20-7 : 変質実験

 サリシスが、簡易寝台の上に横たわっているボルキノフの足下に手を伸ばす。


 ボルキノフのももの部分、太い血管が通っている部位には太い針が刺し込まれていて、針先が動かないようにベルトで固定されていた。太い針には革で編まれた管がつながれていて、その管は密閉された大きなガラス容器と連結している。そのガラス容器の中に、ボルキノフの心臓の鼓動に合わせて、真っ赤な血がドクリドクリと規則的な緩急をつけて流れ込んでいた。



「まだ頑張れるかな、ボルキノフ?」



 ガラス容器にまっていく血をじっと見つめながら、サリシスが言った。



「問題、ない……続けて、くれ……」



 寝台に横になってから、随分と長い時間、ボルキノフはそうして自分の血を抜き続けていた。娘を救うためと、父は気丈に振る舞っていたが、その唇は青ざめ始めてきていた。額には脂汗が浮かび、目眩めまいがしているのか、少し前から目が固く閉じられたままになっていた。



「感謝するよ、ボルキノフ……。反応に必要な型を持っていれば、複数人の血を混ぜても問題はないはずなのだけれど、より確実なのは、型を持つ単一の血だからね……」



 ガラス容器になみなみとそそがれていくボルキノフの血を凝視しながら、サリシスが満足そうに言った。



「……さぁ、これだけあれば、十分だ」



 空気に触れないようガラス容器の注ぎ口に封をしてから、サリシスがボルキノフの脚に突き立った太い針を乱暴に引き抜いて、その傷口に加減もせずに包帯をきつく結びつけた。



「ぐっ……。後は、頼んだぞ、サリシス……」



 多量の血液を抜かれたことと、脚の激痛で意識を朦朧もうろうとさせながら、寝台の上に横になったままのボルキノフがつぶやいた。



「ああ、任せてくれ、ボルキノフ……」



 赤い血に満ちたガラス容器を丁重に持ち上げて、サリシスがゆっくりとした足取りで魔方陣の中へと歩み入っていく。個人研究室の床に描かれた巨大な魔方陣の中心には、壁の採光孔から差し込んだ月光が点となってそそいでいて、その一点だけが闇の中で青白く光り輝いていた。



「月の光は、魔力のきらめき……」



 魔方陣の中心を通り過ぎたサリシスが、その向かい側の外周部へと歩いていく。



「万物に等しく降り注ぐ、ささやかな神秘の光……」



 サリシスがガラス容器を持ち上げると、月光を受けた鮮血が深く濃いあかに光り輝いた。



「生命を溶かし込んだ赤い血に混ぜ合わせるに、これほど相応ふさわしいものはない……」



 サリシスの足下で焦点を結んだ月光が魔方陣を起動させ、その巨大な神秘の図形が青白い光で浮き上がった。



「さあ、混ざり満ちるのだ……生命と、魔力の奔流に……」



 ――コトリ。


 巨大な魔方陣の外周に、丸い円で縁取られた一角に、ボルキノフの血に満ちた器がささげられる。


 陣の中心で焦点を結んでいた月光の点が、魔方陣に倣って幾何学模様を描きながらその全体ににじみ流れていく。初めの内、その冷たく青い光は淡く弱い光を放つばかりだったが、魔方陣にそって流れていくにつれてそれらは濃縮されてゆき、末端に流れ着く頃には目を細めなければ直視できないほどのまばゆい光を放つほどになっていた。


 そしてその魔方陣の末端部で、濃縮された月光は、器に満ちた赤い血の中へと溶け込んでいった。


 真っ赤な人間の血に、冷たく青い月光が流れ込み――やがてそれは、“石の種”を変質させる、紫色をした溶液となった。


 その目をくように鮮やかに光る紫色に、サリシスもボルキノフも、己の目的を一瞬忘れて見入ってしまう。



「……。美しい発色だね、ボルキノフ。“宵の国”の民の血も、こんなふうに美しいのだろうか」



 サリシスが、うっとりとしながらつぶやいた。



「……。そんなことは、どうでもいい……。続けるのだ、サリシス…… 一刻も早く、1秒でも早く、ユミーリアに“石の種”を……」



「ああ、勿論もちろんだよ……勿論もちろんだとも……」



 ボルキノフの血が月光を溶かし込み、それが飽和状態に達すると、魔方陣の光も次第に鎮まっていき、研究室内は再び夜の闇に包まれた。


 研究室に満ちる闇を照らすのは、わずかばかりのランプのあかりと、月光を取り込んで輝く溶液の紫色の光だけである。


 溶液の入った器を恭しく両手で抱え上げ、サリシスが実験机の上にそれを据えた。



「3度の失敗で、僕は“石の種”の神秘に触れた……4度目の失敗は、あり得ない……」



 ガラス容器に再び管がつながれ、溶液が、ボルキノフの血が、変質実験の場となる試験管の中へと吸い上げられていく。



「人間は、常に学び、成長する……」



 試験管の中に更に数種類の別の溶液が調合され、紫色の蛍光色がより強い輝きをまとい始める。



「次は僕らが、この神秘を支配する番だ……」



 そして、実験机の片隅に置かれていた金属の箱を、サリシスが丁重に開けた。そこには真綿の中に眠るように置かれた、たった2つとなった“石の種”があった。


 サリシスが、“石の種”を1つ、まみ上げる。これまで重ねてきた3度の失敗の記憶がよみがえるのか、それとも自らに投与し続けた眠りを破る薬の副作用が出始めているのか、種を持つその手は小刻みに震えていた。



「もう、絶対に、“彼女”を失わせるものか……」



 “石の種”を持った手が、試験管の上に運ばれる。極度の貧血で意識を失いかけているボルキノフが見守る中、サリシスは自分自身に言い聞かせるように、ぶつぶつと独り言をつぶやき続けていた。



「“彼女”に、見せてあげるんだ……“彼女”の夢によって開かれる、“明けの国”の次の時代の姿を……」



 ……。


 ……。


 ……。



「そうしたら……僕は……今度こそ……“彼女”に……」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――トポン。と、小さな音を立てて、“石の種”が溶液に沈んだ。


 ……。


 ……。


 ……。


 溶液に沈んだ“石の種”は初めの内、泡も立てなければ発光もせず、ただじっと溶液の中を浮き沈みするばかりだった。



「……」



 サリシスが試験管に両手を当て、ガラスに額が触れるほどに顔を近づけ、“石の種”を凝視する。溶液の紫色の光に照らし出される“第6室長”の横顔には、執念に捕らわれた狂気のようなものが見え隠れしていた。


 ぴくりと、“石の種”の岩石のような表皮が一瞬、動いたように見えた。そしてふいに、種が溶液の中でくるりと半回転する。



「……」



 糸目を開き、まばたきもせず、穴がくほどに見入っているサリシスの目の前で、“石の種”の表皮にぽつんと、小さなとげのようなものが生えているのが見えた。溶液にける前には存在しなかったとげが生えたことで重心の位置がずれ、それによってバランスを崩した種が溶液の中で半回転したのだった。


 そしてまた、“石の種”が溶液の中でくるりと半回転する。


 それからは、早かった。


 溶液によって変質反応を示し始めた“石の種”の表面に次々にとげのようなものが生えてゆき、そのたびに種がくるくると液中で回転していった。



「あぁ……」



 無数のとげはみるみる成長していき、全体が元の3倍近い大きさにまで成長したところで、“石の種”は変質反応を鈍らせた。


 そして成長を止めた“石の種”が、今度は青白く発光を始める。



「……すばらしいよ……」



 その刺々しい輪郭を目視できなくなるほどの強さにまで発光すると、再び“石の種”はそれ以上の変化を示さなくなった。



「どう……なった……? 成功、したのか……? それ、とも……」



 うっすらとまぶたを開けて見守っているボルキノフの目に映ったサリシスの顔は、強い光に照らし出される中――。



「……言っただろう、ボルキノフ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「もう、失敗なんて、あり得ないんだよ……」



 ――サリシスの顔は、満足そうに、笑っていた。


 コツン。と、音を立てて、光の断片が試験管の底に沈んだ。


 コツン、コツン。試験管の中に漂っている、光に包まれた“石の種”から、流れ星のように小さな光の粒がポロポロと崩れ落ちていく。その崩壊の速度は加速度的に早まっていき、やがて試験管の中は無数の光の粒が流れ落ちる幻想的な光景となった。


 こぼれ落ちていく光の粒は、試験管の底に堆積してもなお輝きを失わず、紫色の溶液を青白い光で照らし上げていた。


 そしてその中に、いびつな形をした小さな影の塊が、ぼぉっと浮かび上がっているのだった。



「ふふっ……」



 “それ”は自身で発光することも変形することもせず、ただ試験管に満ちた溶液の中をふよふよと漂っているだけだった。



「ふふふっ……ふふっ……」



 そしてそれこそが、“第6室長”が全てをなげうって求め続けた物だった。



「とうとう……とうとう、手に入れたよ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「手に、入れたよ……“石の種の核”を……万能薬を……」

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