16-3 : 腐敗沼の彼岸
「それじゃあ……行きますかねぇ……」
ここまで進軍を続けてきた騎士の多くが、“支天の大樹”の途方もなく巨大で不気味な姿への畏怖と、辺りに満ちる
そしてニールヴェルトは、“支天の大樹”の落とす枝葉の陰で夜のように暗くなった、何ものが潜んでいるかも分からない
ずぶり、と、ニールヴェルトの足が沼底の泥を踏む音が聞こえた。泥で濁りきった沼の深さは水面からは分からなかったが、どうやら
「くはっ、気ン持ち悪ぃ感触だぁ……。それに、ひっでぇ臭いだぜぇ……ははっ」
ずぶり、ずぶり。魔物たちの死骸の成れの果てなのであろう、腐敗した泥で満ち満ちた沼の中を、ニールヴェルトが半笑いの表情で文句を
腐った水を
「……あ? どうしたぁ? さっさと進まねぇとぉ、夜になっちまうぞぉ?」
腐敗沼の中で振り返ったニールヴェルトが、
「ニ、ニールヴェルト様……お言葉ですが、別の道を探す訳にはいかぬでしょうか……? このような不気味な沼地、一体何が潜んでいるやも……」
ある1人の銀の騎士が、顔を引き
「……」
「……ああ、そう。そぉんなに、汚れるのが嫌かぁ……?」
「……っ……。この沼を渡るのは、同意いたしかねます、ニールヴェルト総隊長……底なし沼になっているやも、しれません……」
銀の騎士が、ニールヴェルトに図星を突かれた言い訳をするかのように、それらしい言葉を継ぐ。
ニールヴェルトは無言のまま目を細め、腐敗した沼の中から銀の騎士を見つめ続けていた。銀の騎士は、全身に嫌な汗が噴き出していることを自覚した。
「……ははっ。……まぁ、そうだなぁ。お前の言うことも、もっともだぁ……だぁれが好き好んで、こんな腐った沼を渡るかよなぁ? 全くもって、その通りだぁ……」
ニールヴェルトが理解を示すように、手をヒラヒラと振って見せた。
「ああ、いいよいいよぉ……悪かったなぁ……さすがに無理強いだよなぁ、これはよぉ。なら、こうしよう……この腐った沼を渡りたくない奴はぁ、渡らなくていいぃ。
それだけ言うと、ニールヴェルトはくるりと背を向けて、1人黙々と腐敗沼の中を再び歩き始めた。何人かの騎士が、ほっと
ずぶり、ずぶり。“踏査部隊”を
「アランゲイル様……
ニールヴェルトの後を追って腐敗沼に足を踏み入れた銀の騎士は、わずかに数えるほどしかいなかった。陸地に残っている騎士たちの中にはアランゲイルの姿もあり、一同はどうすべきか判断がつきかねて二の足を踏んでいた。
「……。……
バキバキバキッ。
アランゲイルが言い終わらない内に、背後で樹木がなぎ倒される音が
――。
ずぶり、ずぶりと、ニールヴェルトが腐敗した沼をゆっくりと歩いて渡っている。
その後ろには、およそ100名の
「そうだぁ……ついて来る気のある奴だけ、ついてこいぃ……意思も、覚悟も、欲望もない奴の手を引っ張ってやるほど、俺はお人
ニールヴェルトの背後で、木々がなぎ倒される音が聞こえた。
「……にしてもぉ……悠長に
ニールヴェルトの背後で、驚き叫ぶ人間の声が響いた。
「こんなとこで死ぬのに比べたらぁ……こぉんな腐った水の中を渡るぐらい、安いもんだろうになぁ……くくく……ははは……」
「「「「「キイイィィィ」」」」」
ニールヴェルトの背後で、巨大な
――。
「ま、魔物の群れだぁ!」
「囲まれている……いつの間に……!」
「この数は……まずい!」
「ま、まさか……ニールヴェルト総隊長はこれに気づいて……?」
「殿下をお守りしろ!」
樹林帯の木々をなぎ倒して姿を現した“骨喰らい”の群れは、ざっと視界に入るだけでも数十体。物陰には更に何体が潜んでいるのか、皆目見当もつかなかった。
「「「「「キイイィィィ」」」」」
陸地に残った数百人の銀の騎士を取り囲んで、“骨喰らい”の群れが金属板をこすり合わせるような甲高い声で一斉に鳴いた。共鳴した鳴き声は、不快感と恐怖心を
「う……うわあぁぁ!」
巨大な
弱肉強食の生存競争が日夜繰り返されている“
1体の“骨喰らい”が、その逃げ出した騎士を“餌”と認識して、口の下にある器官から、白い糸を飛ばした。
勢いよく放たれた糸は騎士の足に絡み付き、逃げることを許さず、その場に転倒させる。そして“骨喰らい”が、口の下の器官をもぐもぐと動かすと、糸が手繰り寄せられ、騎士の身体がずるずると引き寄せられ始める。
「ひ、やめろぉ! 離せ……離せぇ……!」
半狂乱になった騎士が、剣を抜いて“骨喰らい”の糸をやたらめったら切りつける。しかし糸は斬撃を弾くしなやかさと、決して切れない
そして糸に手繰り寄せられるまま、何か手はないかとパニックを起こしている内に、騎士の目の前に、自身を見下ろす“骨喰らい”の複眼があった。
「キイイィィィ」
「い、いやだ……死にたくな――」
――ザクリ。
言い終わらない内に、騎士の肩に、“骨喰らい”の刃のように鋭利な1本の脚が突き刺さった。ざっくりと切り裂かれた鎧の亀裂から、赤い血が噴き出す。
「……! イ……が……っ!」
騎士が声にならない声で叫ぼうとする中、“骨喰らい”が更に別の2本の脚を切り裂いた鎧の亀裂に延ばした。その2本の脚には、先ほどの脚とは異なる形状の鍵爪がついていて、“骨喰らい”はその鍵爪を器用に鎧の亀裂にひっかけて、恐ろしい力でそれを左右にこじ開け、引き剥がした。
鎧の割れるベキベキという不気味な音が響く。
騎士は息こそまだあったが、肩を骨から割り裂かれた激痛と、異形の魔物に捕食される恐怖で気を失い、白目を剥いて血の混じった泡を吐き出していた。
鍵爪のついた2本の脚が、鎧をはぎ取られた騎士の肉にざっくりと食い込む。そして“骨喰らい”が鍵爪をくるりと
人間の血と肉が散乱した惨状の中で、まだ鮮血の滴っている骨を、“骨喰らい”が貪り喰らうボキボキという音だけが、沈黙の中に響き渡る。明けの国の騎士たちは、その身の毛もよだつおぞましい光景を前に、ただの一言も発することができなかった。
「……っ……ぜ、全隊……」
隊長級の騎士が、震えの止まらない声で、しずかに集団に言葉を飛ばした。
「……ゆっくりと、後退せよ……絶対に奴らに背中を見せるな……奴らから目を
皆が言葉少なにゆっくり深く
「……っ」
騎士たちに周囲を守り固められてもなお、アランゲイルは全身に噴き出す冷や汗が止まらなかった。
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