いっすんニーミ(ver.1.0002)

山吹弓美

1.変な夢と変な奴

 はあ、はあ、はあ。

 生臭い息が『わたし』の耳をかすめる。『わたし』は泣きそうになりながら、何でこんなことになってるんだろうとごちゃごちゃした頭で考えようとした。したけれど、頭の中がまとまらないのでやめる。第一、そんなこと考えてる暇なんてないもの。

 目が覚めた時、『わたし』の足元には誰かがいた。その誰かが『わたし』の服を脱がせようとしてたのだと気がついたのは、はいていたはずのパジャマの下が脱げていたから。

 あわててその人を蹴り飛ばしたけれど、その誰かは懲りずにじりじりとにじり寄ってくる。一体どこの誰なんだろう、この人。


『きゃ、こ、来ないでっ!』


 迫ってきていた息の主を何とか押し戻して、必死で狭い部屋の中を逃げ回った。長い髪が寝汗にまとわりついて気持ち悪いけれど、そんなことを言っている場合じゃない。

 ほっそりした感じの、いわゆるガリ勉タイプの相手だから『わたし』はどうにか逃げられている。これがスポーツマンタイプの相手だったらとうの昔に、その餌食になっていただろう。

 でも、多分相手の体格差はほんのちょっとだけの時間稼ぎにしかなっていない。だってほら、その誰かはニタニタ笑いながらゆっくりと歩み寄り、『わたし』に向かって両手を差し出してきている。


『さあ、おとなしくしていれば怖くないからね。はあ、はあ、はあ』


 何を言っているんだろう、この人。真夜中の女の子の部屋に押しかけて荒い息をついている、見知らぬ男性が怖くないわけないじゃない。

 ちらりと月明かりに映し出された顎の細い顔はやっぱり知らない顔で、両目はらんらんと輝いている。『わたし』のことを、獲物としか思っていない目だ。


『いや! 来ないで、誰かあ!』


 必死で声を振り絞ってみたけれど、ここは1人暮らしの人が多いアパート。『わたし』もそうだけど、住人はあまり隣近所に関心がない。それに、うっかり悲鳴に反応して出ていったら自分が巻き添えを食うかもしれない、と考えるだろう。

 だから、助けは来ない。

 『わたし』は妙に冷めた頭の一部分で、そう結論づけていた。でも、頭の大部分は相変わらずパニックで、何とかして逃げ出そうともがいてる。ああ、逃げるなんて無理かもしれない。だって彼はもう目の前にいて、実に楽しそうに舌なめずりをしてるんだから。


『はあはあはあ、君の――は僕のものだよ。さあ観念して……』

『いやああああっ!』


 思い切り叫びながら両腕を伸ばし、彼をどんと突き飛ばした。そのままくるりと振り返り、部屋から逃げ出すために月明かりの方へと飛び出して――




「――あ、夢か」


 私が目を覚ましたのは愛用のベッドの横、ぶっちゃけフローリングの床の上だった。寝返りを打っているうちにごろんと落っこちたらしい。寝相が悪いわけでもないのになあ、どうしたんだろ?

 起き上がってみると、まだ室内は暗い。時計の針がぼんやり光ってて、ただいま午前3時半だと教えてくれる。世の中では朝の3時半ともいうけれど、私にとってはまだ夜中だ。

 時刻を確認してから、改めて室内を見回す。そこは住み慣れた我が家の、自分の部屋。アパートの一室ではない。うちは、サラリーマンのお父さんが頑張ってローン払ってくれてる静かな住宅街の一軒家だ。


「……いない……当然か」


 夢に出てきた男が部屋にいないことを確認して、私はほうと胸をなで下ろした。小説で読んだことがあるけど、ほんとにほうって言うんだ。


「……てかさ、あれ誰よ。私あんな性格じゃないし」


 寝起きのせいでボサボサの頭を、かき回しながら首を傾げてみる。夢の中と違って、現実の私の髪はいわゆるベリーショートだ。あそこまで伸ばすと重いし暑いし、シャンプーの時とか面倒だもん。

 知らない部屋で知らない男に追いつめられていた、私じゃない髪の長い『わたし』。私のどこをひっくり返しても、あんな女の子らしい悲鳴を上げる人物は出てこない。

 いくら夢でも、あれだけは理解できないなあ。あいにく、しおらしいタイプの女の子に憧れてはおりません。情けない話ながら、きゃーじゃなくてぎゃーと叫ぶ性分だし。


『んだぁ? なに、どーした?』

「何でもない。ベッドから落ちただけ」


 不意に、ベッドの枕元から声が聞こえてきた。夢の男の声じゃなくてもっと子供、まだ声変わりしていない男の子みたいな、キーの高い声。

 幸い、この声の主を私はよーく知っているので、感情を飲み込んで事実だけを正確に伝える。別にどんな夢見たとか、そういう報告する必要はないと思ったから。というか、こいつに心配はかけたくない。


『そっかあ……まだ夜中だぞ、寝直せぇ……』

「言われなくてもそうするってば」


 自分が眠たくてしょうがない、というその声に同意して、私は布団に入り直した。がばと枕に顔をうずめると、すぐに睡魔がまぶたの上にずっしりとのしかかってくる。


「んー……あー、ねむ……」


 そのうち、私はもう一度眠りに落ちていった。次に目が覚めたら、さっきまで見ていた夢の内容なんて忘れちゃうんだろうなあ。いや、すっぱり忘れられたらその方が気分がいいんだけど。




 寝直した私が見た夢は、小学生の頃のものだった。ああ懐かしい、3年ちょい前の話か。

 私が通ってた小学校はかなり古くからあった学校で、木造だった校舎をコンクリート製に建て替えてからも数十年たっている。その校庭の片隅に、多分学校が始まった頃からのだろう、古い石像がぽつんと立っていた。

 由来は知らない。もしかしたら先生から説明があったのかもしれないけれど、すぐに忘れた。ただ、薪を背負って本を読んでいる昔の少年の像は、古くなってたうえに子供&一部大人によるイタズラであちこちが欠けて崩れていた。

 卒業式の朝、私はなんとなく友達と一緒にその石像を見に行った。そいつはいつの間にかぼろぼろに崩れて、上半身がなくなっていた。地面には元上半身だった石のかけらが散らばっていて、私はああ、もうおしまいかあ、とぼんやり突っ立っていたことを覚えている。

 それから私は、白いかけらを1個拾ってポケットにしまった。理由は特にない。強いて言えば、学業成就のお守りのつもりだったのだろう。何たって、小学校の成績表には「よくできました」の文字がどこにもなかったから。一緒に来てくれた友達が、ほんとにお守りになるといいですね、とくすくす笑ってた。

 その、小学生の手の中にすっぽり収まる小さな石が本当に、でも本来とはちょっと違う意味でお守りになった。

 この私、水無瀬みなせ秋野あきのの。




 水無瀬秋野。

 ただいま高校1年生。誕生日は名前通り秋で、今は夏なので年齢は15歳。

 成績は中の上、ごくたまに上の下。クラブは学校研究同好会。身長体重スリーサイズ容姿、どれをとっても平凡。いや、ウエストはもう少し締めたい。なら運動部にでも入れよという突っ込みは却下。インドア派なのだ。

 学校から見ても親から見ても自分から見ても、何の取り柄もなくかといって目立った欠点も見あたらない。ごく普通の女子高生だ。

 朝起きて、学校に行って勉強して、バイト先に行ってバイトして、家に帰ってテレビを見て宿題して寝る。基本的な生活サイクルを見ても、特に目立つような点はまるでない……と思う。


『秋野ー。オレ、いーかげん腹減ったあ』


 そんな私のことを、絶対忘れずに呼びかけてくる奴がいる。枕元で寝ぼけた声を出した張本人……いや、人っていうのはおかしいか。だって人の姿してないし。もっとも、他人様が声だけ聞いたら中学生くらいの男の子だ、と思っちゃうだろう。


「はいはい。今回は何食べる? ニーミ」

『コンビニおにぎり。高菜を所望~』


 私が名前を呼んでやると、会話の相手の口調がうれしそうに弾む。ペットに懐かれてる飼い主みたいで悪い気はしない。ある意味、私も飼い主なわけだし。


「あれ、前回はツナマヨだったじゃん? あれはいいの?」

『はは、ありゃちょっと腹にもたれてさ。サッパリ系の方がいいかなって』

「そっか。ま、食べるのあんただしね」


 ぼそぼそと会話しながら、コンビニに入る。ハタから見たら絶対、私のことは独り言ぶつぶつ言ってる変な女の子にしか見えないだろう。『男の子の声』が聞こえるのは、こいつを知ってる奴か霊能力者とかいう連中か、はたまたこいつの同類かである。お陰で中学時代は、事情を知ってる友人以外には変人だと言われたもんだ。

 何たって会話の相手……ニーミは、制服のポケットに入っている3センチほどの、小学校の卒業式の朝に拾った石ころ、なんだもの。

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