 近寄ったら君に触るよ! 死んでしまうよ!」
「指輪を欲しがったのは、その力で自分の毒を押さえられるかもしれないと知ったから。クロウを欲しがったのもそう。彼が魂を私にあげたと知って」
魂のない人間なら死なないとでも思ったの?
恐れも怒りも見せず優雅に歩いてくるキルケにレルネーは底知れない恐怖を覚えた。
「来ないで!」
「アモルでいいかしら?」
キルケに話しかけられ、アモルは立ち上がるとベテランのメイド長らしい優雅さでお辞儀をする。
「貴女は不死の身になったのよ。だからレルネーに触れても大丈夫。主に感謝なさい」
アモルは口許に手を当てて『まぁ』と驚きの声をあげた。それから主を振り返り笑顔を浮かべた。
「本当ですか坊っちゃま?」
未だ信じられないと行った顔でレルネーはアモルを見上げていた。そんなレルネーの前にアモルは膝をついてたった。
「それがもし本当なら、私は一度はしたいと願っていた事がございますの」
アモルは両手を広げるとレルネーの背中に回した。
しっかりと抱き締めて頬を寄せる。
「坊っちゃま。そんな悲しい顔をなさらないで下さい。婆ぁがいつでもお側に居りますから」
レルネーは優しく抱き締められてようやく実感したらしい。白い頬を涙が伝う。もう、彼女の前で涙を流しても、アモルが死ぬことはない。
レルネーはアモルをしっかり抱き締めた。
「お帰りなさいアモル」
ところが次の瞬間、体の力が抜けてアモルは床にくずおれた。レルネーが驚いて抱き止める。人形に戻ったように返事をしないアモルを掻き抱く。
「ねぇ。レルネー、よく聞いて。貴方の大切なアモルは私の力で甦っているの。この意味分かるかしら?」
先程まで女神のような微笑みを浮かべていたキルケが、ゾッとするような悪魔に変わる。
「貴方が今後私の大切なものに手を出すようなら、アモルにはいなくなってもらうわ」
パキッと指をひとつ鳴らすと、アモルは何が起きたか分からないようすで目を覚ます。『あらあら、どうしたのかしら』などと言って髪を直している。
「いいお友だちでいましょうね。レルネー」
キルケがまた女神のような微笑みに戻る。
レルネーはアモルを抱き締めながら、涙をためた目で頷いた。
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