誰なら好きになってもいいんですか?
メグリくくる
○十一月四日 午後九時四十七分
客の来店を知らせるベルの音が、喫茶店ヘルマに響いた。
薄暗く照明を落としたカウンターの奥から、コーヒーカップを磨いていた初老の男性が、ゆったりとした様子で口を開く。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
年齢にそぐわないボーイソプラノの声を聞き、僕は読んでいた本を閉じた。本の背表紙には、『闇の左手』と記載されている。
「こんばんは、ハル。こっちだよ」
僕は右手を上げて、店に入ってきた人物に声をかけた。
ハルは黒を基調としたゴシックロリータの装いで、首に巻いたラビットファー付きのマフラーは、レースで華が添えられている。
僕に気づくと、ハルは上品な微笑みを浮かべ、左右を縦巻きロールにした金髪を揺らしながら、こちらへとやってきた。
僕が座っているのは、大きめのソファーが並べられているボックス席。小柄の人であれば三人で座れそうな二人用の黒革のソファーが、向き合うように二つ並べられている。
その間には僕の膝よりも少し低めの脚の長さを持つ落ち着いた木目調のテーブルが、出番を待つ執事のように佇んでいた。そのテーブルの上には、アロマキャンドルの入ったタマゴ型のグラスが置かれている。
ハルが僕の座る席のそばまで来ると、空気が震え、キャンドルの炎が優しく揺れた。それでもグラスから溢れ出す柔らかな光は、僕らをそっと、照らし続けてくれている。
「こんばんは、敏夫」
僕にそう挨拶すると、ハルは広がるスカートを手で押さえながら、当然といった様子で僕の隣りに座った。
ハルが僕と肩が触れ合うほど近くに座ったので、僕は席を詰めようと腰を浮かす。
「……そんなに邪険にしなくても、いいじゃないか」
そんな僕を見て、羊革のロンググローブを外しながら、ハルは少し頬を膨らませた。闇色のグローブの下からは、それとは正反対の初雪のような白い肌が現れ、キャンドルに照らされたハルの指が僕の目に蠱惑的に写る。
不機嫌そうなハルに、僕は苦笑いを浮かべた。
「そんなつもりはないんだけど」
「本当かな?」
「本当さ」
「……ふーん」
左眉を吊り上げながら渋々といった様子で頷くハルを見て、僕はまるで、気むずかしいお姫様のお世話をしている執事のような気分になった。視線を下げて、執事役が適任なのはこいつだろうにと思いながら、僕は目の前のテーブルを右手の人差し指で軽く、三回小突く。
その横で、ハルはため息に近い言葉を漏らした。
「もうすっかり冬だね、敏夫。吐いた息が、白くなる」
「そうだね、ハル」
「それで? こんな寒い中、しかも夜にボクを呼び出したのは、一体全体どういうわけなんだい?」
「……それは、昨日電話で説明しただろ」
そう言ってハルに振り向くと、ハルは僕には見向きもせず、いつの間にか席のかそばに立っていたヘルマ唯一の店員に、おすすめのメニューを聞いていた。
その後すぐに僕の方に振り向くと、ハルはゆったりとした口調で口を開く。
「ちなみに敏夫は、何にしたんだい?」
「……僕は、ブレンドコーヒーにしたよ」
目の前のテーブルに置かれたそれを一瞥し、僕はハルに答える。僕が本を読んでいる間に、カップの中のコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
ハルは僕の答えに小さく頷いた後、店員に注文を告げた。
「じゃあ、ボクも同じものを」
「かしこまりました」
そう言って下がる店員を見送ると、ハルはすぐにこちらへと振り向く。
「それで?」
一瞬ハルが何を言っているのかわからず、僕は固まった。やがて先ほどの会話が再開したことに気づくと、どうしたものかと思いながら、僕は口を開く。
「だからそれは――」
「いいじゃないか。幸い君の狙い通り、このお店にいるのはボクらだけだ。時間もあるようだし、内緒話をするには最適じゃないか」
「おい!」
話を遮るようにそう言ったハルの言葉に、僕は動揺した。店員に聞かれていないか、心配したのだ。
ハルの言った通り、ヘルマの中には今、僕らしかいない。店の窓に視線を向けると、そこはもうすっかり暗闇に包まれ、今が夜であることを如実に物語っている。
大通りから外れ、入り組んだ場所に建つこの店は、場所を知らなければ辿り着けないような、言葉通り隠れ家的な喫茶店だ。
日中帯でもあまり来客数が多くないヘルマは、更に夜間の今、俗に言う夜カフェとして営業しており、かつ季節が木枯らしの吹く十一月の寒空という条件が加わると、来客数はほぼゼロになる。
僕はそうした人のいない、内緒話がしやすい店として、ヘルマを選んだのは事実だ。
だが、それを店員にわざわざ言う必要はないし、そもそもこの時間帯に人が少ないということを僕が知っているということは、それは同時に僕が普段からヘルマを利用しているということを意味する。店員とも顔なじみなのに、客が来ないからこの店を選んだなどとわざわざ言っているのを聞かれでもしたら、例えそれが事実だったとしても、今後僕は気まずい思いをしなくてはならない。
そうした懸念を抱えながら、僕は恐る恐る、カウンターに視線を向けた。
しかし幸いなことに聞こえていないのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、店員は黙々とコーヒーを入れている。僕はひとまず問題なさそうだと判断し、ほっと胸を撫で下ろした。
そしてすぐに、ハルに向かって抗議の目線を送る。その僕の目を、ハルは平然と見返してきた。
「そんな目をされたって、ボクは意見を変えるつもりはないよ。この店にお客さんがいないのは事実だし、ボクが思うに、それはきっと店員の態度が悪いのが原因なんだと――」
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーになります」
「……」
「ありがとうございます」
流石にマズいと思ったのか、何も言えないでいるハルの代わりに、僕は店員にお礼を言った。湯気とともに挽きたてのコーヒーのいい香りが、僕の鼻腔をくすぐる。
ハルは運ばれてきたそれを一口飲むと、悔しそうに美味しいと、小さくつぶやいた。美味しいと言いながら苦々しい顔をしたハルは、それでも僕に向かって口を開く。
「でも、敏夫。君がボクを呼んだ理由を知りたいっていうのは、本当だよ。だって急に、彼女と別れたくないからその話し合いの場に立ち会って欲しい、って言われても、何をどうすればいいのか、ボクにはさっぱりわからないよ。わけわかめだよ」
「何をするのかは、ハッキリしているじゃないか。僕は今付き合っている僕の彼女と、別れたくない。だからそのために、ハルにここに来て欲しい、って頼んだのさ」
そう言った僕を、ハルはまるで話が通じない相手を見るような目で、見つめてきた。
「よし、わかった。最初っから話してよ、敏夫。その彼女さんとの馴れ初めを、何がどういうして、どういうきっかけで付き合うようになったのか、一から十まで説明して欲しい。出来ればその彼女さんが、ここに来る前にね」
その言葉に、僕は少し考えた。何度も言っている通り、僕がハルにして欲しいことは、全て説明し終えている。
それに馴れ初めを最初から話すというのであれば、アイツの話からしなくてはならないだろう。何せ、僕が彼女と付き合うきっかけとなった存在なのだから。
ハルの言う通り、この後ここ、ヘルマで、午後十時から僕の彼女と話し合いを予定している。スマホで時間を確認したが幸いまだ時間はあるし、それに僕の彼女は時間にルーズなタイプだ。付き合い始める馴れ初めまでということなら、ハルに話す時間は十二分にあるだろう。
僕は話をする決意を固めるように小さく頷くと、ハルに視線を向けた。
「じゃあ、最初から話すよ。あれは、今年の五月のことだったんだけど――」
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