第九~拾章



―玖―




 十月二十一日


 その日はシトシトと冷たい雨が朝から振っていた。

 先日までの季節外れの暑さは一気に鳴りを潜め、テレビやラジオの天気予報では十一月中旬並みの寒さだと連呼していた。ふと識也は、顔を濡らす雨を感じながら他人事の様にそんな事を思い出した。

 識也は学生服姿で都月家の前に立っていた。弔問に訪れた人たちは皆一様に黒い喪服を身に纏い、軒下に入って黒い傘を折り畳んで家の中に消えていく。そしてしばらくして眼を伏せた状態で家から出ていき、やがて識也の視界から消えていく。

 どうして彼らは判で押した様に同じ黒い服を来て悲しそうに涙を浮かべているのだろうか。丸めていた猫背は、家の敷地から出た途端にピンと張って歩いて行く。その様子は、家の内と外がまるで別世界であるかのようだ。

 その境はどうやって生まれたのか。疑問が沸き起こり、すぐに消えていく。決まっている、この家の誰かが死んだからだ。

 では死んだのは誰だっただろうか。自分も良く知っている人だったはずだ。なのに思い出せない、思い出せそうにない。都月家の敷地まであと一歩という所で識也は濡れ鼠のままで立ち尽くしていた。


「識也くん」


 塀の前で空を見ていた識也を誰かが呼んだ。視線を空からゆっくりと下へ動かせば、黒いワンピースの喪服を着て傘を差した女性が居た。


「葉月さん……」

「あの子の顔を、見てあげて」


 八の字に眉毛を下げ、笑おうとして失敗した泣き笑いを浮かべて葉月は識也の手を握り、家の中へと導いた。手を引かれるがままに内と外の境界を跨いだ瞬間、葉月の顔と誰かの泣き笑い顔が重なった。


「良太は……?」

「良太くんはもう帰ったわ。彼は……あの子の顔を見ると走っていったけど、すれ違わなかった?」


 そういえば走り去っていく誰かとすれ違ったかもしれない。顔を見ていない為にそれが誰だったかは分からないが、きっと良太だったのだろう。


「そうですか……」

「どうぞ、入って」


 いつの間にか家の中に上がり、座敷に辿り着いていた。部屋の真ん中には人一人が収まる程度の直方体の箱が置かれ、その左右には沈痛な面持ちの壮年の男女が俯いて座っていた。


「その中で未来は眠っているわ。最期に……よくあの子の顔を見て覚えておいてあげて」


 さて、未来とは誰だっただろうか。随分と耳に馴染む名前だ。

 棺の前で識也は立ち止まった。中を覗き込んで、最期を迎えた誰かを見送るというそれだけなのに、体はまるで背に鉄芯を入れられたかの如く固まった。


「お願い……見たくない気持ちは分かるのだけど……お願いだから識也くんも見送ってあげて……じゃないと……」


 それまで平静を保っていた葉月の声に嗚咽が混じり始める。

 懇願され、識也はギクシャクとした、まるで関節部が錆びついてしまった無様なロボットの様にそっと棺の縁に手を触れ、中の人物を覗き込んだ。

 未来は、白い顔で眠っていた。穏やかに眼を閉じ、切り傷が幾つかあるものの整った顔立ちは記憶の中のままだ。

 ああ、と識也は息を漏らした。ここに来てようやく識也の中で「未来」という人物が誰なのか結びついた。どうしたよ、未来。何でそんな所で寝てるんだ? いつもみたいに俺に飛びついて来いよ。今ならお前のじゃれ合いにも快く応じてやれそうだ。

 識也の呟きながらその顔に触れた。冷たい肌だ。未来は反応を示さない。当然だ。都月未来という人物はすでに死んでいる。そして――彼女の首から下には何もない。見つかったのは首から上だけだった。


「……絶対、絶対に犯人を捕まえてやるからな、識也。未来ちゃんをこんな……いや、ともかく、あの野郎が犯人だ。誰か警察でも目星がついてる。証拠を見つけて……自分がしたことを後悔させてやる……!」


 誰かが識也の肩に手を置き、震えながら決意の篭った声で囁く。だがそんな事、もうどうでも良かった。

 識也は彼女を、初めて美しいと思った。死した幼馴染が、これまで見たどんな女性よりも美しいと思った。愛おしく思えた。雷に打たれた様な衝撃が識也の中を駆け巡った。

 同時に、どうしようもないのだと、そこに思いが至った瞬間に喪失感が支配した。体が震える。もう、こんなにも愛おしい彼女と一緒に居られないのだ。もう、こんなにも美しい幼馴染は逝ってしまったのだ。自分以外の誰かの手によって傍から引き剥がされてしまったのだ。


「これも、一緒に送ってあげて」葉月が、未来の枕元に飾りのついた一本の棒を置いた。「未来が毎日大切に使ってたの。識也くんがくれたものだからって、嬉しそうに」


 それはかんざしだ。小学校の修学旅行で京都に行った時に識也がプレゼントしたものだ。少ない小遣いの中で、未来に喜んでもらおうと良く理解らないなりにも一生懸命悩み、渡したものだった。


「まだ持ってたんですね……」

「最後まで大事そうに握りしめてたって警察の方も言ってたわ。本当に……貴方から貰ったものだから大切だったのね」


 震える手で識也はそれを拾い上げた。黒を貴重としたそれの先端には小さな丸い飾りが付いていて、店頭で彫ってもらった「未来」という文字がある。そしてその横には拙い文字で「しーちゃんから」と書かれていた。


(バイバイ、識也)


 最後に彼女が掛けた言葉が浮かんだ。それは瞬く間に増殖して識也の脳内を埋め尽くしていく。両眼は「しーちゃん」の文字を捉えているのに、彼女の声は「識也」とだけ繰り返していく。


「っ……!」


 識也は家を飛び出した。未来のかんざしを強く握りしめ、靴も履かずに雨の町へ走りだした。

 小降りだった雨はいつの間にか嵐になっていた。暗雲が識也の頭上をうねり、大粒の雨を取り込んだ暴風が顔に叩きつけられる。学生服が瞬く間に水を吸って重くなり、脚を止めろと識也に主張してくる。

 だが識也は脚を止めなかった。呼吸も忘れ、疲労も忘れ、何も考えられずただ走った。何処に向かっているのか識也も分からない。分からないが止まりたくなかった。何も考えずに走って何処かへ行ってしまいたかった。

 どれだけ走ったか。疲労で脚が絡まり水たまりの中に転ぶ。泥水が識也を汚し、惨めな気分になる。項垂れ、虚ろな瞳を上げるとそこにはあの廃ビルがあった。

 何かに導かれるように識也はビルの中に入っていった。以前は夕陽で眩しいくらいであった一階も、今は足元も覚束ないくらいに暗く、時折稲光が刹那だけ識也を白く塗りつぶした。

 脇目もふらず三階へ上がる。窓枠に貼り付けられていたシートはこの暴風雨で剥がれてしまった様で、絶え間なく冷たい雨を中へ引き込んでいる。その雨を遮る壁となっている建材の向こう側へと識也は進んでいった。

 そこはしずるの死体が吊るされていた場所だ。だがすでに遺体は無く、吊るしていたロープも、放置された頭部も無い。風雨が識也を絶えず濡らすばかりだ。


「ううううぅぅ……」


 識也は崩れるようにして膝を突いた。唸るような声が聞こえた。それが自分の口から出た音だと気づいた時、真っ白だった識也の思考がここに来て空白を埋め始めた。

 未来を殺したのは誰だ? 決まっている、ここで伊藤しずるを吊るした連続殺人犯だ。

 本当にそうか。識也は自問する。殺したのは、未来に勝手に手を触れたのは奴だ。だが、未来が奪われる可能性を無視し、今に至らせたのは自分ではないか。面倒事に関わりたくないからと伊藤しずるの死を放置し、己の気持ちを振り返らず未来を遠ざけ、挙句、すぐ傍に居た彼女を失った。大切な彼女を奪われた。奪わせた。


「うああああぁぁぁぁっ……!」


 未来を殺したのは、誰だ? 憎いのは、誰だ?

 問う、問う、問う。殺したのは誰だ? 憎いのは誰だ? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺か? 奴か? 俺だ。奴だ。


 震える自身の拳を識也は憤怒と共に睨みつけた。手の中には、未来に送ったかんざしが一つ。稲光に反射してそれが白く染まった。

 識也はそれを天へ掲げた。呪った。喉が張り裂けた。何を叫んでいるのか、識也も分からない。それでも神に、世界に、ありとあらゆる全てに対して呪詛を叩きつけた。

 そして識也は手にしたかんざしを掲げ――


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 自らの喉へと突き刺した。


「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」


 引きぬいた喉の孔。噴き出した血が高く舞い上がり、識也の顔を真赤に染めていく。体が後ろへ倒れ、真っ黒な血の海へと沈む。


「     」


 窓の外で空が光った。眩い稲光が識也の視界を真っ白に埋め尽くし、その中で識也は嗤った。嘲笑った。楽しげに、皮肉げに、憎悪に染まった瞳で高らかに笑い声を上げた。それが、何に向けてのものかは分からない。

 唯一つの事実は。


 水崎識也は、この世界でも死んだ。




―拾―





 ベッドの上で識也は眼を覚ました。体を勢い良く起こし、乾いてひりつく喉を押え、額に留まる玉のような汗を乱暴に拭うと枕元のスマホを操作してカレンダーを表示させた。

 表示された日付は十月


 目論見通り戻ってきた。未来が奪い取られる前の、世界へと戻ってきた。

 手の中には、血に濡れたかんざしが一つ。それを識也は強く握りしめ、そして嗤った。

 三度目の生が、始まる。




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