ボーンシェル・ガール 3 碧剣のシブリング

コルヌ湾

赤潮

 ハンドルを握る左手が振動し、西陽を浴びる浮橇うきぞりの上でとうは身震いしました。左胸の五角形の発声器が、中心から外へと緑のグラデーションを波打たせます。発声器から

「島軍の回線よ」

 シグさんの柔和でありながら割れ、その割れ目を鉄条網で繋いだ声が耳と胸に響きます。湯の操作で浮橇は波間に静止し、水平を保ちました。背を丸め左手を右耳に当て着信に応じます。

「もしもし?」

 貝殻の音を聞くように軽く掌を握っていると、湯が先日以来よく聞くようになった声が聞こえました。

「室賀さん、無事?」

 歳相応の落ち着きと茶目っ気を併せ持つ声を聞き、湯はハンドルを握る力を緩めました。

「中尉。はい、無事です。どうしたんですか、通信石じゃなくて棘皮鎧きょくひよろいに渾信なんて」

 通信相手は声を低くして話し出します。

「今、海鼠かいそ水工本社に向かっているのよね」

 湯の前方では金色の波に岬が洗われています。

「はい、もうすぐです」

 浮橇の四枚のひれに流れ藻が絡みついていないか見て返事をしました。左掌からの

「ごめんね、室賀さん。海鼠本社は立ち入り禁止になってしまった」

 声を聞き湯はハンドルを握り直します。中尉の言葉は続きます。

「半日前に大きな事故が起きて、周囲の地形が変わりつつある。現在地はどこ?」

 浮橇のひれが水を漕ぐ音が続き、シグさんが割り込みました。

「どんな事故?爆発?落盤?生物汚染?」

 訊きながら回線に情報を転送します。

「室賀さんの棘皮鎧ね。位置も分かった、ありがとう」

 湯は波の向こうに目を凝らしていました。鞄から双眼鏡を取り出し焦点を合わせます。

「それで地形が変わるほどの何が起きてるの?」

 左胸の光が細かく明滅しました。中尉が

「貴方が言った、その全部」

 と言ったとき、焦点が合った波間に赤く毛羽立ったものが見え、湯の手から双眼鏡が滑り落ちました。手首に荷重のかかった提げ紐が食い込みます。

「骨伝導に」

 湯は叫んで双眼鏡を鞄に押し込むと両手でハンドルを握りました。岸壁から小石が落ち、林から海鳥が飛び立ちます。正面を向いたまま浮橇を後退させていると、岬の向こうから曇天へ棘の生えた朱色の紐が竜巻状に伸び上がり、ほどけて拡がり空を掻きむしりました。

「何、あれ」

 前部フロートに脚を突っ張り湯が呟く間に、朱色のそれは捻れて形を失いました。湯の下顎に触れたシグさんの管足が

「室賀さん、沖に逃げて。貴方を狙ってる。今援護に行くから」

 中尉の声で鼓膜を震わせました。湯は返事を省略し体を傾けると、太陽と反対の夜の色に染まり始めた方角へ浮橇を駆ります。振り返るとほどけた紐は網状に拡がり海面と陸地を塗り潰しつつありました。

「シグさん、あの皮膚って?」

 地形と波を削り突き崩す朱色の絨毯は、追いかけられる湯の位置から見ると深紅の革質の皮膚に黄金の刺毛が生い茂っていました。

「私たちと同類、陸生棘皮動物ね。膨大なこんを帯びてる、中尉の言う通りに逃げましょう」

 絨毯が巻き上がって膨れました。縮むのと同時に、刺毛列が乱雑に並ぶ腕が四本射ち出されました。海面を浅い角度で跳ねながら追尾してくる腕を肩越しに見た湯は眉をひそめ

「運転をお願いします」

 後ろ向きに座席に立ちます。棘皮鎧のスカートが分枝して座席を掴み、脇腹から射出した管足かんそくがハンドルに吸着しました。湯は鞄からバクダンウニを取り出し

「中尉、海鼠のみんなは逃げられましたか?」

 ピンを抜いて放り投げます。朱色混じりの水柱が上がり通信が雑音を帯びます。

「うん、海上のナグルファルに避難した。誰も死んでない」

 湯は胸を撫で下ろし、二つ折りの皮銃ひじゅうを伸ばし構えます。片目を瞑り瞼の裏に映る照準を合わせると、爆発した端から再構築を始めている網に向け引き金を引きました。光が走り、しゅん動する網が白く結氷します。

「室賀さん、貴方が見える。そちらからは——」

 座席で膝を折る湯の頭上、藍色を深めてゆく空で浅葱色の筋翼機きんよくきが弧を描きます。

「すごい、これ全部やったの?」

 立ち並ぶ氷像の間から湯は両翼に挟まれた、棘皮鎧を着た女性に手を振ります。亜麻色の髪が見える距離まで来ると、皮銃を折り畳みました。

「ナグルファル、進水していたんですね」

 汗で髪の貼りついた額を拭います。

「そう、ナグルファルの他にも幾つかの船に分乗して船団を作ってる」

 聞こえてくるのは機械と渾を介した通信の声で肉声は届きません。

「えっと」

 中尉は海面が一回上下する間溜め

「これから一緒に海鼠に来てくれる?貴方を保護するよう命じられたの」

 遠慮がちに言った中尉に対し湯は笑いながら

「もちろんです。復職のために戻って来たのですから」

 空を見ました。

「そっか、そうだよね。ロープで牽引する。受け取って」

 中尉は神経質に笑うとロープを投げ渡し、湯は浮橇に固定しました。筋翼機に曳かれ滑り出します。

「わ、速い。パラセイリングみたいですね、中尉」

 夕陽は島の向こうに隠れ、薄明薄暮に踏み込みつつありました。

「ふふ、そうだね。動力のついてる側が逆だけど」

 筋翼機のフロートの向こうで中尉が笑いました。

「島軍のフギンの色も素敵ですね。中尉にもよくお似合いです」

 二人の遥か先に、無数の提灯を灯した船団の群泳が海面に鏡写しになっています。

「そんなことないよ」

 筋翼が羽ばたきました。

「いいえ、あります。『雲海のヒユカ』の主人公みたいです」

 筋翼機のライトが点いたので湯も浮橇のライトを点けます。半透明の小魚たちが突如現れた光に驚き、逃げ惑いました。

「あ、私もあの映画好きだよ。ヒロインが健気で可愛いんだよね」

 船団が赤い光のサインを送ってきました。

「中尉はヒロインが好きなんですか?私は目のない魚みたいな飛行機が好きです」

 中尉の筋翼機は緩やかに減速します。

「キャラじゃなくてメカなんだ。なんだか室賀さんらしいな」

 二人はあのシーンの意味が今でも分からないとか、同じ監督の他の作品ならどれが好きかという話を続けました。提灯の灯りに照らされた船体が闇夜に浮かび上がってきた頃、直接声が届く高さまで降りてきた中尉に

「それで、あのいばらみたいな生き物は何なのですか?」

 と湯は尋ねました。中尉は即答せず、筋翼機で浮橇に覆い被さる姿勢を取ります。

「室賀さん、もう少しだけ映画の話をしない?ううん、映画の話でなくてもいい。あれが何なのかは、船団に着けば分かるから」

 中尉の声は微かに震えていました。沈黙していた湯の左胸に光が灯り、シグさんが

「言えない理由があるのね」

 割り込みます。それに対し

「シグさん」

 湯が制しました。沈黙が続きます。

「えっと中尉、ご存知ですか?ヒユカの空中庭園にいた、あの輪っかのたくさんある——」

 会話が盛り上がりを見せないまま、外側で哨戒していた斥候船せっこうせんが道を開け、湯たちは青白い照明を点けてそびえるナグルファルに迎え入れられました。

 さっさと棘皮鎧からピナフォア・ドレスに着替えた湯と、島軍の装備を預けることを何度も渋った末に軍服に着替えた中尉は第四作戦司令室に案内されました。浮橇の荷物箱の中にいたために角ばってしまったオーメさんが二人に続き、壁と床と天井が曲線で繋がった廊下を進みます。湯が操作盤を押すと扉が音もなく開き斜め下の大スクリーンの白さが目を射ました。大スクリーン前の大理石の机に竹炭の束を思わせる、黒く隙間だらけの手足の幼女が座っておりその隣には眼鏡をかけ戦闘服を着た若い男性が立っています。敷居をまたいだ湯が足を止め、中尉は湯の背中にぶつかります。湯が腰後ろに帯びている乳白色の剣の鞘に手の甲が当たりました。彼女の知らない種類の剣でした。

煎塚いりづか先輩」

 湯が立ち止まったまま眼鏡の男性の名を呼びました。声が作戦司令室内に反響します。

「久しぶりだな、室賀。元気だったか」

 煎塚は湯を一瞥し、手にした石板の上で指を滑らせます。湯は机の横を通り大スクリーンへの段差を一段降り、中尉も入室しました。入ってきたときと同じく無音で扉が閉じます。湯は部屋に入ったときから自分から目を離さない幼女と二度三度目を合わせ、段差をさらに降ります。

「煎塚先輩、二年前は——」

「すまん、昔話をしてる場合じゃない」

 煎塚は片手を上げ、眼鏡の底の淀んだ目で幼女に目配せします。

「虚礼は省くぞ」

 幼女が机から飛び降り、足首のない松葉杖型の足で床に立ちます。黒い機械腕を腰につけ胸を張りました。

「簡潔に説明する。よく聞け」

 煎塚が石板を操作すると、大スクリーンに海鼠水工の空撮写真が映りました。本社社屋があった場所は荊の園と化しており、その周りには網目状に朱色の紐が拡がり地形を覆っています。湯に追いついた中尉は隣に立ち湯の手を握りました。湯はその手を握り返します。

「あの朱色の怪物は、触れたものを結合組織化して同化するヒトデじゃ。それもな、人形」

 右手の、同じ形をした三本の指のうちの一本で湯を指差します。

「あれはお前と同じ、旧本社ビルで見つかった人工種じゃ。ロットナンバーからお前とシブリングである可能性がある」

 湯が首を傾げると煎塚が挙手して質問をしました。

「部長、シブリングってのは何です?」

 部長と呼ばれた幼女は爪先ともかかとともつかない脚の末端で床を叩き

「同じ腹の子という意味じゃ。人間以外の生き物に兄弟とか姉妹とか言っていたら切りがないじゃろう」

 そう言って湯の目を見ました。湯が眉を動かし顎を引きます。

「私とあの形のないヒトデが血縁関係にあることは分かりました。それで」

 一度息を吸い

「私に一体どうしろと。私が人身御供にでもなれば事態は収束するのですか?」

 中尉が湯の袖を引きました。部長が薄ら笑いを浮かべます。

「最悪そうなるかも知れんが、まだ分からん。有効打を探るのにお前が必要なのじゃ。同族と聞いて戦う気が失せたか?」

 湯は背筋を伸ばしかかとを合わせ対抗して薄ら笑いを浮かべ

「まさか。私と同じ起源の存在であっても、敵対するなら容赦はしません。凝澪こごりみおの自然と海鼠のために、死力を尽くさせて頂きます」

 作戦司令室に声を響かせ、最後に可憐な笑い声のおまけもつけました。部長は腕を組み机にもたれます。

「可愛くないのう。そうじゃな、篠田のことも話してやるとするか」

 やれやれといった顔で二人を見ていた煎塚の顔色が変わりました。

「部長」

 机のそばに歩み寄り、屈んで話しかけます。本人は小声のつもりですが声は大理石に跳ね返り、湯と中尉にも聞こえていました。

「あの話は室賀にはまだショックがでかいです。今でなくてもいいんじゃ」

 胸まで這い上がってきたオーメさんを中尉に渡して湯は

「教えてください。毒を食らわば皿までです」

 机の縁を爪で引っ掻き、残りの段差を降りました。部長は煎塚の肩を掴んで立つと壇上から降り

「分かっとることは最初に話しておかんと、後から却ってややこしくなるじゃろう。妾の責任問題にもなる」

 作戦司令室最下層で湯と向かい合いました。生身の人間と見分けのつかない顔と、その下の精緻な部品からなる喉が、声質は幼いながら老人めいた言葉を紡ぎます。

「お前の主人、篠田 鶏鯉けいりは二十年前に死んでおる」

 木霊する部長の声と中尉が身じろぎして立てた衣擦れ以外、七秒間に渡って作戦司令室は無音になりました。

「驚かないんじゃな」

 眉ひとつ動かさない湯を見て部長は不思議そうに言いました。

「ご主人様はご自身の体を機械化し、百年以上生きてこられた方です。人としての生と死から解き放たれていると考えた方が自然かと、常々思っておりました」

 書類鞄を枕にして眠り始めたオーメさんをぽんぽんと叩いてから中尉は湯の隣に降り、肩を抱きました。

「室賀さん、貴方——」

「察しがよくて助かるのう」

 部長は左脚を軸に半回転すると、作戦司令室いっぱいに響く深呼吸をして肩と首を鳴らしました。湯と中尉に背を向け

「左様。奴は人間から遠い存在になった。最早お互いに知覚することは出来んだろう」

 はっぴの懐から扇子を取り出し開きました。首を傾け、気遣わしげに湯に声をかける中尉を細く黒い髪越しに見ると、煎塚に顎をしゃくって見せ歩き出します。

「お前や煎塚に姿を見せていたのは言わば端末、奴の一部じゃ。これ以上のことは分からん」

 湯とすれ違いざまにそう言うと、煎塚を連れて部屋から出てゆきました。やがて湯が中尉の手を引きオーメさんを起こして出てゆくと、作戦司令室は無人になりました。

 早速棘皮鎧を着ての重作業を頼まれ、喫水線でフジツボとの格闘戦に勝利した湯とナグルファルに逗留する書類を書き説明を受けた中尉は寮に向かう廊下で合流しました。棘皮使いなので個室が当てがわれているため、今後どんな私物を持ち込むか話しているうちに湯が一旦会話を切り質問しました。

「中尉にはご兄弟はいらっしゃいますか?」

 そう来ると思った、という笑みを浮かべ中尉は

「兄が一人いるよ。でももう何年も会ってないな」

 様子を伺っている湯を観察し返し、言葉を繋ぎます。

「実の兄よりも血の繋がってない妹との思い出の方が、多いかな」

「血の繋がってない妹?」

 湯がおうむ返しに訊き返します。中尉は数十層のナグルファルの階層が描かれた地図をアコーディオンのように伸ばし、何かを探していました。

「うん、正確には妹でもないんだけど、年下の遠縁の子と一緒に育ったの。室賀さんみたいに危なっかしいところがあってね」

 両手を胸の前に合わせ地図を畳み、中尉は狭い歩幅でピッチを合わせついてくる湯を見て笑いました。湯は首を捻じ切るようにして目を逸らし鞄の中を漁りながら言いました。

「私は危なっかしくなんかないですよ。なんてお名前ですか?」

 中尉は前を向き

「ヒトデ子ちゃん。あ、本名はようちゃん。不思議なあだ名だよね。あと、前、壁だからね」

 目的のない鞄のまさぐりをやめた湯の前で、中尉の髪の振り子運動が止まりました。人気のない廊下がY字路に分かれています。

「今日はどうもありがとうございました」

 湯に頭を下げられた中尉はえくぼを作り首を横に振ります。

「こちらこそ。困ったことがあったら何でも話してね?」

 湯は分岐点の天井近くに掛けられた時計を見ました。廊下で誰ともすれ違わなかったのが納得出来る時刻です。

「はい。中尉は右ですよね。お休みなさい」

 もう一度礼をして左の廊下へ一歩踏み出したとき

「待って」

 背中から腹に澄んだ声が通り抜けました。

「室賀さんの部屋でもう少し、お話しをしたいんだけど」

 湯がたたらを踏みました。

「ほら、映画の話とか」

 湯は逆光でよく見えない中尉の表情を見て、訊き返さずに黙って頷きました。二人の足音がY字路の左をなぞります。

 壁に構成主義の抽象絵画が掛けられた部屋に着くなり、湯は髪に染み込んだ海水を洗い流しに浴室へ入ってゆきました。中尉がベッドサイドテーブルや額縁から盗聴器を見つけポケットにしまい終えると、湯が枝毛を気にしながら浴室から出てきました。ベッドに腰掛け足を組んだ中尉は湯を見て

「綺麗ね。お人形さんみたい」

 そう言ってから口に手の甲を押し当てました。

「ごめん、失言だった」

 湯は眉根を寄せてから

「ああ、気にしてないですよ」

 中尉の隣に膝を揃えて座りました。

「人形が人間に劣るなんて、考えたことないですし」

 中尉は足を投げ出して

「それもそっか」

 両手を広げ仰向けに寝そべりました。時計の秒針の音や船団の船同士が交わす遠い汽笛、ナグルファル深部から伝わる機関音を聞くでもなく聞いていた二人でしたが、中尉がぽつりと

「あの竹馬女」

 と呟くと湯は噴き出しました。笑いを堪えきれなくなりベッドの上で転がる湯の頭を、中尉が腕を目一杯に伸ばし撫で回します。

「そんなに面白かった?」

 息絶え絶えに湯が激しく頷きます。

「焦げた竹馬みたいだよね。甲板で焼いたのかな?サングラスかけて」

 湯の体力が一度に尽きないのう、笑いが収まった頃を見計らっては部長の脚について思いつく限りのことを中尉は語り続けます。枕に顔を押しつけた湯が

「もうやめてください、中尉、息が、息が出来ない」

 足をばたつかせました。左半身を下にして目を細めて見ていた中尉は

「そうだね、ちょっとかわいそうになってきたし」

 湯の腰を指で弾いて起き上がり、机の前の椅子を引きずり動かし始めました。

「おいで。髪梳いてあげる」

 外洋を望む窓ガラスを鏡代わりにして中尉が髪を梳いていると

「シブリング」

 湯が呟きます。その目は窓の外、海上の船団の灯りに向いていました。羨みながら柔らかな銀の髪を梳いていた中尉は櫛を動かす手を止め

「竹馬女の言ったこと、やっぱり気になる?」

 と訊きました。湯が腹を抱え笑いの発作を起こしたので中尉は櫛を置き、背中を撫でます。落ち着いた湯は窓に映る自分と中尉の髪色を見比べ

「いえ、そうではなくて」

 体を落ち着きなく動かしました。

「私、中尉とシブリングで産まれて来たかった」

 膝に置いた手を握り締めました。鏡像の湯が肩を震わせ俯向くのを見ていた中尉は、湯の肩に軽く爪を立てました。椅子と壁の間を体を横向きにして通ります。カーテンを閉めると

「室賀さん、貴方と約束したいことがある。聞いてくれるかな?」

 背中を向けたまま訊きました。背後で椅子を引く音が鳴ります。

 翌日、ナグルファル中央シャフト上部構造体、足場と柱だけで出来た、これより上は観測機器しかない場所に湯と中尉は立っていました。足元では揺れに対抗してオーメさんが体の水平を保っています。見渡す限りの磯を覆う荊を遠い目で見下ろし

「これからどうなってしまうのでしょう、お姉様」

 湯は軍服の裾を親指と人差し指で挟みました。中尉は欄干を掴む手に力を込め

「何もかもが終わってしまう訳じゃない。心配しないで」

 そう言うと姿勢を反転させ島に背中を向けます。湯もそれに習い欄干に寄り掛かりました。ナグルファルを縦に貫く中央シャフトの開口部に風が溜まり和音が響き渡る中で、金属音に似た硬い音が湯の腰から鳴りました。中尉が軽く仰け反り欄干越しに湯の背中を見ます。

「昨夜から気になっていたんだけど、その剣は何?儀礼用かな」

 ざらつく人工骨製の足場に立つと、湯はベルトから剣を外しました。

「この剣はご主人様から頂いたものです。お姉様の仰る通り儀礼用ですが、実は鞘から抜いたことすらありません」

 両手で鞘を持ち、中尉に柄を差し出しました。

「抜いたことがない?」

 中尉は冷たく湿り気を帯びた剣を受け取ってためつすがめつしました。

「はい。鍔と鞘が噛み合っていて抜けないんです。ご主人様に訊いてもいずれ分かるとだけ仰られて」

 見下ろすと、形を変えながら少しずつ面積の広くなる階層の連なりが等高線のように見えました。その裾野の、互いに一定の距離を保って浮かぶ船の上に始業までの時間を過ごす人々の姿があります。

「もしかしたら、私が相応しい使い手になるまで抜けないのかもしれませんね。まだ私はその剣に——」

「抜けたよ?」

 素っ頓狂な声がした方を向くと中尉の右手で淡い緑色の刀身が輝いていました。

「お姉様、今度はどんな技を使ったんですか?」

 呆れた表情を浮かべ湯は中尉から剣を受け取りました。中尉は右手を振り

「何もしてないよ、だいたい鎧着てないでしょ」

 弁解するように砂色の軍服の襟を広げて見せました。湯はしかめ面で中尉と剣を交互に見ていましたが、刀身を太陽にかざすと

「そうですね。何となくお目出度いことのような気がしますし」

 笑顔を見せました。中尉は胸を撫で下ろし

「それにしても綺麗な剣ね」

 歩み寄り右手を添え湯の顎を持ち上げました。

「貴方の瞳みたい。水瓶を覗き込んでいるよう——」

 胸ポケットで通信石がビープ音を鳴らし、中尉は鞘を返すと呻き声とともにきびすを返します。通話と歯ぎしりを終えると通信石をポーチに押し込みました。剣を鞘に収めていた湯に向き直ると、肩幅に足を開き胸を張りました。

「室賀さん、これからの予定が決まった」

 それを聞いた湯は一歩踏み出して胸を叩き

「式場選びなら任せてください」

 上ずった声で宣言しました。

「そっちじゃない」

 中尉は眉間を押さえます。

「室賀さんは挙げたいの?そう言う形式的なものは——」

「お姉様」

 湯が両手を広げました。海岸から追い出され船団に避難してきた海鳥の群れが、目に沁みるほどの空の青さを薄めます。

「私はまだ、棘皮鎧と軍服を着たお姉様しか見たことがありません。どちらも素敵です。でも」

 雲で陽が陰りました。濃紺のワンピースの裾がはためきます。

「きっと、いえ絶対にドレスを着たお姿も美しいです。ですから——」

「資料請求は出来る?」

 軍靴を鳴らして歩み寄ると湯の手を取り腰に手を回しました。

「はい、見繕ってあります」

「まだ先だけど、一応いろいろ比べてみましょう」

 観測器を支える柱が風にしなり、下層から轟音が四枚の靴底に伝わります。

「えっと、何だっけ。不意打ちなんかするから顔がぐしゃぐしゃだよ」

 朱色の荊へ向けて陸生棘皮動物の器官が組み込まれた無人航空機が、偵察に飛びます。

「これからの予定が決まったって——」

「そう、そうだよ。大事な話。私たちに任務が下されたよ」

 中尉は咳払いを一つします。

「あの荊みたいなヒトデは、ヨルムンガンドという名前になった。海鼠の命名則が採用されたんだね」

 二人の前の凝澪島は、海の青と陸の緑の間に朱色の帯が出来ています。

「見ての通り、ヨルムンガンドは島の沿岸部を覆っていて、一晩で島を一周してしまったの」

 湯は黙って頷きます。

「普段からの備えのおかげで被害が少ないのが救いだね。国民皆兵制度がこんなことで役に立つなんて、少し皮肉だけど」

 中尉は湯の様子を伺いました。彼女が水瓶と形容した瞳の先に、変容した島の輪郭があります。嘆きも怒りも浮かべていない瞳には雲が広がりつつある空が映ります。

「ヨルムンガンドは均質ではなくてあちこちに結節点らしきものがある。偶然か分からないけど、五大都市と同じ五つ」

 湯の後ろに回り込み首と肩を抱きました。

「私たちの任務はナグルファルから下船後、部長の指示に従って結節点の調査と破壊を行うこと」

 森から熱帯鳥の群れが飛び立ちました。続いて樹が倒れます。

「北東部のここから時計回りに一周。ふふ、旅行みたいだね」

 湯の鳩尾の下で二人は四枚の掌を互い違いに重ねます。

「気になるのは、やっぱり貴方とヨルムンガンドの関係、それに部長の思惑。まだ未確定なことが多くて話せないって言われた」

 中尉は観測器の間に張り渡されたワイヤーを見上げ溜め息をつきました。

「ごめんね」

「お姉様は悪くありません。出発は何時ですか?」

 湯の肩越しに腕時計を見ます。

「正午から。最初の目的地にはこのまま送ってくれるって。部長にもいいところがあるんだね」

 鳩尾を小刻みに震わせ湯が身を丸めました。中尉がうなじを粟立てて

「どうしたの。お腹の傷に障った?」

 問い質すと、湯が短く息を漏らして首を横に振ります。

「違います、竹馬、昨夜の」

 腰を折り中央シャフトに笑い声を叩き込み続ける湯の後ろで中尉は「休め」の姿勢を取り

「いつもこんな感じなの?」

 更紙でウミガメの折り紙を折るオーメさんに尋ねました。

 ひとしきり笑ってから中尉に渡されたハンカチで鼻をかんだ湯は、支柱とワイヤー以外遮るもののない空をぐるりと見渡しました。

「一雨来そうです、お姉様。中に戻りますか?」

 鉛色の雲が肉眼でも分かる速さで成長していました。

「それとも、真水を浴びて行きますか?」

 折り紙を革袋に入れポーチにしまった中尉の足元に、雨粒が落ちます。

「いいね、そうしよう」

 島軍の装備に濡れて壊れるものは一つもありませんでした。

「凝澪の雨は温かいもの」

 大粒の雨が降り始めました。



つづく

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