20-14 : “忘名の愚者ボルキノフ”

 ――。


 ――。


 ――。


 ――100年後。


 “5つ目の石の種の核”をその身に宿して以来、そばかすの小男は人間としての地上での生活をて、地下の世界に閉じ籠もっていた。



「……ああ……」



 最後の“石の種”の変質実験は、完璧だったと言ってよかった。“石の種の核”はそばかすの小男をむしばむ血の病を完全に癒やし、人間らしい姿と理性を奪うことなく、小男から老いと死だけを奪っていった。



「……ユミーリア……」



 “石の種”はそばかすの小男からそれ以上の何物も奪い去りはしなかったが、100年を越えた頃から、老いと死を超越した小男の存在そのものが自身の精神をむしばみ始めていた。


 100年以上一言もしゃべることなく、眠り続けているように見える娘の身体は、いつの頃からか青白い肌の上がぶよぶよとした粘膜で覆われるようになっていた。


 表皮を覆う粘膜からにじみ出る水分と、時折娘の身体から生えてくる異形の肉塊の重みで、ある日とうとうベッドが潰れると、そばかすの小男は“騎士びょう”のどこかから巨大な石棺を拾い上げてきて、その中に娘を寝かせるようになった。



「ユミーリア……ぼくは……心が何かにわれていくのが分かる……」



 地下研究室の中、石棺の隣に据えた食卓に座ったそばかすの小男が、孤独に食事をしながらつぶやいた。



「肉体が老いと死を乗り越えたとしても……心が枯れていくのだけは、どうすることもできないよ……」



 皿の上に漏られた、あぶっただけの肉の塊にフォークが切り入れられるカチャカチャという音が暗闇に反響する。



「最後の“石の種”の実験は、完璧だった……完璧だったが故に、あの実験は失敗だったんだ……」



 カチャカチャと、フォークが擦れる音が続く。



「理性を眠らせた君のその姿こそ、人間が“石の種”と供に在るための理想の形態だったんだ……今になって、ようやくぼくはそれを理解したよ……」



 カチャ、カチャ。



「ああ、ユミーリア、ぼくの“天使”……ぼくは、君のようになりたい……」



 そしてバクリと、肉を頬張る気配があった。



「君と同じ……祝福を受けたい……」



 グッチャグッチャと、脂の滴る肉を咀嚼そしゃくする音がした。



「君と……ひとつになりたい……」



 グッチャ……グッチャ……。



「……こうして……君から腐り落ちる異形を喰らえば……君の肉だけを食べていれば……ぼくのこの身体も、いつの日か君の血肉とそっくり入れ替わるだろうか……ユミーリア……」



 暗闇に満ちる“騎士びょう”の奥底で、小男の独り言と肉をみ潰す音だけがいつまでも響いていた。



 ***



 ――。


 ――。


 ――。


 ――さらに、100年後。



「ははは……」



 幾万の騎士たちが眠る地の底の、さらにそのずっと深い場所で、小男の談笑の声が聞こえる。



「そうなのかい? ユミーリア」



 小男の声の後には、ただ耳の痛くなるほどの沈黙がある。



「ははは。お前は人をからかうのが上手だね」



 唐突に小男が笑ったかと思うと、次の瞬間には再び沈黙が降りる。



「そうだな、若い頃の母さんは、今のお前とそっくりだったよ。うん? 照れるようなことではないよ、ユミーリア」



 騎士たちの誇りと尊厳を冒涜ぼうとくするかのように作られた地下研究室の中で、そばかすの小男は独り言をつぶやき続けていた。


 小男の手には今にも消えそうな弱いあかりをともしたランプががっていて、そのあかりの先には重い沈黙と静止の中にたたずむ娘の石棺があった。



 ――《『からかってだなんていません。私にとっての理想の殿方は……』》



 そばかすの小男が口を噤むと、そこには虚無と沈黙という不存在が実体をまとうほどの虚空が広がるばかりである。



 ――《『私が世界で1番好きなのは、“お父様”のような男性です』》



「ああ、ユミーリア……! 私は――“実の娘”からそんなことを言ってもらえる“父親”は――とても幸せ者だよ……」



 暗闇の中に潜みながら、たった独りで虚空に向かって語りかけ続ける小男の話を聞いている存在は、何処どこにもいない。


 一体いつの頃からか、そばかすの小男の耳には、聞こえるはずのない娘の声が絶えず聞こえるようになっていた。


 いつの頃からか、小男は自分の名前を思い出せなくなっていた。


 いつの頃からか、小男は眠りと覚醒の境目が分からなくなっていた。


 そしていつの頃からか、「ユミーリアという娘と、父親の自分」という夢の中に思考を沈めた小男は、それを現実とすり替えた。


 そばかすの小男にとってその“親娘の時間”は、幸福に満ちたものだった。


 娘と供に眠り、娘の“手料理”を食べ、娘とたくさんの話をし、また娘と供に眠る日々。自分がかつて何者であったのかさえ忘れ果てた小男にとって、それは満ち足りた日々だった。



「ああ、ユミーリア、お前とのこのささやかな暮らしが、私にはとても尊く思える……。愛しているよ、可愛かわいい子……」



 ――《『ふふっ、私もです、お父様。私も、愛していますわ……』》





 ***



 ――。


 ――。


 ――。


 ――最初の事件から、およそ300年後。



「ユミーリア」



 ――《『はい、何ですか? お父様』》



「私は、もうこんなことは、やめようと思う」



 ――《『お父様?』》



「私はもう、人間の成り損ないでいることに、飽きてしまった……」



 ――《『……』》



「お前は、どうだい? ユミーリア?」



 ――《『私は……』》



「うん?」



 ――《『私は、お父様といられれば、それだけで幸せです』》



「ユミーリア……」



 ――《『お父様が喜んでいるお顔を見るのが、私にとっての幸せです』》



「……」



 ――《『近頃のお父様は、余り喜んで下さいませんね……ユミーリアに、何かして差し上げられることはないでしょうか?』》



「お前は……何て優しい子なのだろう、ユミーリア……。そう、だな……」



 ……。


 ……。


 ……。



「ああ、私は……私は、お前の“天使”の姿を、もう1度見たい……私に光をもたらしてくれた、あの姿を……」



 ――《『ふふっ、お父様ったら。はい、お父様が望まれるのなら……。でも、ああ、どうしましょう……ここは狭くて、羽を伸ばせそうにありません……』》



「ならば、外に出よう。窮屈な部屋を捨てて、もっと広い、新しいお家を探そう」



 ――《『でも、私の姿に、驚く人がいるかもしれません』》



「ならば、誰もいない場所に行こう……お前のことを傷つける者がいれば、その全員を殺してしまおう……」



 ――《『でも、私の身体は、あのときお父様の胸を打った頃とは、変わってしまっているかもしれません……』》



「ならば、作り直してしまおう……お前の身体も、私の身体も……新しい器を、用意しよう……」



 ……。


 ……。


 ……。



 ――ああ、そのためには、新しい“石の種”が必要だ……。



 ――そのためには、たくさんの血が必要だ……。



 ――たくさんの……たくさん、たくさんの、人間の血と、魔族の血が……。



 ――ああ、そうだ……。



 ――ならば、人間と魔族が、殺し合えばいい……。



 ――殺し合って、殺し合って殺し合って……私たちの理想の地を、奴らに作らせよう……。



 ――ユミーリアと、私だけの、理想の地を……。



 ――ふふ……ふふふふ……。



 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。


 ――“明けの国”。王城。



「――ふん、笑うか貴様……とんだ度胸の据わった男だな……あるいは、ただの愚者か……」



「はて、何のことでありましょうか」



 ……。



「……いいだろう……貴様とは、どうやら馬が合いそうだ……。名を聞いていなかったな」



 ……。


 ……。


 ……。



「……“ボルキノフ”、と申します。以後、何卒なにとぞよろしくお願い申し上げます、殿下……」



 ――。


 ――。


 ――。


 ……。


 ……。


 ……。



「さあ……大地に満ちた人の血を……魔力に満ちた魔族の血を……そして新たな“石の種”と、“魔剣のゴーダ”がその身に宿す人と魔族の溶け合う神秘を……全てこの手に……いとしい娘と、理想郷のために……」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――“4つ目の石の種”の苗床……“災禍の娘ユミーリア”。


 ――“5つ目の石の種”の宿主……“忘名の愚者ボルキノフ”。


 ――“宵の国”東方国境線、“イヅの大平原”へ、到達。



 ***



 ――“宵の国”、北北東。


 天頂に昇りきったの光に照らされて、広大な湖の水面がきらめき、その上を柔らかなそよ風が吹き抜けていく。


 芽吹いたばかりの若い緑に包まれた湖畔で、長い距離を一気に駆けてきた漆黒の騎馬にいつ振りかの休息を取らせながら、暗黒騎士“魔剣のゴーダ”が風を読むようにたたずんでいる。


 戦の気配とは無縁の、穏やかで平穏な光景だった。


 暗黒騎士は黒い兜の下で静かに呼吸をしながら、腰につるした銘刀“蒼鬼”に左手を軽く添え、微動だにせず水面の彼方かなたを見やっている。


 再びそよ風が吹き抜け、それに飛ばされてきた若葉が3枚、水面の上をひらひらと舞った。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――カチン。


 刃がさやの中を走る音も、空気を裂く音もせず、ただ再び納められたさやと柄のかち合う音と刹那の剣のきらめきだけがあった。



「……1枚、外したか……。本調子には、ほど遠い……」



 一刃いちじんの神速の居合い斬り。その剣圧で真っ二つになった若葉が2枚、水面にはらりと落ちる。そこから数メートル離れた水の上には、剣圧の外れた無傷の3枚目の葉が浮いていた。



「……万が一 ……“渇きの教皇”と一戦交えるとなれば……こんなものでは、話にならん……」



 ふぅーと小さく長い息を吐き出して、ゴーダが己の心体を確かめる。


 肉体には無駄な力みは一切なく、全く問題はなかった。ただ、精神にわずかなさざ波が立っているのが分かった。の地を侵すことも、の地を侵されることも許さぬという“淵王えんおう”の言葉に背き、独断専行で“明けの国”への侵攻を開始した北の四大主、“渇きの教皇リンゲルト”。そのことに動揺し、苛立いらだっていないと言えば、それは明らかにうそになる。


 “しん”と“たい”が、ほんのわずかに調和を乱して、詰めのみ合わせがずれている感覚があった。


 “蒼鬼”のさやに添えた左手が、訳も分からず震えているのはそのせいだろうかと、ゴーダは冷めた頭の中で独りごちた。


 背後で、漆黒の毛並みをした騎馬がブルルと鼻を鳴らして主を呼ぶのが聞こえた。



「そうだな、そろそろ行こう。“み合わせ”が悪いのは、穏便に事が済む吉兆と捉えておくさ」



 くらまたがったゴーダが手綱を手に取り、主の呼吸に合わせて騎馬が脚を踏み出し、ゆっくりと加速していく。



「何、問題はない……」



 やがて軽快なひづめの音を響かせて、人馬一体となった存在が、風のように駆けていった。



「あの老骨の殺気に当たれば、どのみち嫌でも、本気にならざるを得んのだからな……」



 暗黒騎士の疾り去った後の湖面には、居合い斬りを放った位置を境に水面に不自然な段差がついていた。その空間のゆがみに沿って、高くなった湖面から低い方へと、水が小川のように流れていった。

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