心の闇

由文

ある夜の出来事

見上げた空には月が見える。

星々は街の明かりで消され、月以外の明かりは空に見えない。

初夏の夜。涼しい風が吹く中、公園のベンチに座りながら、一人の男は絶望していた。


―――もう何もかもが嫌だ。


仕事も、家庭も、その他の生活も、全てが嫌になってしまった。


生きていく上でのやる気はとっくの昔に失われていた。それでも、暫くは惰性で頑張ってこれた。人間関係もなけなしの元気を振り絞って、上っ面だけの付き合いを続けていた。

元気がなくなった時は地面を掘って土を盛り固めたような、ハリボテの元気を振り絞った。仕事だからと、嫌なヤツとも嫌な顔をせずに付き合った。面倒ごとは嫌だからと、面倒くさい人間に絡まれた時も嫌な顔をせずに宥めてやり過ごした。

一度動き出した電車は惰性で動き続けるように、人生を惰性で生き続けてきた。だが、いつしかその惰性も続かなくなっていた。気が付くと下にレールはなく、動き続けるための車輪はガタガタに壊れていた。


―――趣味は忘れた。

仕事に追われ、忙しさの中で普段何をしているのかを忘れてしまった。


―――好きなことは忘れた。

数少ない休日で家族サービスをしているうちに、自分の好きだったことを忘れてしまった。


―――友人は居なくなった。

日々の忙しさを理由に連絡を取らないうちに、友達と呼べる人間は居なくなった。


―――自分が何者かを忘れた。

様々な人づきあいをしているうちに、自分というものが何かを忘れてしまった。


気が付くと、自分には何が残っているのかわからなかった。ただ一つ分かることは、自分は既に搾りかすでしかなく、燃えかす同然だということ。



ベンチの脇にはビールの空き缶が転がっている。コンビニの袋から、新しい缶を取り出して開ける。一気に煽って、溜息をつく。酒を飲んだところで満たされることは無い。

嫌なことがあったら酒を飲んで忘れればいい、とは誰の言葉だっただろうか?自分にそんなことは出来なかった。いくら酒を飲んだところで、嫌なことは忘れないし、現実問題、嫌なことは目の前に山ほど積まれたままなのだ。二日酔いの頭でその現実に直面した時の絶望感は、普段のそれ以上だ。だから酒を飲んだところで、何も良くはならない。だが、飲まずにはいられなかった。


「ああ嫌だ。死にたい。」


思わず零れる言葉。誰に伝えるでもない、心の切れ端。言葉はただの音として、公園の闇の中に消えていくだけ。だが次の瞬間、不思議なことが起こった。

目の前にピンクの像の神様が現れた。何故だか知らないが、目の前のそれは神様だと信じてしまった。


その像の姿をした神様は、男に質問をした。

「君は、何でそんなに絶望しているのか。」

「世の中に、俺にとって何一つ良いことなんてない。どこに居ても悪いことばかりだ。これを絶望せずに、どうしろと言うんだ。」

「君は、何をそんなに嫌うのか。」

「世の中のすべてだ。俺にとっては全てが敵だ。どんな時も、誰もが俺の味方になってくれることは無い。良かれと思ってやったことも仇となって帰ってくる。こんな世の中のすべてを好きになれるはずがない。」


神様は、男の答えに困った様子だった。更に質問を続けた。

「君は、何を信じるのか。」

「何も信じられない。この世に神様がいるというのなら、そんなものクソくらえだ。俺にはその手が差し伸べられないなら、それは居ないも同然だ。世の中は平等と言うが、どこに平等があるというのか?世の中は不平等で溢れかえっている。権力を我が物顔で振るう者、声の大きい者、弱者を騙った強者、数を正義と勘違いしている者。そんな人間が、それぞれの正義を他人に押し付けてくる。そして、価値観の違う正義にそぐわない人は不平等の波に押しつぶされる。そんな世の中を、俺は信じられない。」

「君は、何故生きているのか。」

「死ねないからだ。死んだところで、その後に残るのは他の人間へ面倒事を押し付けるだけだ。自分のやらなきゃいけないことを放り出してまで、他人へ迷惑をかけてまで、死ぬ理由がない。」


神様は、自分が罵られるようなことを言われても、特に怒る様子はなかった。

「私は神だ。目の前の私は君の信じる心が生み出した。全てに絶望している君に一つだけ、願いを叶えようではないか。何が良い?」

「神に願うような物はない。欲しいものがあれば、自分で努力して手に入れる。自分の努力で手に入らないものは、身の丈に合っていないから欲しがる必要はない。俺の心から生み出された癖に、そんなことも知らないのか?」


その言葉を聞き、神様は諦めた。

「そうだったね。神でも君は救えない。私は去ろう。」

その言葉が終わると、神様は闇に溶けるように消えてしまった。やっと静かになったと思うのも束の間、今度は一人の女性が目の前に立っていた。

「神は消えたわ。あなたはどうしたい?」

「自由に。出来れば消えて無くなりたい。」

「どうしてかしら?」

「存在自体が無くなれば、誰も困ることは無い。死ぬ訳ではないから、俺も苦しまないで済む。」

「随分優しいのね?世の中に絶望している割に、世の中に迷惑をかけたくないなんて。」

「元より、俺が居なくなったところで世界は困らない。時間は進むし、仕事だって誰かが代わりにヨロシクやるんだ。消費するエネルギーと酸素量が減る分、環境にいいくらいだ。嫌がらせにすらならないことを、俺は望まない。」

その女性と会話をするのは、先ほど居た神様と話をするより心地よかった。

「ところで、お前は誰だ?」

「私は悪魔よ。あなたの心が生み出した。絶望が形になったモノ。」

女性は艶のある声で、まるで人を誘惑するかのように続けた。

「あなたの望みを一つ叶えてあげる。」

その言葉のあと、女性は特に望みを聞かなかった。男に望みがなかった訳ではない。その望みは、既に女性に口にしてしまったから。


「じゃあね。」

女性はその言葉を最後に、夜の闇に溶け込むように消えてしまった。だが男は気にしなかった。缶に残ったビールを煽って空にする。


家に帰る気にはなれなかった。外は寒いわけではない、むしろ過ごしやすい。男はそう考えると、ベンチに横になった。酔いが回って眠くなってしまった。欠伸を数回した後、男はいびきをかきながら寝てしまった。


暫くすると、消えたはずの女性が現れた。男はそれに気づかず、いびきをかき続けている。そして寝言を言った。

「こんな世の中、みんな死んでしまえばいいんだ。」

男の寝言を聞いてから、女性は静かに言った。

「残念。叶えられるのは一つだけなのよ。」

そういうと、女性は男に軽く口づけをして、その場を去った。



翌朝、明るくなる頃。公園のベンチに人影はなかった。ベンチの脇にはコンビニの袋と、ビールの空き缶が数本転がっているだけだった。

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心の闇 由文 @yoiyami

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