国境戦役(後編)

25-1 : たとえ1度は折れようと

 ――時は、わずかに遡る。


 ――“不毛の門”。“宵の国”側入り口。


 巨大な連峰のはらわたを食い破るように穿うがたれた渓谷の奥から、亡者たちの頭蓋を吹き抜ける無数の風切り音が幾重にも重なって聞こえてくる。この世のものとは思えないその不気味な共鳴音は、平野を駆けるゴーダとエレンローズの耳にも届いていた。



「ようやく捉えたぞ……勇み足の老骨め」



 ゴーダが馬上から騎馬の脇腹を蹴ると、それに応じて黒馬は速力をぐんと上げた。リンゲルトが巻き起こしているのであろう、“不毛の門”から吹き出してくる風を切り分けて、黒馬がその入り口に向かって飛び込むように走り抜けていく。



「はぁっ……はぁっ……!」



 死者たちの吐き出す冷たく渇いた風を受けて、身を強張こわばらせたエレンローズがゴーダの腕の中で小刻みに肩を震わせていた。地獄の入り口のような巨峰の黒い裂け目に近づくに連れ、彼女のその震えは肩から腕へ、腕から脚へと広がっていき、凍えた子供のようにカチカチと歯が鳴り始めさえする。



「はっ……! はっ……!……う゛っ……!」



 ――カカカカカッ。


 “ネクロサスの墓所”で耳にした、“渇きの教皇リンゲルト”の渇いた笑い声が脳裏によみがえる。それが頭の内側で無数に反響して、ズキズキと痛み、視界がぐるぐると渦を巻いた。耳鳴り以外の音が聞こえなくなり、のたうち回る内臓が喉元を上ってきて口から飛び出してしまいそうな錯覚に襲われ、何度も嘔吐えずき、吐きそうになる口許くちもとを押さえる手で息もできなくなっていた。



 ――怖い……恐い……!



「ふうぅっ……! ふうぅっ……!」



 手足の先が冷たくなり、身体の芯は逆に熱病のように火照り、脂汗が全身に噴き出した。まばたきも忘れてかっと見開かれた両目からは涙が止まらなくなっていて、それが頬を伝ってぼろぼろと流れ落ちている。


 何で、こんなに苦しい思いをしなくちゃならないんだろう。


 何も考えられなくなった意識の底で、あぶくのようにそんな言葉が浮かび上がってははじけて消える。


 いっそのこと、亡者の差し出す手を握り返せば、全て楽になるだろうに――そんな感情が、言葉の輪郭を持ち始める寸前のところで、黒い泥の塊のように意識の中を転がり回っていた。



「……あぁあああぁっ……!!」



 そして、バラバラに壊れてしまいそうなエレンローズが嗚咽おえつ混じりの声を上げ、それを見兼ねて手綱を引いたゴーダが黒馬の脚を止めたのは、“不毛の門”の正に目の前に差し掛かったときだった。



「……」



 ゴーダが無言のまま、手綱を握る自分の腕の間で身を震わせているエレンローズの背中をじっと見下ろした。



「あ……う、あ……!」



 くしゃくしゃになった顔で暗黒騎士の方へ振り返ったエレンローズが、声を失った口をぱくぱくと動かして何かを訴えた。



 ――降ろして……降ろして……!



 どんな言葉よりもはっきりと、その表情はそう言っていた。



「……」



 それを見て先に黒馬から降りたゴーダは、震える鼻息を漏らすエレンローズをくらの上から降ろしながら、胸の内でぽつりとつぶやいた。



 ――ここが限界か……無理もない。



 人の身ではここまでかと、めた声が暗黒騎士の頭の中で行き来する。



「よろしい……事が済むまで、ここで待っているといい」



 その言葉には、どこか突き放すような、とげのある調子が含まれていた。それどころではない、というのが本心だった。ゴーダとて、リンゲルトの気配に気が立っていないと言えばうそだった。



 ――足手まといになるぐらいなら、そこでそうしてシェルミアの剣をまもっていろ。



 そんな冷たい言葉が、ほとんど無意識の内に浮かび上がり、それが声になって発せられようとした瞬間――暗黒騎士の口を塞いだのは、腕の中に押し付けられたさやの感触だった。



「……い……あ、あ……!」



 震える手を押して、エレンローズが“運命剣リーム”を更にぐっとゴーダの胸元に押し出した。


 声にならない声で何度も何度もゴーダに語りかけようとするエレンローズの涙に腫れた目は、心折れたまま恐怖に屈した者のそれではなく、1度は折れてもその芯までは朽ちてはいない意地を宿した目だった。


 立ち止まれば2度とは前に踏み出せないかもしれないという恐怖にさいなまれながら、自分の意思でそこに踏みとどまることの、何と困難なことか。たったひとつの支えとしてすがり付いてきたものを自ら差し出す意思の、何と強いことか。



「あ……あ……!」



 それは、恐怖にまれたのではなく、己の弱さを認めたその先へと1歩踏み出そうとする騎士の姿だった。



「……」



 エレンローズがえてここにとどまり、えて剣を託すことを選んだのを悟って、ゴーダはただ無言でその意志を受け取った。



「……名を、聞かせてくれ」



 灰色の瞳をじっと見つめ返しながら、暗黒騎士はただ一言そう言った。



「……あ……あ……」



 女騎士がゆっくりと、声なき声で、その名を名乗った。



「…………。これを、預ける」



 右手で運命剣を受け取ったゴーダが左手で差し出したのは、そこに納まるべき銘刀を失った一振りのさやだった。


 エレンローズがそのさやを受け取ったのを見届けて、ゴーダは黒馬と女騎士をその場に置いてくるりと身を翻し、亡者の声と渇いた風の渦巻く“不毛の門”へと1人踏み出し始めた。



「それは私の愛刀を収めるさやだ……よく手に馴染なじんでいる代物でね、替えが利かん。なくされては困る……あとで必ず返してもらうぞ――エレン」



 それきりゴーダは振り返ることも言葉を発することもせず、“不毛の門”の中へと消えた。


 暗黒騎士のさやを受け取ったエレンローズは、それを右腕でしっかりと抱きしめて、いつまでもその場から離れようとはしなかった。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



「全く……私がこれを手にするとは、奇妙な巡り合わせもあったものだ……」



 ……。



「これも“運命”だと言うのなら、導いてもらおうか……私の望む、未来に……」



 ……。


 ……。


 ……。



「運――――」



「――命――」



「――――剣」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。

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