25-6 : 幻想の器

「おぉ、おぉ……よく勘の働く奴よな……」



 地面から三つまた槍を引き抜いたリンゲルトが、感心するように言った。



「幸か不幸か、背後に突然誰かが現れるという状況には、慣れているものでね……」



 身を転がして回避行動を取ったゴーダが、のそりと立ち上がりながら嫌みを口にした。



「カカッ、嫉妬心の強いあの魔女に感謝せねばならんのう、ゴーダ」



 “渇きの教皇”の声が、愉快げに空気を震わせる。



「“三つの魔女”……私情の果てにその身を禁忌に浸し同胞を皆殺しにした、彼奴あやつはまこと愚かな女よな……カカッ、あれとつがいにでもなっておれば、あるいは今の一撃、かわしきれたやも知れぬな、カカカッ」



 ――ボタッ、ボタッ。



「……あぁ……そんなことも、もしかすると大昔に……夢見たこともあったかもしれんな……」



 枝分かれした三つまた槍を避けきれず、右の大腿だいたい部に裂傷を負ったゴーダが、自嘲するように鼻で笑いながらつぶやいた。



「ほぉ、これはどうしたことかのう、ゴーダ……そのようなことを口走るとは。未練を残して死ぬのが惜しいか?」



「未練、か……あるいはな。いまだに過去を引きっている女々しい自分に、腹が立ってくるよ……こうして口に出してみて、改めてそう思う」



 悩ましげに額に片手を当て、くっくと笑い声を押し殺す“魔剣のゴーダ”の立ち姿には、何処どことなく哀愁が漂っていた。



「何を詰まらぬことで揺れておる……生者の不可解さといったらないわ。……辞世の句はそれで十分か? ゴーダよ」



 死の前にはそんな感情は無価値であると断じて、“渇きの教皇リンゲルト”が、“無色の灰”の中にその身を溶かし始めた。



「……辞世の句だと?……ふん……違うな」



 目元を覆った指の間から、暗黒騎士の紫炎の眼光が、ぎらりと光を放った。



「リンゲルト……貴様にだから、話してやったんだよ……」



 ……。



「これから消える存在にでもなければ、こんな話、聞かせるわけがないだろう?」



 ……。


 ……。


 ……。



「カカッ……カカカッ……カカカカカッ!」



 ゴーダの挑発に乗ったリンゲルトが、ほとんど形状をなくした灰の姿で狂ったように笑う。



「カカカカカカッ!…………楽に死ねると思うでないぞ、ゴーダ……心の臓が止まるその瞬間まで、このわしれ言をほざいたこと、悔い続けるがよい……」



「奇遇だな、リンゲルト。……私も、貴様と同じ程度には、頭にきていたところだ……」



 冷たい声でそう言い返したゴーダだったが、その兜の下では嫌な汗が頬を伝い流れていた。


 ……。


 ……。


 ……。


 フッと、“無色の灰”となったリンゲルトの姿が、風に溶けて消えた。


 “無色の灰”となったリンゲルトには、気配も殺気もない。


 周囲を流れる空気そのものが、敵意を向けてきているようだった。そして1度その印象に捕らわれると、目に映るもの全ての陰にリンゲルトが潜んでいるようにしか考えられなくなり、猜疑さいぎ心と疑心暗鬼で頭が一杯になっていく。


 ぶよぶよとした不安の影が意識を遮り、判断力を鈍らせる。


 それこそが、“渇きの教皇”の狙いなのだ。



「……ふぅー……」



 剣を構えた姿勢のまま、ゴーダが深く息を吸い込んだ。



 ――これは、根気勝負。持ち時間無制限の盤戯のようなもの……気を張り続けているこちらの身などお構いなし、か。



 ……。



 ――「待った」なしの、一方的な詰め将棋だな……。



「…………」



 ……。


 ……。


 ……。


 いつ、どこから攻撃してくるか予測不能の状況下で、極限まで張り詰めた意識は時間の感覚を完全に喪失していた。あれから何秒、あるいは何刻ったのか、見当もつかない。



「…………」



 ゴーダがゆっくりと剣の構えを変化させ、再びピタリと全身を静止させた。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ガギリッ。



「……カカッ」



 “無色の灰”の状態から実体化したリンゲルトが、振り下ろした灰の剣を受けきったゴーダを見やりながら愉快そうにわらった。



「よくぞ受けきったのう、ゴーダ」



 再び、己の輪郭をぼんやりと霧散させ始めた“渇きの教皇”の声が渓谷の狭間はざまに不気味に響く。攻撃を受けしのいだ直後、ゴーダは素早く斬り返しの一閃いっせんを放ったが、そのときにはリンゲルトの姿は既に消えていた。



「ゴーダよ……貴様、わざとすきのできる構えを取って見せたな……」



 実体の存在しない声だけが、悪夢のように暗黒騎士の耳元にささやきかけてくる。



「次の手は、それも思慮に入れた上で打つとしよう。貴様との詰め勝負、存外骨のある一局になりそうじゃ……カカッ……」



 そしてまた、かすかな耳鳴りしか聞こえない沈黙と、果てしない忍耐勝負が始まった。


 ボタリ、ボタリと右足の切り傷から垂れ流れる出血の音が、異様に大きく聞こえる。心臓が脈を打つたびに傷口がズキズキと鋭い痛みを返し、それが意識の中にある鏡のような湖面に不揃ふぞろいの波紋を広げて、集中力をごりごりとぎ落としていっているのが自覚できた。



 ――この流れは……まずいな……。



「……」



 ゴーダが手甲越しに、汗の浮いた両手で剣の柄をぐっと握り直した。



 ――力を、貸してもらおうか。



「……――“運命剣”」



 “運命剣リーム”に秘められた術式が解放され、暗黒騎士の目の前に無数の未来の形が万華鏡のように映し出された。ゴーダの視界は時間という概念から一時的に逸脱し、剣を構えた自分の姿をまるで他人の身に起こっていることのように観察していた。


 そしてゴーダは、数え切れない未来の像のひとつに、“渇きの教皇リンゲルト”の姿を捉えた。


 ゴーダが意図的に左側面にすきが生じるように剣を構えた状態から、えて真正面にリンゲルトが実体化する未来の形が、はっきりとそこには映し出されている。



「捉えたぞ……リンゲルト」



 暗黒騎士が、その未来が映り込む場所へと手を伸ばした。


 そうして選択された未来は、“運命剣リーム”によって、確定した事象へと収束されていく――……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――斬。


 時間の概念が及ぶ世界に帰還したゴーダの視界には、先ほどまで見ていた未来の像と寸分違わない光景があった。何もない空間に繰り出された一閃いっせんの先に、リンゲルトが自ら飛び込んでくるかのように実体化し、“運命剣リーム”の刃がその首を捉えた。



「カカッ……実に、興が乗る……」



 空中に放物線を描いて跳ね飛んだ“渇きの教皇”の首が、高揚した声でつぶやいた。



わしは“無”から攻撃する手段を持ち……どういう訳か貴様は、あの銀の髪の小娘がぶら下げていた未来を選択する剣を持っておる……これほど強大な手札をぶつけ合う対局は、永くわしにとっても初めてのことよ……カカカッ」



 ……。



「しかし――」



 宙を舞い、地面に落ちていくリンゲルトの頭骨が、その眼窩がんかともらせた暗い光を目玉のようにぎょろりと向けた。


 ……。



「――貴様の選んだ未来の形よりも、わし老獪ろうかいの方が、わずかに一手、先を行っておったようじゃな……」



 ……。



「カカカッ……」



 そのわらい声だけを残して、リンゲルトが“無色の灰”へと身を転じた。


 ……。


 ……。


 ……。


 ボタリ、ボタリ。


 左足の大腿だいたい部にもざっくりと斬り傷を受けたゴーダが、1人その場に直立していた。両足からの出血で、足下には紫色の血溜まりが広がっている。


 リンゲルトのその器、“英雄歴”は、亡国ネクロサスの臣民たちによる無数の口伝くでんによって変幻自在の力を得た、不定形の存在である。その姿は老若男女いずれでもあり得、手にはあらゆる武具を持ち、例えば正面から突き出した槍がぐにゃりと背後を回って敵の脚を斬り裂くという不条理までも、現実のものとする。



「それが、“無色の灰”。歴史の断層が生み出した、英雄という幻想の器よ……」



 ザクリっ。



「ぐっ……!」



 右脚に負っていた斬り傷の上から、全く同じ太刀筋でリンゲルトが追撃をかけた。傷口が深く切り開かれ、そこから紫血が噴き出し飛び散る。ゴーダの身体が、ぐらりと揺れた。倒れまいと脚を踏ん張るだけで、更に血があふれ出す。


 たまらず、ゴーダが地に“運命剣リーム”をつえのように突き立てた。

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