9.わたし今、とっても幸せです

「――それからしばらくしまして、わたしは直生くんから身体を離しました。至近距離で目が合った時、直生くんがとっても幸せそうに笑ってくださって。その笑顔がまた、とってもかっこよくてわたしは萌え……いえ、ときめいてしまったのです」

「……そっか、それはよかったね」

「えぇ。それでですね、目を合わせたまま直生くんがわたしの腕を取ったのです。そこからは、時間の流れがやたらとゆっくりになった気がしました」

「……うん」

「やがて、引き寄せられるように互いの唇が――……」

「……あのね、瑞希。惚気全開のところ悪いんだけど、もうそろそろお腹いっぱいだからやめてくれない?」

 翌日、お昼休み。

 お弁当を口にしながらわたしの話――もとい報告を聞いていた結鶴ちゃんは、心の底から呆れたような、げんなりしたような視線をわたしに向けてきます。そっけないように見えるかもしれませんが、お箸を当てている口元の部分をよぉく見てみてください。ほんの少しだけ緩んでいるのが、隠しきれていないでしょう? 嬉しいならば嬉しいと言ってくれればいいのに……まったく、素直じゃないんですから。

 ……まぁ、口に出してしまうとまた攻撃されかねませんから、余計なことは言わずに黙っておくことにしますが。わたしだって、自分の身が一番大事なのですよ。

「へぇ、昨日はそんなアツアツ展開があったのねぇ……いやぁ、羨ましいわ。リア充爆発すればいいのに」

 ここでふと後ろからかけられた声に振り向けば、席に座っているわたしたちをニヤニヤと笑いながら見下ろしている、小柄な女の子の姿がありました。

「三澄さん!」

「あら、あなたは確か……佐倉にフラれた子」

「ちょっと結鶴ちゃん!?」

 その言い方は明らかに失礼すぎませんか!? もう少しオブラートというものにお包みになった方が……。

 ですが三澄さんはさして気にした様子もなく、皮肉げな笑みを浮かべたまま「よく知ってるわねぇ。いったい、誰から聞いたのよ?」なんて非常に呑気なお返事。この間の傷ついたような表情とは、明らかに違います。まるで別人です。あの時はもしかして魂を乗っ取られでもしていたのではないかなどと、思わずおかしなことに考えが及んでしまうほどに。

「まぁ、一晩寝たらすぐ忘れちゃう性質だからいいんだけど」

「そうなんですか?」

 まぁ、寝たら結構ストレスというのは取り除かれると聞きますけれど。失恋の痛みも、それぐらいで案外取り除けてしまうのでしょうか。それとも、三澄さんがそういう性格なだけ?

 どちらにせよ、今まで勝手に抱いていた三澄さんのイメージが、今回のことでがらりと変わってしまったことだけは否めません。……あ、もちろん良い意味でですよ。

 今までは失礼ながら少々とっつきにくい雰囲気があったような気がしていたのですが、今回のことを機にもっとたくさんお話をして、仲良くなることができそうな予感がします。

「それより、村瀬さん」

「なんですか?」

 首を傾げるわたしにそっと近づくと、三澄さんは意地の悪い笑みを浮かべながらこそっとこんなことを耳打ちしてきました。

「おすすめのボーイズラブ作品、紹介してほしいんだけど」

「!?」

 驚きのあまり思わずのけぞってしまうわたし。っていうか三澄さん、いったい誰からそんなことを聞いたんですか!?

 ちらりと隣を見れば、我関せずとでも言いたげな結鶴ちゃんの表情。……あぁ、またあなたが易々とバラしやがったんですね。薄々感づいてはいましたけれども。

 ちょっと結鶴ちゃん、惚けたようにそっぽ向いて口笛吹く真似したってバレバレですよ。第一あなた、口笛吹けないじゃないですか。そんなことでこのわたしを誤魔化せると思ったら大間違いですよ。十年来の幼馴染なめないでください。

 はぁ……まぁいいですけど。彼女の口が軽いことなんて、今に始まったことではありませんし。

 わたしとしましても、こういったことを語れる仲間が一人でも増えてくれるに越したことはありません。今までそういう子が周りには(家族以外に)いませんでしたから、これはこれでなかなか新鮮なことかもしれませんね。

「初心者ですし……そうですね、まずはこちらの小説からお読みになられるとよいです。イケメンな攻めと可愛らしい受けの純情系、というのはボーイズラブ入門として非常に最適だと思うのですよ。普通の男女の恋愛モノを読んでいる感覚で読めばよいので。絡みのシーンも割とライトですし、しっかり萌え所というのもあって、わたしとしてはかなりおススメの逸品なのですよ」

「なるほど、これね。確かに挿絵も綺麗だし、ちょっと読んでみたいかも」

「よろしければお貸しいたします」

「ありがとう、じゃあお言葉に甘えるわね。ところで、さっき言ってた攻めとか受けってどういう意味なの?」

「まず、攻めというのはですね……あ、少々長くなると思うので、どこか空いているところに座っていただいて結構ですよ」

「わかったわ」

 空いている席に三澄さんを座らせると、興味津々な彼女に向けて早速ボーイズラブ講義を始めるわたし。そんな目の前のわたしたち二人を、口をはさむことなくどこか微笑ましげな表情で見守っている結鶴ちゃん。彼女はどこまでも、傍観者気質みたいです。引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、肝心なところでは決して関わってこようとしないのだから、性質が悪すぎます。

「お前の彼女、今日も自分ワールド全開だなぁ、ナオ」

「うるせぇよ、ちぃ。……あんな風に、好きなことに対して一直線なところとか、めちゃめちゃ可愛いじゃんか」

「はいはい、惚気惚気」

 ふと、後ろの方からそんな会話が微かに聞こえてきました。

 ちらりとそちらに目を向けてみると、いつも通りの明るい――しかしどこか悪戯っぽい感じの笑みを浮かべている暁くんと、とっても幸せそうな笑みをこちらに向けている直生くんが二人で立っていて。

 ……あぁ、わたしが今まであんなに頑張ってきた『もう一つの理由』は、直生くんのあの笑顔が見たかったからだったんだって、改めて実感してしまいました。昨日の幸せだった気持ちを思い出して、また胸がいっぱいになってきちゃいます。

「ちょっと村瀬さん、ちゃんと説明してよね」

「……あっ、ごめんなさい三澄さん」

 どうやらそちらに気を取られてしまい、説明がおざなりになってしまっていたみたいです。わたしとしたことが、不覚ですね。

「彼氏の方を見てたい気持ちもわかるけどさぁ」

「もう、そんなんじゃないですってば。からかわないでくださいよ」

 口ではそう反論するものの、緩む頬はやっぱり抑えきれなくて。

 気を取り直すと、わたしはほんのちょっとだけ不機嫌そうな表情でこちらを見ている三澄さんへと意識を戻し、説明を再開します。

「えぇと、どこまでお話しましたっけ」

「『攻め』の意味まで聞いたわ」

「そうですか、わかりました。では次は、『受け』という言葉の意味についてですが――……」


「――と、まぁ基礎情報についてはこんなところですかね」

「ありがと、大体分かったわ」

 三澄さんへの説明を一段落終え、ふと時計を見ると、昼休みが始まってからそろそろ二十分ほど経とうとしている頃。

 ……そういえば、今日って何曜日でしたっけ。

「……あぁ! 今日は図書当番でした。ごめんなさい三澄さん。わたし、行かなくては。続きはまた後日、お話しますね。お貸ししたそれ、空いた時間に読んでおいてください。お返し頂くのはいつでも構いませんので」

「りょーかい。もう少し聞いていたかったけれど、彼氏との貴重な時間を邪魔しちゃ悪いもんねぇ」

 ひらひらと手を振る三澄さんに、つい顔が熱くなってしまいます。……って、いやいや。今はそんなこと考えてる場合ではなくて。

「これは、単なるお仕事ですよっ。……直生くん直生くん、今日は図書当番です! 早く行きましょう」

「やっと気づいたんだ、瑞希。一生懸命になって、やっぱり可愛いなぁ」

「知ってたなら声かけてくださいよ! もう……早く行きますよ」

「はいはい」

 互いに自然と手を取り合い、教室から出るわたしと直生くん。刹那、後ろからフゥ~、などという歓声にも似た声が上がったような気がしましたが、気のせいですよね。気のせいだと言ってください。いくら自業自得とはいえ、やはりこれ以上怪我をするのだけは避けたいところなのですよ。

「手ぇ繋いでる。アツアツだなぁ」

「無意識なベタつきっていうのが、一番性質悪いのよね」

「まぁ、いいんじゃない? 二人とも、とってもいい顔してるもん」

 周りのざわめきに混じりながら順番に聞こえてくる暁くん、結鶴ちゃん、三澄さんの声に送られながら、わたしたちは今日も図書当番の仕事(兼おしゃべりの時間)を堪能しに行くのでした。

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