22-13 : 合わせる顔

「さて……とは言ったものの……」



 瀕死ひんしの女騎士を楽な姿勢に寝かせ直して、ゴーダが悩ましげにめ息をいた。


 女騎士の肌は血の気が引いて真っ白になっていて、唇は青く、ぼんやりと開かれた目の中では瞳孔が開いていた。うろの中は、流れ出た血で至るところがべっとりと赤黒く変色している。



「これは……普通の手段では何もかも手遅れだ」



 一見して、それはもう手の施しようのない末期状態だった。まだ生きていることが奇跡的だった。最後まで苦しみ抜いていまだに死ねないでいることに、同情してしまうほどだった。



 ――いっそのこと……ひと思いに楽にしてやった方がいいのではないか。



 そんな言葉が脳裏をよぎったのは、1度や2度のことではなかった。



「いや……悪いが、死なれてもらっては困る。聞きたいことが山ほどあるのだ。それに……」



 ゴーダがふっと、女騎士の傍らに視線をやる。そこには両腕の中にひしと抱き寄せられたままの“運命剣リーム”があった。ゴーダが1度、女騎士の身体を持ち上げて仰向あおむけに寝かせ直す際にも、その剣に回された両腕はどうやっても解けなかった。



「それほどの意地を見せられて、みすみす見殺しにしてしまっては……私がシェルミアに合わせる顔がないではないか」



 そう独りごちて、意を決したゴーダが手を伸ばす。その手が、女騎士の腹部に突き立つダガーの柄をむんずとつかんだ。



「少々荒療治になるが、耐えてみせろ……“明けの国”の騎士」



 ズルリッ。


 女騎士の横腹に深々と食い込んだ凶刃を、ゴーダが一息に引き抜いた。意識を失っている女騎士の身体が、その激痛に反応してぴくりと引きる。ダガーが抜かれた傷口から、残り少ないであろう血液がゴボゴボとあふれ出た。


 ゴーダが右腕の手甲を外し、赤い血の止まらない傷口の上に素手を重ねる。女騎士の肌は死体のように冷え切っていたが、そこから流れる血は驚くほど熱かった。



「聞こえてはいないだろうが、念のため言っておく……痛むぞ。許せ」



 傷口を押さえていない方の手で、ゴーダが女騎士の口を強く押さえ込んだ。それと同時に、傷口に添えられた暗黒騎士の手のひらから光が漏れて――。



「ん゛ん゛ん゛ん゛む゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っっっ!!!」



 余りの激痛に意識を無理やり引き戻された女騎士が、悲鳴を上げた。


 かつて、西の四大主がまだ“翡翠ひすいのローマリア”と呼ばれていた時代。触れることのできないの魔女のために何百冊と代わりに開いて見せた治癒の魔法書。その記憶だけを頼りにした不完全な治癒魔法が、傷の癒やしの代償として激痛を生み出していた。


 “明星のシェルミア”との一騎打ちで負った傷をローマリアに手当てされたときのことを、その激痛の記憶を、ゴーダは思い出す。「治癒魔法は専門外」とローマリアは前置きしていたが、右目に“禁忌”を宿した副作用で、魔女は自らの記憶を完全な形で再生する異能を身につけていた。その正確で膨大な知識をもってしても、痛みを伴わない治癒魔法の行使はできなかったのだ。


 曖昧な記憶を辿たどっただけの治癒魔法が、どれだけの痛みをもたらすのか、それはゴーダにも想像もつかなかった。


 損傷した内臓・血管・そして筋肉が強制的に、乱暴に復元されていく。女騎士の身体の内側から聞こえてくる、ブチリ、ブチリという修復音は聞くに堪えなかった。



「ン゛ン゛ン゛ン゛っっっ!!! む゛っ゛……!! う゛っ……む゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っっ!!! ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛っ゛っ゛っ゛!!!!!」



 激痛に叫び声を上げ続ける女騎士が舌をみ切らないよう、その口を塞ぐゴーダの手に力が入る。傷口から手が離れないよう、体重を乗せてその身体を押さえ込んだ。暴れ回る両足に何度も膝蹴りを食らわされたが、暗黒騎士は口を噤んで、手元の治癒魔法のみに全神経を集中し続けた。



「ん゛む゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っっ!!!!! ……う゛っ……ゴボッ……」



 ふと、それまで暴れ回っていた女騎士の身体から、へたりと力の抜ける気配があった。



「…………」



 悲愴ひそうな叫び声がぴたりと止まり、周囲が不気味に静まり返る。



「……どうしたっ。傷は塞がったはず……!」



 集中する余り呼吸をすることも忘れかけていたゴーダが、はっと我に返って女騎士の顔をのぞき込んだ。横腹の上に置かれていた手がどかされると、その下には塞がりきった傷の跡がうっすらと残っていた。


 何も言わなくなった女騎士の顔は、最初に見たときよりも一層青白くなり、生気を全く感じられない有様になっていた。



「血が、足りんか……ならば……!」



 ゴーダが左腕の手甲も外し、放り投げる。そして次の瞬間には、一切の躊躇ためらいもなく左腕にダガーを突き立てた暗黒騎士の姿があった。



「血が足りんと言うのなら……私の血を、くれてやる……これでも元人間だ……紫色の血だからと、贅沢ぜいたくは言わさんぞ……!」



 自らつけた切り傷に、ゴーダが爪をガリっと立ててその傷口をえぐった。魔族の血があふれ出し、あっという間に暗黒騎士の左腕が紫に染まる。



「むっ……!……直接、私の血を体内に転位させる……! 次元魔法にかけては第一人者だ……さっきよりは、上手くやるさ……!」



 血まみれになった左手を女騎士の胸部、心臓の真上にかざして、ゴーダが意識を集中する。流れる紫血が青白い光を発して、次元魔法の術式が起動を始めた。


 ゴーダが自分の腕につけた傷口は指を差し込まれて開かれたままだったが、そこからの流血はぴたりと止まっていた。その本来流れ出るはずだった紫血が、空気に触れるより先に女騎士の体内に転位しているのだった。


 そんな真似まねをしたのは、ゴーダにとってもこれが初めてのことだった。魔族の血を人間の身体に輸血した話など、聞いたことがなかった。血液の型は合っているのか? 本当に上手く、心臓の中に血液を転位させることができているのか? そもそも、赤い血の中に紫血を混ぜて本当に大丈夫なのか? 何も、分からなかった。



「だがっ……。分からないからといって、それがやらない理由にはなるまいよ……!」



 一瞬、わずかに頭にふわりとした浮遊感を感じた。軽い貧血を感じると言うことは、ひとまず自分の身体から血を抜き出すことには成功したということだと、ゴーダが自分に言い聞かせる。


 しかし、相当量の血液を転位させてみても、女騎士の顔色は真っ白な死相のままだった。



「何をしている……っ。さっきのように暴れ回ってみせろ……! 私にここまでさせておいて、無為に死ぬなど許さんからな……!」



 次元魔法を使った輸血を止めて、ゴーダが女騎士の口許くちもとに耳を近づける。


 呼吸音は、聞こえなかった。



「……ちぃっ!」



 考えるより先に手が動き、ゴーダは邪魔な暗黒騎士の兜を脱ぎ捨てていた。


 女騎士の首を上げ、気道の開いた口の上にゴーダが口を重ねて、そこに空気を吹き込んだ。触れた女騎士の唇はがさついていて、ぞっとするほど冷たかった。


 ひとしきり肺の中に空気を送ると、ゴーダは女騎士の胸部に両手を乗せて、その上から心臓を何度も押し込んだ。力強く胸を押すたびに、力の抜けた女騎士の身体がぐらぐらと揺れた。


 もう1度口を重ねて空気を送り込み、唇を離したゴーダが再び心臓を押し込みながら、怒りに震える口を開いた。



「死ぬな! こんなところで、何もさず、何にも成れないまま死ぬな! 何のために、まだ“それ”を離さないでいる!」



 強い口調で言葉を続けるゴーダの目線の先には、いまだ女騎士が堅く握ったままの運命剣があった。



「……もう1度……意地を見せてみろっ!」



 ……。


 ……。


 ……。



 ***



 パカラ、パカラ。と、まず最初に小気味よいひづめの音が聞こえた。その音に合わせて伝わってくる振動で、身体中がズキリと痛む感覚が次にあった。


 痛覚に呼び覚まされて全身の感覚が戻ってくると、自分の身体全体が布のようなものでぐるぐるに巻かれているのが分かってきた。


 目の前は真っ暗闇だったが、間近に馬の匂いがすることから、騎馬にくくり付けられてそのままどこかへ運ばれているのだろうと想像するところまで頭が回転するようになっていた。


 まぶたが、恐ろしく重い。まぶたの裏側が眼球に張り付いて離れなくなったのではないかと思うほどだった。



「む……川か。揺れないようにそっとな」



 閉じた視界の外から、人の声が聞こえた。身体のすぐ下で川のせせらぎが聞こえ、バシャバシャと水のはじける音がそれに続いた。


 その物音から、敵意・悪意のようなものは、不思議と感じなかった。


 張り付いたまぶた越しに、ぼんやりと赤い色の光を感じた。それが夕陽ゆうひの光だということに気づくまでには、しばらくかかった。


 こわばった身体から、時間を掛けて余計な力を抜いていく。どうやら、甲冑かっちゅうをどこかへ置いてきてしまったようだった。鉄の締め付けから解放された身体は、動かさなくても軽くなっているのが分かる。


 ……。


 そうして私は、ようやく目を開けた。



「……ん? ああ……やっと、お目覚めか」



 布に包まれて、横になった姿勢で騎馬の後ろに固定された私の目の前にいたのは、金色の紋様の入った全身真っ黒な甲冑かっちゅうを着た騎士だった。



「そんなに緊張しなくてもいい……何、取ったりはせんよ。大事なものなのだろう?」



 真っ黒な騎士にそう言われて、初めて私は、自分がシェルミア様の剣をずっと抱き締めていたことに気がついた。


 私は、真っ黒な騎士の言葉に、ただこくりとうなずいて返した――何のためにこの剣を離さずにいるのか、もう自分でも分からなかったけれど。



「まぁ、落とさないようにそうしてしっかり持っているといい。おっと、そうだ、忘れていた」



 真っ黒な騎士は、私が目を覚ましたのを確かめてからはずっと前を向いたまま話していたけれど、何かを思い出した様子で後ろを振り向いて、私の目をじっと見つめてそう言った。



「まだ、名前を聞いていなかったな」



 何があったのか、余り覚えていなかった。だけどどうやら、私はこの真っ黒な騎士に助けられたらしかった。


 私はゆっくりと、口を開く。



「…………」



 ――……あれ?


 そうして私は、声が出せなくなっていることに、気がついた。

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