第拾弐章
―拾弐―
功祐と別れた識也はアパートに戻るとすぐに情報の整理に掛かった。
カーテンを締め切った暗い部屋の中で机の上のスタンドライトとパソコンを起動し、パソコンに繋いだヘッドホンを耳に当てる。
音楽ソフトを立ち上げ、バッハの無伴奏チェロ組曲を音量最大にしてリピート再生する。周囲からの雑音をそれによって完全に遮断し、眼鏡を掛けた。眼鏡の度は弱く、普段は掛けずとも困らないが何かに集中したい時に行う、識也にとってある種儀式の様なものだ。
まず識也は開いた表計算ソフトに、功祐から得た氏名と住所などの情報を入力していく。姓と名、性別、体格や県と市など、細かくセル毎に分けて整理する。死亡者については遺体、現場の状況など思いつく項目を、記憶の中の写真を確認しながら埋めていく。被害者の共通性の有無を確認するためだ。
功祐からの情報を一通り入力を終えると、識也は今後の被害者――つまりは伊藤しずると都月未来――の情報を付け加えていく。未来については凡そ識也も知っているが、しずるについては遠目で確認しただけなので、体格などについては大雑把に、居住地は空欄で、そして殺害場所はネット上の地図サービスから掬い上げていった。
出来上がった簡易データベースを簡単に眺めると、識也は立ち上がってコーヒーメーカーからカップに朝淹れたコーヒーを注ぐ。淹れてから時間が経っているため渋く苦いが、頭を働かせるこの状況にはちょうどいい。湯気の立ち上る液面を軽く吹いて冷ましながら、椅子の背もたれに体を預けてコーヒーを胃に流し込んだ。
そのまま画面を睨みつけながら考えこむ。コーヒーカップだけを口に付けた状態で、右手のマウスを使って時折データを並べ替えたりしながら識也は思考の海に沈んでいった。
結論から言って、識也には何か手がかりに繋がるものは見出すことはできなかった。
数時間に渡って写真やデータとにらめっこし、必死に頭を働かせる。その結果分かった事と言えば被害者に女性が多い事と、行方不明の女性は十代後半から二十代前半で、その内の幾人かは事件以前から度々家出などの非行が見られた事くらいだ。唯一、貰ったデータの中で最も古い四年前の行方不明の少女だけが例から外れて品行方正な生徒だったようだが、それらの情報からそれ以上の何かを見出すことができない。
(そもそもこの人たち全員が一連の事件と関係あるとは限らないからな……)
自分は名探偵などではない、と功祐には謙遜して言ったが全く以てその通りだ。小説の中の彼らみたいに都合よく何かを閃く事など無く、功祐には悪いがこのままもらった情報を見続けても時間の無駄に終わりそうな気しかしない。
「……」
眼鏡を外し目元を揉み解す。立ち上がってもう何杯目か分からないコーヒーをカップに注ぎ、椅子に座りなおす。溜息を吐きながら無機質な天井を眺めると、椅子がキィと軋んだ。
少なく、ノイズの混じった情報から真実を見抜く聡明さも勘の鋭さも自分には無い。また、事件の起きていない今の段階で警察に動いてもらう訳にもいかない。他に頼れる人間も居ない。
この先の事を知っているのは自分だけ。そして理想とする未来を手に入れるためにも、自分一人で何とかしなければならない。諦める訳にはいかないのだ。
「この先を……知っている?」
知らず眉間に皺が寄っていた識也だったが、思考の中で過った言葉が引っかかった。
「そうか……伊藤しずると未来の二人の事件は起こるんじゃないか」
確かにこの世界では二人の身に何かは起こっていない。だが間違いなく、この先に二人は殺される。それも――恐らくは犯人は同じ。
「……アプローチを変えるか」
過去の情報ではなく将来の情報から得られるものは何か。識也は背もたれから体を起こし、机に肘を突いて口元を覆った。
まず伊藤しずると都筑未来の二人に共通するもの。それは女性であるということ。そして識也と同じ高校の生徒であるということだ。であれば、犯人は学校関係者、或いは学校の近くに住んでいて、彼女ら二人を知っている可能性が高い。
「……そういえば、学校の近くに不審者が居るって良太が言ってたな」
良太だけでなく担任教師もHRでそう伝えていた。性別については明言していなかったが、残念なことに現代日本においては不審者イコール男性という構図が成り立つ。例え女性が少々妙な行動をしていても、おかしな女性と見られるだけで学校で警戒される程の不審人物とみなされる可能性は低い。
何処の誰かは知らないが、ならばその不審者が犯人なのだろうか。断言はできないが可能性は高そうだ。学校の近くを張り込みでもしておけばその彼が何者かは分かるか? いや、下手に警戒すると予想外の行動をとり始めることも考えられる。確かに識也はこの先の出来事を知っているが、全てが確定事項では無いのだ。ハッキリと犯人が分かっていない状況でそうするのは少々リスクが高そうに思えた。
「……」
しばし思考を巡らせ、識也は冷めたコーヒーに口をつけた。そしてまた少々思考の方向性を変えて二人のある共通点に焦点を当てる。
それはすなわち――遺体の状態だ。
「二人共首を斬り落とされていたよな……だが、どうしてそんな事をする必要がある?」
識也の脳内には明確に正確に二人の遺体の映像が再生されていた。棺に入った未来の寝顔が鮮明に思い出され、識也は下唇を強く噛み締め深い皺が眉間に刻まれる。
昂ぶる感情を飲み下し、気持ちを落ち着けて冷静に記憶の中の遺体を観察する。双方ともに鋭利な刃物で首が切断され、未来に至っては葬式の時点で体の方は見つかっていなかった。しずるの遺体を見る限りでは、頭部は暴行の跡があってかなり粗雑に扱われている反面、吊るされた肉体の方は傷も少なく丁寧に扱われている印象がある。
「体の方が必要だった? だが何に使う?」
しずるの遺体は首を斬り落とされた上に逆さに吊られていた。それはかなり手間だ。そんな手間を掛けるのは何かしらのそうしなければならない理由が存在するはず。
理由として識也が真っ先に思いついたのは臓器だ。非正規なルートで人間の臓器が売買されるといった噂は昔から枚挙に暇がない。肉体的に成熟して、しかも若く健康な臓器は必要としている人間からすれば魅力的だろう。その点、女子高生というのは理想的かもしれない。だがそうするとわざわざ首を斬り落とす必要はない。無駄な作業だ。
「体が必要じゃなくて頭が邪魔だったのか? 持ち運びの問題?」
それにしても頭部は、全身から考えれば大したサイズではないし絶対に斬り落とさなければならない理由としては弱い。
しばし考えるが識也はまたしても行き詰った。功祐に貰った情報を並べている時よりも先に進んだ感はあるし、幾つか正解そうな理由は思いついたがいまいちしっくりとこない。
「合理的な理由だけを追求しすぎなのか?」
ただ単に不要な部分を落としたというだけかもしれないし、犯人の気まぐれかもしれない。首を落とすことに意味はない。その可能性も否定できない。
犯人が体の部分だけを持ち去った理由はまだ不明だが、頭部に関しては深く考える必要はないのかもしれない。そう思いながら識也はベッドに寝転び、溜息を吐いた。
「しかし……犯人も分かっちゃいない。アレだけの綺麗な顔を残していくなんて」
馬鹿にしたように鼻を鳴らす。識也にしてみれば死体の頭部こそが最も価値がある場所だ。使わないからといって放置していくなど愚の骨頂。自分であれば使わないにしろ持ち帰ってじっくりと芸術品のように――
「――待てよ?」
ベッドから唐突に体を起こし、頭の隅を過った引っかかりに意識を集中する。
どうして死体の情報から一般的な意味ばかりを見出そうとしている? 一般的な価値のみを論じているのか?
立ち上がって台所へ移動。換気扇を回してタバコに火を点ける。煙が立ち上り、換気扇の奥へと吸い込まれていく。
自分は世間に溶け込もうとするあまりに、思考までそちらに寄せすぎていないだろうか? どうして金銭的価値や物質的意味にばかり意味を追い求める必要があろうか。物の価値とは必ずしもそればかりではないというのに。
「もし――」
もしも犯人の思考が一般的なそれとはかけ離れていたら。犯人の価値観が普通とは違いすぎていたら。
もしも犯人が――識也と同じく死体そのものに精神的な価値を見出しているとすれば。
「……」
灰が流しに落ちる。だが識也はそちらに意識を割かない。
識也は死体の頭にこそ普遍的な美しさを感じ、鑑賞し、価値を感じ取る。それは常識からすれば頭のネジが外れて何処かへ蹴飛ばされて無くしてしまったような考えだろう。しかし確かに世の中にはそんな人間が存在する。
識也の興味は頭部。だが犯人は、物言わぬ女性の肉体にこそ普遍的な美を、いや、美では無くていい、何かしらの、殺してでも手にしたいほどの精神的な面で強い価値を見出しているとすれば。持ち去る意味は何か。
「鑑賞か、或いは収集か……」
いずれにせよ、その考えは識也の中でストンと腑に落ちた。同じ異常な趣味嗜好、そして思考回路を持つ識也だから理解できた。
犯人が肉体――つまり識也が頭部を収集するなら、鑑賞するならどうするか。一度では足りない。何日も、何年でも死んだ時のまま気が向いた時に、心がざわついた時に鑑賞して心を落ち着かせたい。
であれば、死体は持ち帰っているはず。丁寧に処理をして、薬品処理をし、低温で安定的に保管しようとする。
「なるほど……だから『血抜き』なのか」
しずるの遺体を逆さに吊るしていたのは、首の切断面から体内の血を抜いてしまうため。未来の肉体が不明なのは犯人が自宅で大切に保管しているから。そして肉体に執着している反面で頭部の扱いが酷いのは恐らく――
「犯人にとって『顔』は価値を損なうからだ」
或いは、損なう以上の憎悪か。未来の顔が傷つけられてはいなかったが、しずるは酷い有様だった。顔についてトラウマでもあるのかもしれない。
しかしそうなると犯人は薬品や人体に理解が深い職業の人間か。
「……いや、そうとも限らないな」
自らもそうだがこうした人種は、自分の興味についてはとことん追求するクセがある。全く関係のない職業についていてもその知識は本職の人間を凌駕することだって珍しくない。例え学生であってもだ。
それに単独犯とも限らない。取り扱っているような職業でなければ薬品の購入は難しいかもしれないが、そういった人間と犯人が懇意にしていれば不可能とも言い切れない。もっとも、何にせよそれなりの財力は必要であるだろうが。
「何にせよ――」
犯人が「顔」を邪魔だと思っているのであれば、肉体を収集しているのであれば――
「っと」
突然震えだしたスマホに、識也はビクリと肩を跳ね上げた。思考を遮られ、一体誰だ、とスマホを手に取る。画面に表示されている名前は――未来からだ。
「っ……、はぁ……」
再び未来の死に顔が頭にフラッシュバックする。この世界ではまだ彼女が生きている事は確実だったが、どうしても彼女を意識する度にあの絶望感が過ってしまう。
記憶力が良すぎるのも困りものだな、と額にうっすら浮かんだ汗を拭い取り、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし? 未来か?」
『あ、しーちゃん? しーちゃんだよね?』
「そうだよ。俺のスマホに掛けてきたんなら俺以外に誰が出るんだよ」
『あははっ、そうだよね。何となく声がいつもと違う気がして、つい聞いちゃった。うん、そんな言い方するのは確かにしーちゃんしか居ないよね』
「どういう意味だよ、それ」
『あは、自分の胸に聞いてみてよ』
軽口を交わしながら、識也の気持ちは落ち着きへと向かう。こうして声を聴くと本当に戻ってきたのだという実感と安心感が湧き上がってくる。意図せず熱いものが喉元まで込み上げてきて、目元がジワリと湿ってきてしまう。
はて、自分はこんなにも涙もろい人間だっただろうか。もっと冷徹だと思っていたが――。
『しーちゃん?』
「……ああ、悪い。少しボーッとしてた」
電話越しの未来の声に識也は我に返った。気が緩んでしまっているのを自覚し、頭を掻きむしると俯いていた顔を上げて、声が震えてしまわないよう喉に力を入れた。
「それで、急に電話してきて何の用だ?」
『うん、その、ね? 特に用は無いんだけどしーちゃんさ、今日休んでたから大丈夫かなーって思って』
「別に風邪で休んだわけじゃないからな。体は問題ない」
『ぶー、サボりはいけないんだよっ! 天国のおじさんもおばさんも悲しんでるよー』
「立て篭もり犯かよ俺は。そういうお前こそ授業はどうしたんだよ?」
『何言ってるの、しーちゃん? もうとっくに授業は終わってるよ?』
言われて識也は時計を見た。時刻は既に五時前になっていた。どうやら思いの外、時間を忘れて集中していたらしい。バツが悪そうに識也は頭を掻いた。
『……ねえ、しーちゃん。本当に大丈夫かな? やっぱりどっか悪いんじゃ……』
「いや、本当に何ともない。ちょっとやることがあってそれに集中しすぎてたみたいだ」
『ほんとー? 風邪引いたりしてなぁい?』
「ああ、本当だ。何処も悪いところは無い」
『ならいっかな? しーちゃんはいつも冷たいけど、嘘だけは吐かないもんね』
未来の言葉にそんなに俺は冷たかっただろうか、と識也は自分に問い、悩む間もなく冷たかったな、という当たり前の結論にたどり着いた。特段未来に対してだけでなく全員に冷淡だった。いや、本当にどうでもいい相手には社交的な生徒の仮面を被っていただけに、未来や良太に対しては人一倍冷たい反応しかしていなかっただろう、と識也は自身の行いを振り返った。
(今更『俺』という人間の本質を変えられなどしないし変えるつもりも無いが……)
知らず識也は一人拳を握りしめて、目的を頭の中で繰り返す。もう、誰にも譲らない。
『……ねぇねぇ、しーちゃん。風邪じゃないんならお願いがあるんだけどね』
「何だ?」
『その、今日ね、葉月さんが夕飯のおかずの量を間違えちゃったみたいでね、余ったおかずをどうしようか悩んでるみたいなんだけどさ。今からね、しーちゃんのウチに余った分持って行ってもいいかなー、なんて、思っちゃったり……』
尻すぼみに未来の声が小さくなっていく。そしてすぐにワタワタと否定の言葉を口にした。
『や、やっぱ今のナシっ! ばつ、ばつ! ばってん! 何でも無い! 何でもないから忘れてっ! しーちゃん、自分の部屋を見られたくない人だったし私だって人に自分の部屋見られたくないし、でもしーちゃんにだったらいつだって私の部屋も心の部屋もオープンでベッドの下に隠してるしーちゃん隠し撮りアルバムや気持ちが溢れて止まらなくてどうしようもない時に書いた『もうそうラブラブ日記』まで見せてもいいかなって……』
「お前……そんな事してんの?」
『ハッ! しまった! ちがっ! 違うのっ! いや違わないんだけどね、んっとね、んっとね……ゴメンナサイ』
「いや、別にいいけどさ……」
識也は電話の向こうでスマホに向かって土下座する未来の姿を幻視した。想像の中の未来の姿が余りにもハッキリとイメージ出来てしまい、それが嬉しくて思わずクスリ、と笑い声を漏らした。
「いいよ、持って来てくれよ」
『この件に関しては何とお詫び申し上げまして……へっ?』
「『へっ?』じゃねえよ。余った料理持って来てくれるんだろ? ちょうど夕飯をどうしようかと思ってたんだ。有り難く頂くよ」
『…………』
「どうした? 来ないなら適当にコンビニで買ってくるけど」
『だ、ダメダメダメダメダメぇ~! すぐ行く今行く五秒で行くからそのまま待っててっ!』
「お、おう……んじゃ茶でも準備して待ってるから。言っとくが別に急いでないからな? ゆっくり来いよ? ドジなんだから途中でズッコケるんじゃないぞ?」
『分かってる! ぶー、私だっていつまでも子供じゃないんだからね!? そんな事言うとお料理あげないんだから!』
「はいはい、分かった分かった。んじゃ気をつけてな」
スマートフォンを切り、識也は溜息を吐くとそれをベッドの上へ放り投げた。そして、何も入っていない戸棚を開けて溜息を吐いた。
「……とりあえず、コンビニで茶でも買ってくるか」
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