第25話「降三世明警視の名推理」
「犯人を逮捕するって……そのティンカーベルの猟犬をですか?」
「ティンダロスだよ、ティンダロス。まったく、覚えが悪いな、君は」
「いや、待って、ください。だから……」
すると、警視は部屋の入り口に行き、中から扉を閉めた。
立て付けがよすぎるといえるぐらいに、すっと扉がはまる。
警視は、もう一度開けて、枠の一部を覗き込む。
「……鍵がこすれてできた跡があるね。例の頼りない補助錠というのはここについていたという訳か」
「ええ、跡については鑑識が調べて一致しているとのことです」
「やはり強引に刺しこんでなんとか閉められる程度か。補助錠の写真は確認した?」
「というよりも現物を見てます」
僕はかなり最初の段階で現場に入っているので当然落ちていた補助錠を確認している。
鑑識の検証によって跡が一致しているのもみた。
「さて、質問だ。これだけぴっしりと閉まる、まるでドア枠とあつらえたかのような扉に強引に鍵をかける必要性があると思うかい?」
「えっ?」
「通常は鍵をかけるとしたら最初から付随しているものにするだろう。次にだ、私の読みは正しいから断言するが、細貝が隠れようとしていたのはティンダロスの猟犬だよ。壁があろうとなかろうと、室内に必要な角度があれば幾らでも入ってこられる魔物さ。そんなものを防ぐために、扉に鍵をかける必然性がいったいどれだけある? 私だったら鍵をかけるよりももっと厳重に隙間を埋めるね。実際、細貝はやっていたようだし」
降三世警視はしゃがみこむと、床の上のドア枠のあたりをじっと凝視した。
石膏がまだまだ付着している跡を丹念に手袋をはめた指でなぞり、
「むしろ、これだけ隙間がない扉なら多少立て付けが悪くなっただけで開きが悪くなるようなもんだ。最初から石膏混じりの接着剤をつけておくか、外側から注射器みたいなもので注入するだけでもほとんど開けにくくなるだろう」
「……どういうことです」
「簡単なことさ。細貝はティンダロスの猟犬が自分に迫ってくる気配に気が付いた。今までにも何度かあった予兆に従ったのだろう。それを感じた途端に〈例の部屋〉―――シェルターに逃げられるように自分が立ち寄りやすい場所には幾つも設置しておいたんだ。金があるからできる話だけどね。事件発生の日も自宅で予兆を感じたので、そのまますぐ傍のシェルターに入りこもうとした。だが、その時に何があったのかは知らないが、細貝は犯人と争いになり、運悪く刺し殺されてしまう」
「ティンダロスの猟犬に、ですか……?」
「いや、犯人はただの人間さ。でなければ、こんな姑息な真似はしない。犯人は細貝をシェルターに放り込むと、内部からドアに無理矢理に補助錠をかけて、石膏と接着剤で目張りをする。それが乾いた時点で一度内部から強引に開ける。補助錠のあとはこのときにできたものだ。それから、入り口に空き瓶を並べて窮屈な体勢で隙間から外へと出た。最後に注射器でもなんでも使ってドアの隙間に接着剤を流し込み多少でもいいから立て付けを悪くし、ひっかかるようにする。これで密室の完成だ。しかも、体当たりで強引に中に躍り込むと大量の空き瓶にぶつかって耳障りな騒音が出るので実際に補助錠が外れたような音があったかどうかも聞き取り様がないしね」
「え、そんなことで……?」
僕は思わず眉に唾をつけた。
密室と呼ぶにしてもあまりに雑な手段ではないだろうか。
「だって、このシェルターにはもともと鍵なんかつける必要性はないんだぜ。なんせティンダロスの猟犬用のものなんだからね。角度のあるものさえ室内になければそれだけでいいのだから。それなのにこれ見よがしに補助錠が転がっているということは、細貝以外の誰かがつけたか、持ち込んだとしか考えられない。つまり、シェルターが物理的にも密室であったと思わせたい誰かが持ってきて置いていった以外には理由はないのさ」
「じゃあ、犯人は……」
「初動で動いた警邏の巡査の報告が正しければ、梅崎達也だろう。シェルターの扉があかないといったのも、警官と体当たりしたのもそいつなのだから。田中とやってくる前にここに来て上司を始末してあとは演技をしていたということだろうね」
「そんな簡単なことで……」
まさにそれこそが疑問だった。
でも、警視は軽く受け流す。
「密室殺人事件が起きても、警察はその謎の解決には真面目にとりくまない。これだって実際にはこの部屋で同じように石膏と接着剤をつかって実験さえすればおかしなところは山のようにでてくる程度だ。なのに、捜査陣はそれを怠り、密室の問題については裁判まで持ち越してしまって疑いもしない。だから、この程度のトリックもわからない」
ぐうの音もでなかった。
確かにこの妙な状況を再現してみようという刑事は誰もいなかったし、僕らも補助錠だけで頼りないけれど鍵がかかっていたものと思い込んでいた。
「じゃあ……」
「このシェルターは細貝がティンダロスの猟犬から隠れるための密室ではあったが、外からは簡単に破れる程度のものでしかない本当の意味では非密室であり、犯人である梅崎は非密室をまるで密室であるかのように見せかけただけ。そういう話なんだ」
裁判における問題ばかりを深く考えるあまり、実際の現場での思考を怠りやすい僕らの隙に入り込んだような事件だったということなのか……?
またも降三世警視に、僕は刑事としての欠陥を指摘されてしまったかのように突き刺さる。
もしかして最初から密室問題だけに深く切り込んでいたら、もっと早く片がついた事件なのではないかと。
「
吉柳がどこからか戻ってきた。
こっちに来いと合図をしてくる。
密室の謎が解かれたショックで多少呆然としていたが、それでも二人についていった。
さっき調べていた細貝の書斎に入る。
「これを」
机の上に、まるで置物のように飾られていた一本の小瓶を指さす。
どことなくお土産の細工物めいた中華風の茶色いものだった。
「おそらく
「飲むと……どうなるんです?」
「遼丹は四次元への潜在的な知覚力を覚醒させる効果があると言われている。つまり、さっき説明した時間が錯覚であるということを認識させることができるんだ。そして、時間が錯覚だとわかったものは、過去と未来の自分自身の記憶を参照することができるようになる。過去に起きた出来事を精確に思い出すことも、未来において自分が認識することを先取りすることもできるようになる。―――細貝はそうやって、未来に起きる事柄を覗き見て何億もの富を得たんだ」
つまり、震災が起きることを知って資材の買い占めを図ったり、株の値上がりを知って投資したり、行政がどういう風に法律を運用していくかを読み取って先回りをして脱法しやすくしたり……そういうことができるようになるというのか。
要するに、細貝の上げた成功はすべて未来を見通した結果であるということか!
「だが、未来を視るということは時間という概念の中に潜む邪悪なものに見つかるおそれがあるということだ。ティンダロスという螺旋状の塔が建ち並ぶ、悪夢そのものの都市に巣食う不死の生物に。時間という概念が生まれる以前の超太古、空間を超越した時間のまだ存在しない始原の不浄、異常な角度の先にあるというティンダロスにいるものどもに。……細貝は巨万の富を得ると同時にそいつらに察知されてしまったんだ」
警視は興奮しながらも話を続ける。
「細貝がいつ連中に気が付いたのか、どうやって逃れる方法を知ったのかはこれから私たちが調べよう。書斎にある漢籍だけではわからない領域の問題だからね。だが、ここにあるものを見る限り、細貝は幾度となくティンダロスの猟犬の粘りつく顎から逃れていたようだ。これは―――稀に見る発見だぞ。かの猟犬から人が逃げ続けられる方法があるとは……」
「これを……」
吉柳が差し出したものは、一冊のファイルだった。
テプラで「猟犬について」と貼りつけてある。
警察が事件に関係あるものを根こそぎ押収したものと思っていたけれども、これはタイトルからして放置されていたのかもしれない。
開くとUSBメモリがテープで貼りつけられていた。
「中をみてみよう」
吉柳が自分のものらしいタブレットにUSBを差しこむと、いくつかの画像データが入っていることがわかった。
そのうちの一つに「猟犬」とあった。
「再生したまえ」
「はい」
COMプレイヤーが動き出した。
そして、映像が出る。
どこなのかはわからないが、形状の様子から細貝の〈例の部屋〉―――シェルターの一つの入り口の部分を外から移している防犯カメラのものだとわかる。
なぜ、こんな映像をとっておいたのか。
それはすぐにわかった。
―――部屋の中央にあるテーブルの脚、床と接する部分から灰色の煙がもうもうと流れ出てきた。
三角形の黒いものがのそりと煙の中から登場した。黒いものは何かの頭のようだった。
しかし、その頭には胴体も四肢も影すらもついていない。
まるで無の中から現われたかのように。
しばらくしてねじ曲がったような肉体らしきものが出て、四本の肢とも触手ともわからないものによって歩きだしていた。いや、歩いているのではない。這いずり回るという形容が相応しい移動だろう。よたよたとふらつき、びくんびくんと撥ねる。なのにか弱さはなくただただ悍ましい。
この不気味で気持ち悪く吐き気を催す四足歩行の影は、シェルターの前でしばらくうろうろとしたあと、再び、テーブルの足のあたりで消えていった。
あとはどんなに画面を眺めていても二度と現われることはなかった。
……あれが「角度」なのだ。
奴が姿を現すための「角度」。
細貝がシェルターからなくそうとしていた「角度」。
つまり、この黒い影―――ティンダロスの猟犬が出現するための領域だったのだ。降三世警視の語っていたことは事実以外の何ものでもなかったのだ。
猟犬と呼ばれる何かはうろうろとしていただけで、他には何もしてない。
だが、わかった。
僕にはわかった。
これまで僕が見てきた、知ってしまった何よりも悍ましい、例えるのならば餓えや乾きが形而上学的な塊となったもの、汚染、不浄、欺瞞、反吐、汚濊、ありとあらゆる穢れが絡みあって発現したもの―――すなわち……
「吉柳。奴はこの画面越しに私たちに気づきうるのかい?」
「はい、本来ならば。猟犬は過去に撮影された記録という概念の中においても、匂いを嗅ぎ当てて執拗に追ってくる化け物です。こんな風に撮影されたということも十分に理解していることでしょう。それがティンダロスの猟犬を目撃した人物がいない理由なのです。ただし―――」
「ただし?」
「我々の種族の編み出した方法でならば奴らの追跡を無効化できます。現実に今わたしが使っている方法です。要するに、わたしとともにいるからこそ、警視も巡査長もこの映像を安心してみていられるということです」
「それは助かるねえ」
恩に着ろ、というのか、おまえに、おまえみたいな人の肉体を乗っ取った化け物に!!
僕は警視のように頭の全部が狂っている訳ではないのだ。
―――だが、僕からは吉柳に噛みつく元気は根こそぎ奪われてしまっていた。
ティンダロスの猟犬。
人の世の裏の裏に、こんな恐ろしいものが跋扈しているなんて。
警察がいったい何の役にたつというのか。
犯罪者を逮捕してどうにかなるというのか。
もう僕にはわからない。
「……警視。梅崎はどうして雇い主である細貝を殺したのでしょう。わざわざ密室殺人の状況まで作りだして」
不意に口を出たのが、そんなつまらないことだった。
降三世警視は事件の動機などに頓着しない。
だから、僕の質問だって無碍に却下するに決まっているのに。
警視は答えてくれた。
「簡単だよ。梅崎という男は、ティンダロスの猟犬のための密室が、本来の意味での密室でないことを理解していたので補助錠等を使って、本当の密室になるように工夫や小細工をした。それなのに、細貝が自殺しているという工作はあえてしなかった。つまり、細貝は自殺したのではなく殺されたのだとわざわざ訴えているんだ。これは、梅崎が密室で殺されるだろうということを知っているか理解していなければなしえない思考だ。要するに、
「―――つまり、梅崎は……」
「ティンダロスの猟犬がいるものとして、被害者が恐ろしい魔物に殺された密室殺人事件という奇天烈なものを作ってしまった―――狂信者なのだろうさ」
僕は途方に暮れる。
こんなこと、どうやって他の刑事や検察に説明すればいいというのか。
時間と空間の隙間からやってくる魔物の存在を前提とした密室殺人事件だったなんて―――
第四話「球形密室事件」完
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