幻の森

「さぁ、村へお帰り。ここは人間の居ていい場所じゃないわ」


 先ほどまで魔女がいた場所に、虎猫が座っており、ふたりを急かすようにそう告げた。言葉こそ厳しいものの、チェシャの口元は笑っているように見える。

 ミミの腕の中、ようやく目を開けたルカの顔をチェシャは覗き込むと得意げに目を細めた。


「ほら、やっぱりあなたと繋がっている人がいた」


『もう見失うんじゃないわよ』そう言ってウィンクして見せた。



 その後、村へ戻ったルカとミミに不思議なことがあった。

 彼をだました悪友が、かけ事に負けて店を手放してしまったというのだ。しかも驚いたことに、店の権利書を手に入れた紳士はそれをルカに条件付きで譲渡したというのだ。しかもその条件が奇妙なことに、指定された場所にパイの配送するだけでいいらしい。

 悪党から賭けで店を巻き上げるほどの人物だ。もっとひどい条件を突きつけられると思っていたのだが。


「その人はどんな方だったんですか?」


 店の権利書を預かっていた商工会の会長に尋ねたのだが、ここら辺では見ない顔だという。


「いやぁ、ただ悪党相手にお手並みは鮮やかだったよ。いかさまを一発で暴いたのだからね。敵に回したくはないものだよ」


「それで、友人は?」

「さぁ、あの夜から見てないねぇ」


 まぁ、見つかったところで牢屋行きは決まっているのだがね。

 と、会長は嫌そうに鼻を鳴らした。


 その後、誤解をしたままルカのもとを去っていった友人や仕事仲間たちが代わる代わる彼のもとへ訪れて謝罪を述べた。ルカも誤解がとければそれ以上非難するつもりはない。あの災難に苦しんだ日々がまるで悪夢のように消え去ってしまった。


 夢から覚めたような余韻だけが、ルカの記憶に残った。



 ***



 ろうそくの灯されたカウンターで、帰ってきたばかりの魔女が、冷めたパイを食べていた。虎毛の猫が言うことには、人に戻った鳥男は無事に村へ帰っていったという。これでしばらく温かい焼きたてのパイにありつけなくなった。

 いざ無くなると惜しい気になる。

 レシピ本は置いて行ってくれたようだけど、いったい誰が作れるというの?


 『このパイも食べ収めか』魔女はすこし憂鬱になった。


 その時、時間帯など一切構わないようすで、カフェのドアが乱暴に開けられた。ドカドカと靴を鳴らして椅子に座ると、行儀悪くテーブルに足を投げ出す。


「クロウ。あんたは自由にしてあげたはずよ?」


 冷ややかな視線を投げて魔女は言う。


「いやー。人間のところは騒がしくてね。やっぱりここが落ち着くよ」


 言葉に込められた棘も何のその。

 クロウはくつろいだ様子で、見るともなしにレシピ本を手に取ってぱらぱらとめくる。


「あいつ、帰っちまったのか」


 『詰まらねぇな』とつぶやいて、テーブルの上に本を返します。


「誰が戻ってきていいって言った?」


「まぁまぁ、そう怒りなさんな。手土産持ってきたからさ」


 そういうとポケットに手を突っ込んで、大ぶりの黒い真珠を差し出した。妖しげに緑色の光沢に包まれ、クロウの手の内で震えるように揺れる。


「悪人の魂ね」


「詳細には店をだまし取り、故意に友人の評判を貶めるという悪事を働いた者の魂な」


 お気に入りの侯爵夫人の夜会に行くんでしょう?

 ドレスに縫い付けていったら皆の注目の的ですよ。

 などと囁かれ、魔女はクロウの帰参を許してしまった。調子のよい使い魔に、少しお灸をすえるつもりでいたのだが仕方ない。


「クロウは焼き菓子は作れる?」

「まぁ、ある程度は」

「じゃぁ、明日からあなたがパイを焼いて頂戴」

「えぇ!?」


 相変わらずの主の気まぐれにクロウは冷や汗をかいた。

 でも、まぁ大丈夫。既に対策は取ってあるのだから。明日には焼き立てのパイが森の入り口へ届けられることだろう。

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