大首絵(おおくびえ)
その日蔦重は斉藤を連れて歌舞伎に誘った。
当時の歌舞伎は掘っ立て小屋みたいなもので、照明は当然ながら太陽とろうそくしかない。
正直 斉藤は気が乗らなかったが、「これも絵の勉強です」といって無理やり誘った。隣には吉野太夫がいる。吉野は大店の越前屋に身受けされたことになっているが、実際は蔦重が越前屋の御隠居に頼み込んで身受けしてもらい、いったん同業の伊勢屋の養女に入り、斉藤のもとにきた。越前屋のご隠居は「ばあさんに殺されるかもしれない」とおそれていたが、そのばあさんも「あきんどが名を売る好機」と思い同意した。吉野太夫と初めて会ってから半年が過ぎていた。
予想通り越前屋は大賑わいとなった。
二人の生活はつつましいながらも楽しかった。吉野は「よし」と名乗り、三軒長屋という大きな長屋で二人で暮らしている。
「よし」は幸せだった。この稼業に入っていろいろな不幸が起きたが、それに耐えたかいがあったものだ。しかし「幸せすぎて怖い」のも事実だった。
演目はわからないが斉藤は役者の衣装からかつら小道具に至るまでスケッチした。
あいかわらず鉛筆は五作につくってもらっている。
うーん。斉藤は唸った。
「どうしました。先生?」
先生と言われるのも少し慣れてきたようだ。
「今までの役者絵を見てみると、美しすぎるんです。何もかもが。。。。」
「でも、役者だって人間だ、醜い部分だってあるんです。」
「ほう」興味深そうな蔦重の声がした。
「では役者の顔を大きくしてみたらどうですか?」蔦重は何気なく言った。
「うっ」ハッとした。
急いでスケッチを取る。役者の顔を見ては描き、描いては見ることを繰り返す。
こうなったらもう止まらない。
「こうなったらうちの人止まらないんですよ。」よしは嬉しそうだ。
「すっかりと奥さんになられましたね。」
まさかこの観客の中に絶世を極めた吉野太夫がいるとはだれも思わないだろう。
この時描かれたスケッチをもとに役者の絵を忠実に描いた「大首絵」が誕生した。
後世「写楽」といえば思い出す絵である。
実はこの絵は失敗に終わった。あまりにもリアルに描きすぎたため役者からも贔屓のお客からも嫌われた。
今に残る写楽の絵は発表時期が4期に分けられているが、すべて蔦屋から出版されている。後世に残っているのは200ほどである。
その夜、斉藤はおよしを抱いた。
お互い寂しさを忘れるようだった。
「こんな幸せがつづく」事をおよしは願ったが、「半ば無理」ではないかとおもってしまう。
「この人はどこかへ飛んで行ってしまう」そんな風に思っていた。
お別れを言う前に「この人の事」を覚えておきたい。
顔や声、体つきや歩き方、すべてが愛おしい。
やがて彼女の予想は的中することになる。
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