上話 真理よりの少女

 咲川さきがわ章子あきこは帰りの遅くなった夕闇の道を一人、自宅に向かって歩いていた。

 通り慣れた平坦な見晴らしのいい通学路を、週末の重い荷物が詰め込まれたバッグを背負って、トボトボと中学生らしく下校している。

 こんな重い荷物、教室のロッカーに置いておくぐらい許可してくれてもいいだろうに。

 中学生特有の愚痴は、担任の教師には通用しない。

 だから体操着やリコーダーに書道の用意など、持てるだけの用具を持って帰って見せなければいけなかった。

 弁当箱が空なのが救いなのか、寄り弁に漏れ弁を心配するのは登校時だけでいい。

 だからと言って、これに国語の時間に強要される分厚い辞典や絵の具などまで合わせて持たされていたら発狂ものもいいところだろう。

 それを毎日、学校に持って行っては家に持って帰っているのを繰り返しているのだ。

 どうだ懐かしいだろう。

 それとも今の自分と同じ立場で現在進行中の身の上だろうか。

 それなら失礼した。

 もし同じであるなら、きっと雨の日の道中がどれだけ辛いか、舐めさせられた辛苦辛労を分かち合うことが出来るかもしれない。

 いずれにせよ。

 学校に通う子供の身分は苦行でしかない。

 大人たちの言う、子供の頃に戻ってもう一度勉強し直したかった。

 などという妄言は、その身そのままで教師たちの放つ罵詈雑言を受けながら勉学に励んでみてから言えばいいのだ。

 父も母も勉強については何も教えてくれない。

 いや、くれなくなっていた。

 口頭で宿題の誤りを正してもらえるのはせいぜい小学三年まで。

 四年にもなるとそっぽを向かれていた。

 学年が上がれば上がるほど、その傾向が瑞著になるのは至極当然だった。

 勉強のレベルが上がるのだから。

 だが、急に手の平を返して叩きつけてくる、親たちのその自分で考えなさいという態度が子供には辛い。

 甘えるな?

 甘えて何が悪いというのだ。

 自分たちは子供だ。

 解らないことがあったら一番身近な大人である親に聞きに行くことの、一体何が間違っているというのだ。

 それでもいい歳して父母に勉強の事を聞きにいけば、返ってくるのは塾のチラシだ。

 ひらひら、ヒラヒラとここに行けば直ぐに分かるぞとバカ丁寧に教えてくれる。

 だから渡されたチラシを引き千切って自分の机に齧りつく。

 塾に行けばお小遣いが減らされる。

 塾に行かなければその分の浮いたお金が、月々の軍資金おこづかい、服や携帯や身の回りの物のに直ちに影響を与えてくれるのは言わずもがなだった。

 もちろん内申点やテストの点数が上がれば、二階級特進である。

 即刻、昇給につながることも見逃せない。

 イヤらしい手口だ。

 実にえげつない。

 しかしだからこそ、章子の両親はやはり、やり手であるといえる。

 金銭面の重要性と勉学の重要性を一括的に教えてくれているのだから。

 そしてお金では決して手に入らない大切な何かプライスレスも。

 それは愛であり、思考であり、命であり、身体でもあり、健康でもあり、教養でもある。

 その点に関してだけは、章子も両親に感謝していた。

 しかしそれは、今は別に置いておく。

 喫緊の問題は現在、そこにはないからだ。

 つまるところそういうこともあり。

 もはや中学の理・数・英は独力で突破するしかなかった。

 そしてこの三教科がネックなのである。

 残りの五教科の中で、国、社はなんとかなるので無視をする。

 あんなものは慣れと暗記でどうとでもなる。

 中学生で最大の敵はこの理数英だ。

 そして今も独力で高順位を維持している章子が最も油断を許していないのがこの三教科だった。

 季節は秋、章子は中学二年の二学期に差し掛かっている。

 すぐに差し迫っているのは来週の半ば、十月の後半にある中間テストだった。

 その一か月後には三年の進路志望にも影響する期末テストが控えている。

 章子に立ち止まっている暇など無かった。


 しかし……。

 そう、しかしだ。


 章子は街路樹の並木が濃くなってきた、人気の居なくなる細くなった帰り道の途中で立ち止まった。

 顔は今まで避けていた上空を恐る恐る見上げようとする。

 その通りだった。

 そんな今を必死に生きる女子中学生にも、この見上げれば否が応でも認識するしかない出来事は、あまりにも現実離れしすぎていた。


 夕陽の沈んだ夕焼け空に一際明るく浮かぶ巨大惑星。


 今まで通り過ぎていった人たちが、仰いでは騒めきを込めて後ろ髪を引かれていったこの超常的な現象。

 今日の昼に突然起こった日蝕の後、一瞬で空に現われた地球のように青い謎の巨大惑星。

 章子は今でもその時のことが忘れられない。

 あの時、章子は教室の中にいた。

 母お手製の弁当箱の中身に手を付けようとした時だ。

 辺りが急に暗くなりだし、

 騒ぎだした教室と廊下に、章子も何気なくその流れで教室の窓から身を乗りだし、校庭を眼下に納める景色から空を見上げていた。

 章子はその時までそんな事など一つも考えてはいなかった。

 空は真っ黒な日蝕だった。

 まるで何か不吉な事でも起こる前触れかのように日蝕が起こっていた。

 皆既日食だ。

 誰かの叫んだその言葉で、我に返って、章子は校庭に視線を移してみた。

 三年生から一年生まで様々なクラスの生徒たちと教師たちが校舎の外へと慌ただしく駆けだしていた。

 みんなして校庭で立ち尽くし、真っ黒な日蝕の世界を見上げている。

 見上げていると分かったのは黒銀の光が微かに地上を照らしていたからだ。

 その不気味な色の照り返しが逆に章子に恐怖心を覚えさせていた。

 日蝕はいつまでたっても日蝕だった。

 あのタイミングで昼休みの終る鐘の音チャイムが鳴っていたらと思うとゾッとする。

 世界を埋め尽くす常闇の光景に、終焉を告げるような鐘の音はダメだ。

 絶対にダメだ。

 あまりにも暗示過ぎている。

 もし鳴っていたら、章子はあまりの不気味さに卒倒していただろう。

 そんな女子が二人や三人はいてもおかしくはない。

 そう思えるほどに。あの日蝕は悪意ある凶兆に満ち満ちていた。

 そしてやっと晴れ渡ってくれた光を取り戻してく空に現われたもう一つの禍々しい惑星。

 それが人類にとってどれほど救いある惑星ほしになるかもしれないなどと、その時の一体誰が思う事が出来ただろうか。

 それぐらい唐突にあの惑星は現われていた。

 秋の筋雲の流れていく遥か彼方。

 その先を巨躯で占めるに浮かぶ、満月よりも遥かに大きく、青く輝く巨大な惑星。

 そんな事を考えて章子は一瞬、身震いをした。

 それが現在の事なのかあの時の事なのか判別もつかないまま。

 世界は立ち止まろうとしていた。

 立ち止まって混乱して、あの惑星を見定めようとしている。

 章子はそれを黙って見ているしかなかった。

 その事に気づいて章子は不意に思う。

 章子は置いてかれるのだろうか。

 世界が立ち止まっても章子はそれを世界に任せて無視し勉学に励み没頭するのだろうか。

 それともクラスの男子たちのように世界終末説を声高に叫ぶのか。

 章子には分からない。

 どれだけ考えても解らなかった

 解っているのは。

 今日は金曜日という事だけだった。

 何という庶民的な考え方だろう。

 思わずふって笑って章子はまた歩き出す。

 来週には月曜日の学校の用意がいる。

 時間割は何だったか……。

 その間の土、日を使って英、数、理、国の宿題を終わらせなければならない。

 みんなはそれをやってくるだろうか?

 帰り際。

 女子も男子も騒いでいた。

 突然の天変地異に大騒ぎをしていたのだ。

 教師たちは教師たちで一塊となりながら職員室のテレビに釘付けになっていた。

 生徒たちの安全を確かめるという名目だったが、実際はどうだかわからない。

 そのおかげで週の最後にある今日の級長委員会は遅れに遅れたのだ。

 教師も各学級クラスの級長たちの集まりも軒並み悪かった。

 だから帰宅もこれだけ遅れた。

 これで部活動までやっていたら目も当てられない。

 幸い、章子の中学では部活は強制入部では無いので、今のところは帰宅部で通している。

 しかしここだけの話。

 来年の三学期には、生徒会にも立候補しようと考えていた。

 今の章子は学級委員長だ。学校では級長と呼ばれている。

 つまり学級クラスの代表である。

 成績のある優等生は辛かった。

 それが章子の感想だ。

 だがなぜだろう。

 色々考えていると直ぐに感想が懐古に取って代わる。

 まるで走馬灯のようだった。

 走馬灯のように今の自分の現状を振り返っている。

 まさか今から死ぬわけでもあるまいし。

 しかし一抹の不安が章子の小さな胸に重く圧しかかっていたのも事実だった。

 本当に次があるのだろうか?

 来週の月曜日、本当に学校はあるだろうか?

 土日の休みの内にまた新たな現象が発生しないか?

 それが地球の終りに発展しないか?

 人生は何が起こるか分からない。

 それを今までの戦争や自然災害から経験して学んだのではなかったのか。

 章子はそんな事を思っていた。

 秋の夕闇には今日の昼間に現われた巨大惑星が未だに浮かんでいる。

 自然災害というにはあまりにも超常過ぎている目の前の現象。

 それほど現実離れしている現象も明日には消えているかもしれない。

 そんな淡い期待が頭を過ぎった。

 それがどうか現実の事になってくれると祈るように。


「咲川章子さん、……ですね?」


 だがそれは許されなかった。

 章子は選ばれていたのだ。

 声が章子を選んでいた。

 声は章子を選び、既に章子に声を掛けていた。

「……え……?」

 章子は眼を丸くして声を掛けてきた人物を見た。

 場所は学校から狭くなっていた路地が急に開けた大通りの交差点。

 その信号待ちの横断歩道の前で立っていたのは一人の少女だった。

 背後の片側二車線の道路を行き交う車のライトが眩しく、夕闇でよくわからなかった少女の輪郭を何度も何度も照り返している。

「咲川、章子さんですね?」

 少女がもう一度、章子を名前フルネームで呼ぶ。

「だ、誰……?」

 章子は戸惑っていた。

 見知らぬ少女に急に声を掛けられ、不意を突かれていた。

 何より頭はあの惑星のことで一杯だったから。

 まさか自分が名前も知らない会ったこともない初対面の誰かに話しかけられるなど思ってもみなかった。

「私は真理。

シン真理マリといいます。

はじめまして、咲川章子」

 少女は胸に手を当て、礼儀正しくお辞儀をした。

 不思議な少女だった。

 こんな時間にこんな道で、こんな場違いな純白のドレスを着ている。

 それでいて髪は黒髪で整えるのが楽そうな短髪だった。

 しかもスッパリと前髪も横髪も切り揃えてオカッパ頭にしている。

 しかしそんな時代遅れも甚だしい髪型ヘアスタイルが全然イボったらしくない。

 いや芋臭くないのだ。

 こんな頭をしていたら自分であれば絶対に笑われているに違いない髪型を、この少女は平然と綺麗に決めこなしていた。

「どうしました?」

 あまりに昭和的な髪型をあまりにも遠未来型に纏めている少女に、章子は思わず見惚みとれてしまっていた。

「……え?……あ、あ……いや……」

 慌てて自分の重い荷物カバンを背負い直して、正気を取り戻す。

 目の前の華やかな少女とは違い、亀のような無様な姿で、制服の紺色の襟に食い込む背負いカバンのベルトが今はただただ恨めしかった。

「それで……え、とっ……」

 どこか少女が道に迷ったのかと思い、章子はまず交差点の左右を見渡した。

 この近くにどこか自分と同じ歳ほどのこんな少女がこれほど浮世離れした格好で向かう場所などあっただろうか?

 結婚式場?

 パーティー会場?

 それともクラシック音楽などのコンサート会場だろうか?

 いずれにしてもそんな大層な施設がこの辺りにあったなどという記憶は一切ない。

「ど、どうしたんですか?

道にでも迷ったんですか?

なんか、大きな会場でも探してるみたいですけど……?」

 努めて冷静に自分の知る限りの丁寧な言葉を探して応対する。

 これで間違っていないはずだと自分に言い聞かせ。

 自分の背よりも少し低い少女に笑いかけて訊ねてみたが、意外な事に少女は首を振って章子の目をじっと見つめ返してきた。

「いいえ。

私が探していたのはです。

咲川章子。

私は貴女を探してこうして目の前に現れたのです」

 急に静かな雰囲気に切り替わった少女が懐から白いチケットを取り出して、章子にそれを差し向ける。

「あなたをペアで、にご招待しましょう」

 少女は冷たく笑って真っ白なチケットを差し出し、章子に語り掛けていた。

 それを耳にした瞬間。

 正直、章子の時間は止まってしまった。

 唐突に起こった日蝕。

 唐突に現われた惑星。

 唐突に目の前に現れた少女。

 そして唐突に差し向けられた白のチケットと言葉。

 目の前で起きてきた幾つもの現象が今ここで一つに繋がる。

「いま……。

なんて言ったの……?」

 章子の震えだす足を認めて少女・真理マリは改めて言った。

「ですから。

あなたを、あの惑星へご招待しましょう。と。

そう言ったのです。

咲川章子。

これはそのチケットです」

 無機質的にそう言って章子に白いチケットを手渡そうとしている。

「ほら、早くしないと信号が変わってしまいますよ。

渡りませんか?」

 強引に渡されたチケットを掴まされ、腕を引っ張られて章子は少女と大通りを駆け抜ける。

 対岸の歩道に着くと離された腕から手を自分の膝に当て屈み息を整えた。

「まったく。

これだけの運動で息を上げたんですか?

家に帰るのでしょう?

どちらの方角でしたっけ」

 キョロキョロと辺りを見回し、交差点を南に下った、自宅に近い木々の生い茂る公園の方へと歩いていく。

「何で知って……?」

 少女の進んでいく自宅への道順に驚き、章子は目を見張っていた。

「合っていましたか?

どうやら私のもまだまだ捨てたものではありませんね」

 笑って鼻唄を一つ鼻ずさみながら。

 フフンとした軽い足取りで自分の帰路を辿っていく少女を、章子は慌てて追いかけた。

「あの惑星のことを……知っているの?」

 弾んだ歩調で先を進む少女に、章子は恐る恐る声をかけた。

「もちろん知っていますよ。

咲川章子。

あの惑星「転星リビヒーン」は我が母ゴウベンが創り上げました」

「母?

お母さん……?」

「そうです。我が母ゴウベン。

母は過去の地球を真似。

太古の地形を模し。

それらを一つに繋ぎ合わせ。

そして新たな新大地を付け加えて巨大惑星として、この世界に出現させたのです。

あなた方の今日見た、日食の起こっている内に……」

「じゃあ……。

じゃあ、あの日食も……」

「そうです。

我が母が起こしました。

別に日食を起こさずとも転星を創りだすことは可能だったのですが。

それだけではなかなか気づきにくいでしょう。

ですから母はもう一つの劇場型デモンストレーションを実行したのです。

あなた方にも、すぐによく分かって頂けるように」

 後ろ目で自分を見る少女の事が、章子には不気味に思えた。

 それほど少女の語る話は常軌を逸している。

「よく分かるように?

いったい何を分かれっていうの?」

「あの惑星がちゃんとあそこに現われているということをですよ。

章子」

「馴れ馴れしくわたしを呼び捨てにしないでっ!」

 声を大にして張り上げた。

 肩で息をして呼吸を整える。

 幸い、左にある公園の木々が深いこの道には章子とこの少女の二人しかいない。

 誰も少女二人を目に留める者などいなかった。

「申し訳ありませんが、その願いには応えられません。

私とあなたとの関係上、この呼び方が一番都合がいいのですから」

「都合がいい?

何が都合がいいっていうの?」

「あなたをあの惑星へ連れていく役目を負って、いま私はあなたの目の前にいます。

その為にはあなたの事は敬称無しで呼びかけた方が順調に物事を進めることが出来る。

つまり私個人の都合です。

だから私はあなたを章子と呼ぶことを決してやめない」

「何を言ってっ……」

 そこまで言って先を言うのを止めた。

 こういう手合いには何を言っても無駄だ。

 それはクラスで級長の一回でもやれば身に染みてわかるようになる。

「申し訳なかったと思っていますよ。我々は。

いくらあの惑星を気づかせるためとはいえ、かなりの大事をしてしまった。

驚かせるつもりはなかったのですが仕方がありませんでした。

気づいていただくにはアレが最も効率が良かった。

あなた方、七番目の人間にはどうやら視聴覚効果に訴え出るのが一番、効果が高かったものなので」

 謝る少女に章子は訝しんだ。

「七番目……?」

「そうです。

七番目です」

「何が七番目だっていうの?」

「この地球上で栄えた、という意味で、ですよ」

「は?」

「ですから、あなた方はこの地球上で七番目に栄えた世界文明だと、そう言っているのです」

「さっきからあなたが何を言ってるのか、ぜんっぜんわからないんですけどっ!」

 降って湧いた怒りに任せて章子は立ち止まった。

「どうしたんですか?

帰らないんですか?」

「気味が悪いのよっ。

急にわたしに話し掛けてきたと思ったら、ワケのわからない事ばかり語りだして。

しかも、何っ?

こんどは古代文明?

オカルトか何かなの?

わたしにそんな話をして何の得があるっていうのっ?」

 肩で息をして捲し立てる章子にそれでも少女は冷たく見つめ返している。

 まるで章子の剣幕など毛ほども感じていないようだった。

「しかし、あなたが何を言おうとあの惑星は現実にあそこにある」

 言った少女が指し示した方角の空。

 木々の隙間から届く、夕焼けに沈もうとしている青く巨大な惑星の光が章子の目にも入ってくる。

「だから何がしたいのよっ?

あの惑星を出現させて何がしたいの?

世界征服?

それとも世界大戦?

世界の終り?

こんなワケのわからないことに世界の全ての人たちを巻き込んでアンタたちは一体、わたしに何をさせようって言うのっ?」

 そろそろ目じりに涙が浮かびあがってくる頃だ。

 これが章子の悪い体質だった。

 感情が昂ぶるといつも視界が滲みだす。

「そうですね。

あなたはそういう人だった」

「なに?」

 一つ大きく息を吐いて、少女は肩を竦めていた。

 そして今度は優しく章子を見つめ返す。

「私はあなたをあの惑星へ招き入れるようにと母から仰せつかり、ここに参上しました。

それだけなんです。

そしてそれは私も同じ考えです。

自らの意思で、あなたをあの惑星へ招待したいと、そう思って、いま私はここにいるのです……」

 そう言って踵を返すと最後に章子を見て語り掛ける。

「招待状は渡しました。

それを渡すことが私の最大の目的だったのです。

それを破り捨てるも、放り投げるもあなたの自由です。

しかしそれが唯一の、あちらへ渡ることができるための通行手形であることを忘れないでください……」

「ちょっと、待ちなさいよ!」

「章子っ?」

「だからっ……」

 少女の立ち去ろうとする腕を掴みあげて、無駄に喋る言葉を強引に静止させた。

「だから、わたしに何をさせたいの?

わたしをあの惑星に招待して、

それでアンタたちは、わたしに何をしろっていうのよッ。

わたしはそれが知りたいのっ!」

 全力を込めた握力で少女の白く細い腕を掴んで離さない。

 章子はただ選ばれた自分への求められているものが知りたかった。

「あ……、

ああ……」

「ああ?」

「いえ、私も大変な思い違いをしていたんだと。

ふと、そう思っただけです」

「わたしを選んだことが思い違いだったって言いたいの?」

「そうではありません。

私はあなたの欲している情報を読み間違えたとそう言いたかっただけなのです」

「なら答えてくれるのね?」

「ええ、もちろん答えますよ。

ただ、怒らないで聞いて下さい。

母や私は、あなたに何か特別な事をして貰うためにあの惑星を創り上げ招待したわけではないのです」

「え?」

 また何かワケの分からない事を言い始めたと思い、少女から手を放して一歩引き下がる。

「ただ見て貰えればそれでよかったのですよ。

あの惑星に行き、

あの惑星の世界の事を知り、

あなたがあなたの感じるままに、あの世界で見た事を有りのままに受け止め、考えて欲しい。

それだけを思って、私たちはあなたを招待するのです」

「それだけ?」

「ええ」

「本当にたったそれだけなの?」

「そうです。

それだけです」

 しかし少女の顔は、本当はそれだけではないことを如実に物語っていた。

 それほど今の少女の表情は苦渋に歪んでいる。

「ただ……」

「ただ?」

 そら来た。

 やはり何か裏があったのだ。

「ただ……、

言いましたね?

あなたをでご招待すると……」

 少女は申し訳なさそうに章子を見ている。

 確かにそんな事を言っていた。

 しかし、それが今さら何だというのだ。

「実を言うと、

そのもう一人は既に決まっているのです。

そして章子。

我が母ゴウベンはあなたよりも、そのもう一人を重要視して最優先に連れて行こうと考えている」

「え?」

 それは思ってもみない言葉だった。

 もう一人がいることもそうだったが、自分よりも優先的に存在を認められている人物がいるとは考えもしなかった。

 都合のいい話だが、あれだけワケが分からないと目の前の少女を責めていた章子でも自分がこの世界でただ一人だけ選ばれた、選ばれし者なのだと勝手にそう思い込んでいたのだ。

「もう一人……いるの?」

「はい」

 言った少女は頷く。

「誰なの?

女の子?

男の子?

年齢は?

同じ日本人?

一体どこに住んで……」

「章子……っ」

 一度に質問攻めにする章子を少女は静止させる。

「もう一人のことを知りたいですか?」

「当然でしょっ。

わたしの他にこんな事に巻き込まれた人がいるなんて放って置けない。

今すぐ会って相談しなくちゃっ。

それぐらい大ごとなことなのよ?

分かるっ?」

「……会う?」

 少女はピクリと章子の放った言葉の一つに気を留める。

「な、なによ?」

「今、会うとおっしゃいましたか?」

「そ、そうだけど……?」

 また視線を冷たくしていく少女に章子は狼狽する。

「申し訳ありませんが、章子。

あなたをに会わせる訳にはいきません」

「え?」

 それは更に目を見開かせる言葉だった。

「あなたを彼に会わせるわけにはいかないのですよ。

でないと、彼があの惑星に行くことは絶対にないのですから……」

 目の前でそう断言する少女は真剣な面持ちで章子を見つめている。

「な、何を言っているの?」

「ですから、彼があなたに会うと絶対にあの惑星に行こうとは思わなくなる。

いえ、絶対にあの惑星には行かないと決意する。

これはこの一年間、億に億を重ねた億の億乗倍も試行してみせた先行世界で、全て同じ結果となった絶対の事実です」

「え、ええ?」

「あなたにはまだ分からないでしょう。

しかし我々は何度も試みました。

手の平に浮かべた仮想の数置空間に幾つもの地球を浮かべ同時にのです。

あなたが彼と出会っても、彼があの惑星へ行くのかどうかという実験です。

しかし、悉くあなたは失敗した。

『わたしなら大丈夫、

彼を絶対に説得できる』

あなたはそう言って何度も彼の前に現われます。

ですが、あなたの姿を捉えた途端の彼の表情は強張ります。

私や母でさえ呆れましたよ。

普通、これだけ無量大数分に近い試作した先行世界を走らせていたら一回ぐらいは正反対の選択をとるものです。

にもかかわらず、彼は転星に行くことを結局、一度も選ばなかった。

その頑固な決意の奥底には間違いなくあなたの存在があった。

あなたが彼に会った時点で彼は転星へ行くという意思をキッパリと捨てている。

分かりますか? 章子。

私はともかく。

それだけは我が母ゴウベンが許しません。

何が何でもあなたと彼を引き合わせようとはしないでしょう。

あなたと彼が会う事の出来るのはこれより三日後の明々後日しあさって

来週の月曜日だけです。

その日、あなたと彼はこの地球ほしからあの転星わくせいへと旅立つことになるでしょう。

残念ながら、それまであなたが彼と会うことは決してない」

「そんな……三日間しか……ないの?」

「正確には正味、二日間ですね。

明日と明後日の土、日だけ。

それもあなたがあちらへ行こうと決心したらです。

あなたが向こうへ行こうと思わない限り、あなたが彼と出会うことは永遠にない」

「そ、そんなことっ……」

「やってみないと分からない? ……ですか?」

 突然、少女、真理は章子が言おうとした言葉を先に言い放った。

 先を越された章子は思わず怯まずにはいられなかった。

「ではお聞きしますが、彼から「君はなんであの惑星に行こうと思うんだ?」と聞かれたなら、あなたは一体なんて答えるつもりなんですか?」

「え?」

「なんて答えるんですか?」

「そ、それは……」

「止まったらアウトですよ。

章子。

彼はあなたのそんな一秒未満の澱みでさえ、見逃しません。

そのも全て含めて、彼は問答無用で空虚だと受け取ります。

しかも、あらかじめ答えを用意していてもダメです。

ダメなんですよ、章子。

「私は」「君と」「君や」などと言った言葉が入っていたらもう決定的ですね。

その時点で彼の心はこの地球に囚われたままです。

その状態になるともうお手上げ。

如何にあの巨大な転星を創りだした母と言えども、彼の心を動かすことは決して出来ない」

「そ、そんな……」

「じゃあどうすればいいの? ……ですか?

根を上げるんですね? 章子。

何度も回した世界でもそうでしたよ?

あなたは……。

そうやって彼の来なかった約束の地であなたは自暴自棄になったまま向こうに行くんです。

そして何も出来ずに向こうで生き恥を晒して一生を終える。

実に無様でしたよ。

私が選んだとはとても思えないみすぼらしい有様でした。

向こうで自分の居場所を見つけることも出来ず、かといって地球こちらに帰ってくることもできないあなた。

何故だと思いますか?

生活水準や基盤が圧倒的に違うからです。

こちらの星にはない技術があちらの星には山のようにあります。

その技術を目にしたあなたはこちらに戻る気を失くすのです。

地球に置いてきた、あの少年の事も忘れて……」

「少年……」

「そう。

少年です。

名前まで教えることは出来ませんが、身元が判明しない程度の情報ならあなたにも公開してあげましょう。

知りたいですか?

咲川章子?」

「ええ、しん……真理まり、さん……」

 真理はにこやかに笑う。

 章子の前で初めて見せる、心の底から出てきた笑顔だった。

真理マリ、でいいですよ。章子。

私はあなたにそう呼ばれることを最も好む」

「じゃあ、お願い真理。

わたしにその子のことを教えて」

 章子の願いに真理は頷く。

「彼はあなたと同じ中学二年生の男の子ですよ。

今は十三歳ですね。どうやら誕生日はまだのようです。

……そして同じこの名古屋という街に住んでいる日本人です」

「この街に?」

 驚いた章子に真理は頷く。

 思ってもみない情報だった。

「探してみますか?

探してみたいだけなら私も母も止めはしません」

 真理はそう言って見せるが今の章子にはその気力はない。

 章子は力なく首を振った。

 まるで敗軍の将の気分だった。

「今ごろ、彼の下にも既に母から直々にお呼びがかかったことでしょう。

母は大層、彼を気に入っています。

いずれ自分をも超える存在になると考えているようですね」

「存在を超える……?」

 章子にはその言葉が気になった。

 気になったから自然とその疑問を真理に投げかけていた。

「そうです。

おそらく彼はあの転星がどういう仕組みで現われたのかという理論をすでに思い当たっている」

「え……?」

「あなたではきっと分からないでしょう。

いえ、分からないと言った方が正しいのかもしれません。

おそらく向こうの世界でさえ、自分たちがどういった力で出現のか、まだ推測の域を出ていない」

 それを自分と同じ歳の男の子が既に理解していると言うのだろうか?

「そんな事がわかるの?」

「分かるんでしょうね。

凄いものですよ。

それこそ空恐ろしくもあります。

この私でさえ、この時代の人間として生まれていたらきっと理解することなど一生のうちで叶わなかったでしょう。

あなたと同じですよ。

このゴウベンの娘という立場でなかったら、きっとあなたと同じように起こった出来事全てに驚き、叫び声を上げていたでしょう。

必ず……」

「真理……」

「そんな顔をしないで下さい。

あなたもあなたで相当大したものなのですから。

突然の出来事に何度も見舞われながらも、こうして今日会ったばかりの私の話に耳を傾けている」

「今も半信半疑だけどね……」

「それでいいんです。

時間はまだもう少しある。

その内にこれが現実の事であると徐々に実感していく。

否が応でも」

「それなんだけど……」

「なんですか?」

 小首を傾げた真理に章子は聞く。

「あなたのお母さんってどういう人なの?

ゴウベンってとても女の人の名前には思えないんだけど」

「ああ。

母は母ですが、何も本当に母のお腹の中から生まれたというわけではないのですよ。

分かりやすく言うなら、私もあの惑星「転星」と同じようにして生み出されました。

指定した空間に、

予め計画、計算されていた身体を瞬時に構築され与えられたのです。

こういう風にね」

 言って真理が指を鳴らす。

 すると彼女の鳴らした傍で、もう一人、真理と同じ姿をした少女が瞬時に現われた。

 そしてその一瞬で現われた少女が口を開く。

「分かりますか。

章子?

ほら私は生きているでしょう?

こうしては生まれたのです。

そして、ほら、あの転星リビヒーンも……」

 言い終わらない内に呼び出した方の真理がまた、反対の手で指を鳴らした。

 鳴らした途端、急に現われて章子の手を握ってきた真理に瓜二つの少女は一瞬で消える。

 その呆気ない瞬間。

「なに……今の……?」

 章子は茫然と傍らに立つ真理を見た。

 手には消えた少女の体温がまだ残っている。

 いや覚えていた。

 体温も感触も。

 それが幻ではなかったのだと主張するように今もまだ消えず章子の手の中にあった。

 まるで今もまだあの少女が自分の手を握っているかのように。

「……今のを端的に言うなら召喚発生です。

そしてその原理を固体発生といいます。

これを分かりやすく言うとなると「魔法」という名の「科学」としか言いようがないのですが、それを事細かく説明するには、今のこの時間では毛頭足りない。

分かっていただけますか……?」

 申し訳なさそうに真理が言う。

 それを見ていた章子は愕然としていた。

 これは……。

 これはだ……

 日食や惑星ならまだ分かる。

 分かるが人間コレだけはダメだ。

 アレは命だ。

 紛れもない命だ。

 その命をまさにそこらの石ころのように出したり消したりするこの少女の事が章子には信じられないし理解できない。

「今のは人だった……」

「そうです。

もう一人のです」

「分身だったの?

よく忍者とかが使ったりする分身の術みたいな……」

「忍者の使う分身の術というものが、ちゃんと血が流れてというものなら同じでしょうね。

しかし、なにか一度でも傷を受ければドロンと消えるような幻の類だったら違います。

さっきのには紛れもなく肉体があり命がありました。

傷を受ければ血を流し、致死量の傷を受ければ叫び声を上げて激痛の下に死に至り倒れます。

そしてその死骸は人為的に後始末でもしない限り遺体としてのこる。

あれは私でありながらなのですよ。

そこには私以外の別の意思がありましたが、生みだしたのは私です。

その意思を持ってあの私は、産み出し消し去りました」

「……何を、言ってるの……?」

「ですから私の意思を持って、この手で私を産み出し、この手で私を消したとそう言っているのです」

「そういう事をいってるんじゃないのっ!」

 章子は怒鳴った。

 この込み上げてくる怒りがどこから来ているのか章子にも解らない。

「なんでそんなに平気なの?

あなた自身の事なのよ?

それなのに、もう一人の自分を勝手に作って、私に見せたと思ったらすぐに殺……、

殺し……、

殺……して……」

「章子……」

「何でそんなに平気なのよっ。

ぽんすか、ぽんすか、生んでは消して生んでは消してするなんて。

頭どうかしてるんじゃないのっ?」

 はあはあと息を切らして章子は言い捨てる。

 だが真理は意に介していないようだった。

 ただ疲れたように何もない脇を見ている。

……」

「え?」

 ポツリと呟いた真理の言葉に章子は反応してしまった。

の言葉ですよ。

あなた方はよくこう言うそうですね。

一度、人を殺してみたかった、と。

そして実際に人を殺める。

私から見れば、そんな何の感慨も湧きはしない徒労なだけの下らない行為に呆れるばかりですが、あなた方現代の人間はそう言ってそれを実行する。

しかし、一度でも「人を生き返らせて見たかった」と言い放った人物は一人だっていはしない。

彼を除いてはね。

なぜなら人は、人を殺すことは簡単に出来ても、人を生き返らせることは絶対に出来ないからです。

せいぜいが「人を死なせない」止まりでしょう。

ですが彼は違います。

あなた方は簡単に他人ひとに対して「殺すぞ」と言い放ちますが、彼は反対に「生き返らせるぞ」と豪語します。

まあ、流石にそれは嘘なんですが、彼は人間の生死というものについて非常に正確によく理解しています。

ですから今の現象を彼に見せても、あなたのような反応はしないでしょう。

彼はそれさえものですから」

「わたしがその子よりも劣っているって言いたいの?」

「そうです。

しかし、それをあなたが恥じる必要はありません。

今の現象を正確にすることが出来る向こうの世界でさえ、彼より優れている人間などのですから」

「冗談でしょ……っ」

 章子は吐き捨てるが、真理の顔は揺るがなかった。

「ホントにその子は知ってるの?」

 章子の問いに真理は頷く。

「ウソよ……」

 項垂れて章子は呟いた。

 それは何処から来る敗北感なのだろう。

 自分には分からない何かをそのもう一人は確実に知っている。

 これを。

 こんな事を。

 もう一人の誰かは理解しているというのだろうか?

 人一人をポンと生み出し、その生み出した人間をまた即座に抹消する。

 そんな命を弄ぶ行為を、もう一人は分かって否定できるというのだろうか?

「会わせて」

 章子が面と向かって真理に詰め寄る。

「お願い、その子に会わせて」

 章子にはその少年との出会いが必要だ。

 あの惑星に行く前に少年と会って、こんな馬鹿げたこと相談はなし合って、この少女たちと対等に話し合いが出来るまでに状況を正しく理解しなくてはならない。

 だが、もう一人の少年との交流を渇望する章子を、真理はただ黙って微笑みながら見つめているだけだった。

 まるで答えなどとっくの昔に出ているとでも言わんばかりに。

「それは出来ません」

「イヤよ。

絶対に会わせて」

「ならば仕方ありませんね。

あなたからあの惑星へ行く権利を剥奪させて貰います」

「あっ」

 言うと、章子の手に持っていた筈の白いチケットが消えて、すぐに真理の挟んだ指に戻り現われる。

「これで、あなたはもう完全に部外者です。

今までの記憶を消すようなことはしませんが、我々に介入することも不可能です。

また今まで通り、普通の日常生活に戻り、これからのこの世界のことを見つめてください」

「言いふらすから」

「お好きに」

「……なんで?

なんでそんな簡単にわたしを切り捨てられるの?」

「今度は泣き言ですか?

ですがいいでしょう。

最後に答えておきます。

あなたの代わりは幾らでもいますが。

彼の代わりは一人だっていはしません。

それだけの話です」

 それは冷たい言い草だった。

 だが真理にとってはそれが事実であり、結果でしかない。

「わたしの代わりって誰?」

 しかし真理は答えない。

 答えず章子に背を向けて立ち去ろうとする。

「さようなら、咲川章子。

こんなたったひと時の時間でしたが、非常に有意義で楽しかった。

三日後の月曜……。

せめて行方不明者として名の上がった少年とあなたの代わりとなって共に行く少女の存在を知って、その後の足取りを想像してください。

おらくそれがこれからあなたにできる唯一の……」

「待ってっ!」

 真理が消え去る前に章子はその腕を掴んだ。

 その手を冷たい視線が射抜く。

「なんですか?

あなたはもう部外者だと言ったはずです。

手を放してください」

「お願い、行かないで……」

「少年に会いたいのでしょう?

会えばいい。

自分で探して、自分で見つけて。

それが出来るとあなたは言った。

違いますか?」

「違う。

違うわ」

「しかし私たちは彼とあなたを会わせるようなことは決してしません。

まさかそれを理解していないわけでもないでしょう」

「それでもわたしは……。

わたしは……」

「困りましたね。

無駄な時間を使わせないで下さい。

次の女の子に会う支障が来る」

「いや。

会わないで。

私を選んで……」

「凄いことを言いますね。

中々の自意識過剰ぶりですよ。

我が母もビックリです」

「どうすればいいの?」

 そこでピクリと真理の動きが止まった。

「どうすれば、もう一度、選んでくれるの?

どうすれば、もう一度その子に会える資格をくれるの?」

 章子は握るその手に縋っていた。

 今まで消えようと思えば直ぐに消えることもできたはずだ。

 しかし、真理はそれもせずまだ章子の前にその姿を見せている。

 ならばまだ僅かでもその可能性は消えていないと章子は直感していた。

「二日間、辛抱できますか?」

 今すぐにでも会いたい章子は頷くことが出来ない。


「たった二日間です。

これからの二日間だけ我慢できれば、その後は嫌になるほどぐらい彼と一緒です。

好きなだけ話もできる。

あと二日間、会うことを我慢できるのであれば、またあなたにこのチケットをお渡しすることができるでしょう。

どうですか?

できますか?」

 鬱陶しいほどに何度も聞き返す真理に、だが章子は頷くことが出来なかった。

「そうですよね。

ならば仕方がありません。

やはりここで……」

「でもっ……ッ!」

 大声で言い詰まった章子を真理は見る。

「でも……、

でも……。

教えて貰う事はできるんだよね?

所在が割れない範囲なら。

その日、その時にその子が感じたこととか、思ったこととか。

その子が何を考えてるかとか。

そんな、いろいろな事を……」

 涙目を必死に堪えながら章子は真理に訊ねていた。

「完全にストーカーですね。

これを彼が知ったらドン引きものです」

「だから行かなくなるんでしょ?」

 力なく笑いかけた章子の問いに真理もまた笑い返す。

「いいでしょう。

それであなたの気が紛れるというのなら。

開示できる範囲でもう一人の彼の情報を教えましょう。

ただし章子、これから少しでもあなたと彼との接点が近づいた場合、即座にこのチケットはあなたの手元から消えてなくなるのでそのつもりでいて下さい」

「それだけ地理的に遠いところにいるって事なの?」

「言ったはずですよ。

と」

 そう言い終えただけで、人差し指と中指で挟んでいた白いチケットを章子の手元に一瞬で転移転送させる。

「これ……」

「決して失くさないように、大事に持っていて下さい。

それが当日、向こうへ渡るための通行券きっぷになるのですから」

「いいの?」

「少年に会いたいのでしょう。

二日間我慢できるというのなら、我々とて、第一候補であるあなたをむざむざ放棄する手もありません。

次の候補者だって会うことでさえ一苦労なのです。

またこうやって一からやり直さなくてはいけない。

その苦労を思えば、今のあなたに留まってくれた方が幾分も楽だということです」

「大変なのね。

そっちも」

「ええ、

あなた方、人間の相手をするのは本当に骨が折れます」

 二人して目が合うと、笑った声が止まらなかった。

 ひとしきり笑い終えたあと、

「さあ、ではひとまず帰りましょう。

立ち話をしていたら大分時間も過ぎてしまった。

これからあなたには二日間という短い時間の中で大いに思い悩んでもらうことになるのですから」

 その言葉を聞いて章子はピクンと跳ねあがった。

 そう。

 自分は決断しなければならない。

 この惑星ちきゅうから向こうの惑星へ行くという決断を。

 真理と共に帰り道を歩き出して章子は他に疑問のあったことを訊いてみた。

「向こうに行ったとして、滞在するのはどれくらいになりそうなの?」

「そうですね。

あなたの気持ち次第でもありますが、だいたい一年間を見込んでいます」

 ふうんと頷いて次を聞く。

「わたしの代わりに呼ばれるはずだった子って誰?」

「……。

と同じクラスの委員長の少女です」

「そんな!

私にはその子の事を秘密にしておいて、その子には目の前にその子がいるなんて!」

「彼女はあなたと違って聞き分けがいいのですよ。

仮に彼女にもう一人の存在を仄めかしたとしても、彼女は当日まで、が一緒に旅立つその人であるという事実に直面することなく待つことが出来る。

いえ、自ら進んで情報を遮断します。

その点だけ見れば、私たちにとって非常に都合のいい人物ではありますが、如何せん、それだけでは面白みにも欠ける。

彼と対等にあの惑星世界を渡り歩いてもらう為には、それではいささか心許ない。

それだけ彼女は自分に理解できない事を彼に依存することがまま見受けられる」

「仲がいいの?」

「いいのではないですか?

少なくともクラスメートです。

お互い初対面の他人よりもよほど気心が知れているでしょう」

「だったら、その男の子が最初からその女の子のことを知っていても……」

「確実に来ないでしょうね。

それだけ、彼女もあなたも学業の成績面だけ見れば彼を圧倒している。

彼は、そんな成績の低い自分を卑下しているのです。

彼女も身近でそんな頑固者を見ているから、尚更聞き分けがいい。

あなたが来なかったら、確実に次のパートナーは彼女です」

 断言する真理に章子はその真意を悟った。

「わたしやその子はなのね」

 そしてその直感は当たっていた。

「その通りです。

理解が早くて助かります」

 そう言ってお辞儀をする。

「あなたと彼が一緒に赴くことによって、向こうでは初めてここの文明力を推し図ることが出来る。

どれだけ無知で、

どれだけ不知な文明であるかというね」

 その目は哂っているように見えて笑っていなかった。

 いやもしかすると嗤ってさえいなかったのかもしれない。

 ただ、真理の先を見る目は章子たちの世界を……。

 章子の世界をただ……。

「わたし達の世界をバカにしているの?」

 章子は訊いた。

 それはただ純粋な疑問だった。

 真理の態度の端々からそのような印象ニュアンスを受けるのだ。

「そうですね。

よくこれで生活していけるな、とは思います。

正直感心しているんですよ。

よくもここまでの不自由な体と科学力と文明力で生き難さをまったく感じずに生きていけるものだな、と」

 それはやはり章子の世界を下に見た言い方だった。

 自分の持つ超越てきな力を当然の物として、それが無い世界を嘲笑している。

「さて、ではここまでです。

この角を曲がればあなたの自宅でしょう。

お疲れ様でした。

また明日も明後日も、新しい情報が次々と流れ込んでくるでしょうが、その奔流に飲み込まれずに自分の気持ちも見失わずに、そして見つけ出してください」

「もう会えないの?」

「あなたが会いたいと強く望むのであれば、また会いに来ますよ。

その方があなたも呑み込みが早いでしょう。

私を彼の代わりだとでも思ってくれればいいのです。

彼にぶつけたい疑問も質問も全て私に振ればいい。

そうすれば、私も私なりにあなたの不安が解消されるように努めましょう」

「じゃあ……、また明日も会うことはできる?」

「ええ。

もちろん」

 章子の願いに真理はにこやかに笑って頷いた。

 公園から離れた住宅街の角で街灯の明かりが瞬いている。

 その中に二人はいた。

 零れ落ちる照明の先で少女の影だけが離れようとしている。

「では、おやすみなさいませ。

咲川章子。

また明日お目にかかりましょう」

「うん。

おやすみなさい。

……真理」

 真理の姿が電柱で遮られた途端、あとを追った章子の目の前からその姿は完全に消え去っていた。

 それは手品のようだった。

 手品のように現われては突然、消えていった不思議な少女。

 だがそれが幻ではないことを章子は知っている。

 その手にはたった一枚だけ残された真っ白な券チケットが握られていた。

 ツルツルとした光沢の表面に何の加工も施されていないザラリとした裏面。

 表裏で全く違う質感のチケットを見てこれが夢ではないことを自覚する。

 

 そして見上げれば、やはりまだそこには青い惑星があった。

 地球に似た青く輝く巨大惑星。

 辺りの暗くなった今。

 秋の夕闇に青い惑星は一際明るく輝いている。

 二日後か三日後、あそこへ行くかという決断を章子は迫られる。

 今の自分にはまだわからない。

 わからないがこの短い期間に考えなければならない。

 彼女とはまた会える。

 そう思って章子は残りの道を歩き出した。

 家はもう目の前だった。

 住宅街の中程の道をもう一度曲がり、自分の家の姿が目に入る。

 郵便受けの扉を開けて玄関の戸を開けた。

 家の中では夕飯の支度もおざなりに、テレビに首ったけの家族の姿があった。

 章子は今日会った少女のことも話さずに、自分の部屋のある二階に上がる。

 着替えが終わったら手伝いなさいという母の声があった。

 もうすぐ父が帰ってくるという。

 章子はそれに返事をして、部屋に入った。

 家の中ではいつも通りの日常がまだそこにあった。

 たとえ世界が未曽有の出来事に見舞われていたとしても、章子の身の回りではまだ何も変化は起きていない。


 だが章子は気づかなかった。


 例えばそれは夜空。

 あの青く輝く巨大惑星の他に、全く配置の変わってしまったこの全天の星空を。

 いや正確には全天の星の位置は変わっていない。

 変わってしまったのは星の位置だった。

 その星空にはまだ青い惑星とは違い、元の星座の配置が見て取れることだろう。

 だがそれは確かに今の秋口では決して目にすることのできない星座たちだった。

 そして例えば夜中。

 皆が寝静まった頃。

 ベッドで寝息を立てる自分から少しだけ離れたところで。

 暗闇の落ちる机の引き出しの中にしまったチケットが、淡く白く光りだしていたことを……。


 章子はまだ何も知らず、温かい布団の中で、来たる明日に思いを馳せてまどろみの中に包まれていた。


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