第25話 心の穴と。

 その夜、シェーラはアサヒの部屋を訪れた。

 結局アサヒを城から追放することを覆すことは叶わず、明日の朝に決行されるのを待つのみだった。そしてその事を伝えるという任を、シェーラは自ら引き受けたのだった。

 軽く握った手の甲で数回扉を叩いた。


「アサヒ……いますか?」

 案の定返事は無かったが、シェーラは構わずドアノブに手を掛ける。

「入りますよ」


 押してみると、どうやら鍵を掛けてはいなかったようで扉はすんなりと開かれた。部屋の中は照明も付いておらず、廊下から照らし出されたシェーラの影が部屋の床に長く伸びている。その奥、窓台に腰かけ外を眺める影があった。

 月明かりに照らされたその横顔は、寂しげで、悲しげで、窓の外ではないどこか遠くを見つめているような目をしていた。


「……明日の朝、お前を追放することが決まりました」


 その単刀直入な一言に、アサヒはようやくシェーラの方へ向き直ったものの、しかし陰になってその表情を窺う事はできない。何かしらのいらえがあるかと幾ばくか待ってみたが、彼女が声を発することは無かった。

 シェーラがその先を存外あっさりと口にできたのも、そのおかげかもしれない。


「私も……お前とともに城を出ようと考えています。……王族という肩書を捨てて――」

「シェーラちゃん、もういいよ……」

 予想していなかった否定の言葉に、シェーラは小さく息を呑んだ。

「もういい……とは?」

「うん。もう色んなことがどうでもいいんだ……。冬馬がいないなら生き残ってもあんまり意味が無いな、って思っちゃったから。だから、こんなあたしなんかの為にシェーラちゃんがそこまでする必要なんて無いんだよ」


 恐ろしいほど穏やかなその声に、色は無かった。籠っていたのはどうしようもない虚ろだけ。がらんどうな心の中がはっきりと映し出されたかのような声音だった。生きる気力といったものが、まるで感じられなかった。

 大切な人がいなくなってしまった悲しみは、シェーラも知っている。

 きっとアサヒは初めて経験しているんだろう。胸の真ん中に、巨大な穴が穿たれてしまったかの如き虚無感を。自分の一部が丸ごと消し飛んでしまったようなあの感覚を。


「アサヒ……私とて元から強かったわけではありません」

 シェーラはそこでわざと一呼吸置いたが、アサヒが黙って聞いていることを確認して再び言葉を紡ぐ。

「私にも師――つまり剣を教えてくれたものがいます。彼は私が幼き頃より世話係として面倒を見てくれた、育ての親と言っても過言ではない存在でした。ですが私が十二になったばかりの折の事……彼は、ダンジョンにて命を落としました。だから、アサヒの気持ちは痛いほどよく分かります」

「……そっか、ありがと。でも、だからなに? みんな経験することだって言いたいの? 分かってるから良いってば、そんなの」


 返してきた語調はやや強め。確かにシェーラも最初はそう言おうと思っていたが、今は違う。一見同じなようでも、シェーラとアサヒの境遇は似て非なるもの。だからシェーラは小さくかぶりを振って否定した。


「お前は、どうして悲しんでいるのです?」


 その頃になってシェーラの目もようやく暗闇に慣れてきて、アサヒの表情を読み取ることが出来るようになっていた。アサヒは一瞬だけ面食らったように目を見開き、次に唇の端に軽蔑するような笑みを刻む。


「今更訊くの……? そんなの決まってんじゃん」

「トーマが死んだからですか?」

「……っ!!」


 アサヒの表情がみるみる剣呑になり、手の平が白くなるほど強く手を握り締める。明瞭な憎しみの眼差しが向けられていた。しかしシェーラは臆することなく先を述べる。


「ならば間違っています。お前が悲しんでいるのは、トーマが死んだとからです」

「…………は?」


 意味が理解できない。アサヒはそんな顔をしていた。当然だ。もし逆の立場ならシェーラも同様の反応を示していただろう。だからシェーラは更に言葉を継いだ。


「私は……大切な人を失ったとき、その亡骸をこの目で見ています。体中傷だらけで、むしろ傷の無い場所を探す方が苦労するほど。傷の深い箇所に至っては、骨が剥き出しになっているという有り様でした」


 あのとき、それ以上見ていられなくなったシェーラは一目散にその場から走り去った。だが後に知らされた内容によると、その時はまだ息があったということだった。つまりシェーラはまだ生きていた師を死んでしまったと所為で、実際のその瞬間に立ち会うことが出来なかったのである。

 あの日をどれほど悔いたか数え切れない。

 五年以上が経った今でも、思い出すと胸の奥の方がじんわりと熱くなる。ふと気づけば、月の光もアサヒの顔も、まるで滲んだ絵具のように微かにぼやけ始めていた。


「ですがアサヒ、お前はどうですか? 《窓の使徒》ですからそのような惨い死に方はしないかもしれません。実際にトーマの亡骸を目にしたのですか?」

 そこでアサヒが何か言おうと口を開きかけるが、その喉の奥から声は出なかった。シェーラはそんな彼女を正面から見据える。

「エイルから聞かされた上に、そのエイルですらトーマの死の瞬間を見た訳ではありません」


 そう。それこそが、シェーラと朝妃の明確な違いだった。

 ここ数十年間のうちにダンジョンで行方不明となった者の数は百や二百ではない。にも拘わらず、その生還例は無し……。確かに希望と呼ぶには薄く細すぎる。

 たがそれでも、可能性はゼロではない。


「ならお前はまだ、信じるべきなのではありませんか? 彼が生きているのだと。いつか帰ってくるのだと……」


 糸がどれだけ細くても、頼りなくても、そこに糸があるのなら掴むべきだ。


「お前が今すべきことは悲しみに暮れる事ではなく、トーマが帰って来る場所を作ることではないのですか」


 アサヒは唇をきつく噛んだまま、動かなかった。服の裾を握りしめ床の一点をただ見つめている。シェーラはひときわ大きく息を吸うと、震える唇をそっと動かした。



「お前が信じなくて、いったい誰が信じるというのですか」



 静寂が訪れた。シェーラもアサヒも沈黙し、部屋の中に響くは振り子時計の刻時音のみ。だが朝食の時のような、嫌な静けさではなかった。

 アサヒが出した答えによっては、シェーラは城を出るつもりは無かった。

 確かにアサヒに対して罪の意識はある。だがやはり、名ばかりと言えど王族という肩書があればこそ、為せることが多いのもまた事実。シェーラには国民の幸せのために、その国民の一人として、生涯を捧げるという志があるのだ。かつて師がそうであったように。

 だから生きる意志の無い者のために、それらを棒に振る訳にはいかなかった。それゆえアサヒが震える声でこう口にした時、シェーラは心から安心したのだった。


「トーマ……まだ生きてるのかなぁ……」

「それはお前次第です。お前が信じ続ける限り、トーマは生きています」


 ぽろ、ぽろ、とアサヒの目から水滴が零れる。掠れた鼻声が嗚咽とともに暗闇に溶けていった。


「…………シェーラちゃん……ありがと……」

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