魔+(まプラス) 猫と目と戦
Zumi
第1話 猫
空を見上げると灰色の雲が本来の青を侵食していた。まるで人々の心まで灰色に染めるかのような重たい色だ。そのせいかは分らないが、いつも人通りの少ないこの道も、より閑散としている。人ひとり見当たらない。週の初めから雨が降られると嫌な気分だ。それに答えるように冬の空は冷たく乾いている。
「だけど、今日は降らないな」
「それはあなたが決めることではないわよ」少し遠い感じの声が聞こえた。
誰にいう訳でもなく、独り言で呟いたはずの言葉に思わぬ返答があり驚いた――が周りを見渡しても、幼さを帯びたその声音の正体を捉えることは出来ない。声の届くような範囲に誰もいないのだ。
「どこ探してるのよ。自分が理解出来る言語を話すから自分と対等のモノが話しかけてると思ってる。ホント人間って高慢よね」
溜息交じりに聞こえる言葉は明らかに人を馬鹿にしている。どんな奴がそんな偉そうな事を言っているのか顔を拝んでやろうと必死に探すが、姿はまるで見えない。
「私の言っていること理解しようとか思わないわけ? 下よ、しーた」
「下?」
そう言われて視線を足もとに向ける。そこには、耳と鬚を生やした全身を真っ黒な毛で染めている小さい生物が四脚で立っていた。整った大きな瞳はモノ言いたそうにこちらを向いていた。
腹話術か何かでからかわれているのかと思い、しゃがみ込んで観察してみるが逃げる様子はない。首輪は付いてない代わりに、右前脚に変わった模様をした腕輪の様なモノを付けられているので、やはり飼い猫のようだ。
「よく飼い馴らされているな」
そう呟いた直後にその生物が小さな口を開いた。
「別に腹話術とかじゃないから。私自身が喋っているの、それくらい把握しなさいよ」
今度はより鮮明に音が鼓膜を刺激する。まるで、本当に目の前に猫が声を発したかのように。夢かと勘繰るが、実際に不思議な夢を見ている状態で“これは夢か”なんて思った試しもない。何よりも俺の五感が現実だと語っている。
「猫がしゃべったのか……」軽い目眩を覚える
「別にそんなの普通でしょ。何でも見た目で判断するのは人間の悪い癖ね」
何が普通なのかは理解出来ないが、とにかく逃げなければ行けないと脳が一瞬で判断する。何事もなかったように立ち上がり、その場を後にしようとした。
「どうして逃げる必要があるのよ。私と楽しくお話でもしようとか思わないの」俺の目論みは儚く潰えた。
猫はそう言いながら、肩に乗っかってきた。避ける間もない程に軽やかな動作だった。明らかに普通の猫とは違うだろ。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。猫だってこのくらい出来るわよ」
“そんな猫見たことないわ”と突っ込みを入れそうになったが、ギリギリ踏みとどまった。ただでさえ目立つ状況なのだ、大声を上げてさらに目立つなんてことになるのはゴメンだ。
「別に目立たないわよ。おそらく、その辺を歩いている人には私の言葉は届かないだろうし」
言葉が届かない? その意味がわからない。
「だから、それこそ「ニャー」とかにしか聞こえてないってこと」
それでも、肩に乗っている猫に話しかけるのは人として狂っているようにしか映らないだろう。もし、俺が第三者としてその場に遭遇したら、そんな奴は間違いなく不審者だと判断するからな。
「まあ、まさに今の貴方の状況だけど、人間ってやっぱりめんどくさいのね」
あくびをしながらそんな事を言っているが、そこでようやく違和感に気が付く。言葉を発してないのに会話している。まるで、俺の心を読まれているかのように。
「別に心なんて読んでないわよ」
「読んでるじゃねーか!」
「私はそんな凄い事出来ないわよ。貴方、さっきから無意識で声が出ているのに気が付かないのね」嘘つけ!
「まあ、信じないならいいけどね。別に」
人の肩の上だというのに、前足で頭を掻きながらゆったりとした口調でしゃべっている。明らかにおかしな光景だ。知り合いにでも見られると間違いなくマズイ。猫にしか聞こえない声量で話しかける
「わかった、信じてやるから早くどっかに行ってくれ。このままじゃあ、俺は学校に入れない」
そんな俺の言葉を聞いて不思議そうに首を傾げる。何故かその仕草にドキッとしてしまう。
「案外物分かりが早いのね、見た目によらず。それじゃあ話が早いわね」
「何の話だ。お前、俺の話を聞いてのか?」何もわからん。
「ええ、私がこの世界の生物じゃないって解ってくれたんでしょ」
「だから、それは分かったから早く降りろよ。どっからどう見ても普通じゃないんだから」
「嫌よ、どうして折角見つけた契約者を見逃さないといけないのよ」
「契約者? さっきからいったいなんのことだ」まったく会話が噛み合っていない。
話の趣旨も見えてこないが、あまり旨い話でないことは確かそうだ。
「貴方と契約を結ぶわ。潜在的な魔力は申し分ないようだし、初めに会ったのが貴方って言うのも何かの縁だと思うのよね。異論はないわよね」
「異論どころの話じゃない。早く去れ。お前の言っていることは訳がわからん」
勝手に話を進めている猫に苛立ちつつ、俺はふと思い出して時計を見る。登校時間の五分前だ。ここから全力で走っても学校までは十分は掛かる。そんなに長い間、訳の分らない猫の相手をしていたのかと混乱したが、俺の左腕に巻かれた時計の針がその事実を示している。
「なに? そんなに学校っていうのが大切なの。わかった、それじゃあ話しは後にして、まず貴方に私の力を見せるとするわ」
溜息交じりにそう言うと、どこか優雅な動きで俺の肩から降りる。
「空間移動くらいなら、この姿のままでも十分かな。貴方、初めてなら十秒ぐらい目を瞑っていた方がいいかもね。ちょっと揺れるわよ」
言い終わると同時に、辛うじて聞こえるぐらいの小声でぶつぶつと何かを言い始めた。外国語かも定かではないような不思議な言葉を。
しばらく、何かを呟いた後に、ゆったりと目を閉じるのが見えた。それと同時に、激しい揺れを感じた。思わず声が漏れる。
「かなり揺れてるぞ! お前いったい何をしたんだよ!」ちょっと揺れるどころの騒ぎじゃないだろ。
動揺しきっている俺とは対照的に、猫はあくびをしながら耳をクルクル回している。
「一つ言い忘れたけど、動かないほうがいいわよ。余計に酷い反動が襲ってくるから」
「いったい何を――」
言っているのか、問いただそうと思った瞬間に目の前の空間がぐにゃりと歪んでいくことに気がついた。それと同時に俺を激しく襲っていた揺れが治まっていることに気が付く。先ほどまであった建物達は消え去り、俺の視界は色とりどりに混ぜられた絵の具のような歪(いびつ)なカラフルに侵食されていく。脳が情報の処理を出来なくなったのか、一瞬にして内臓をえぐられたような吐き気を覚えた。それから逃れるように思わず目を瞑る。
そこから何時間経ったかは分からないが、ずいぶん長い間暗闇の中を彷徨っていたように思う。
「もう目を開けても大丈夫」
やたらと涼しい声を聞いて目を開くと、そこには信じがたい光景があった。
「おい、ここって……」
「そう、貴方が通っている学校でしょ。人目が付かないように屋上に来てみたんだけど」
その言葉を確認するかの様に、転落防止の柵を乗り出す様な体勢になり下の様子を見る。何人かの生徒が校門を抜けてくるのが見える。何が起きたのか理解出来ずに、言葉が出てこない。そんな俺の心を見透かしたのか、猫の方から説明してくる。
「これが、私の力よ。今の力の一部でしかないし、移動距離も大したことないから、そんなに驚かなくてもいいわよ」
「いったい何をしたんだ。これじゃあまるで――」
ワープしたみたいじゃないか。そう言いそうになったが、喉の先で言葉が詰まった。そんなSFみたいなことが現実に起こる筈がないんだ。
「ホントに人間って愚かしいわね。現実離れしているからって、自分に起きたことも信じられないのかしら」
信じる、信じないの問題ではなく、信じたくないのだ。今起きた出来事を。
「だから、それがくだらないって言ってるのよ。信じたくなくても、その事実は存在するのよ。多くの人が知らないだけでね」
そう言っている猫の方をみると、いつの間にか日陰で体を休めている。相変わらず緊張感の無い様子だ。そうしていると、ただの猫にしか見えない。
「いったい何者なんだ?」
問いかけてはいけない気はしたが、考えるよりも先に口が勝手に動いた。何故そんな事を聞いてしまったのか自分自身で驚く。そんな俺の戸惑いまでも読んだのかは定かではないが、猫は前足で頭を掻きながら答える。
「それは別にいいんだけど、早く行かなくて大丈夫なの」
質問とは全く関係のない返答だったが、時計を見て焦る。予鈴が鳴るまで一分を切っていた。慌てて屋上入口のスチール扉へと走る。
「私はここで待ってるから、ゆっくり出来る時間になったら戻ってらっしゃい。話はその時にしてあげるわ」
立てつけの悪い扉の軋む音に紛れて、そんな声が遠くから聞こえる。
「いったいなんなんだよ!」
俺は叫ぶようにそう言い残し、転げ落ちそうな勢いで階段を降りながら考える。吐き気はいつの間にか消え、数時間に感じたあの時間はは数分だったって事。間違いなく非日常に足を踏み入れた。
こうして今日も、素敵に愉快などうしようもない一日が始まる。
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