第24話「猟犬とは」
「いいかい、久遠くん。時間は単に空間の新たな次元に対する私たちの不完全な認識でしかないんだよ。時間と運動はどちらも幻想なんだ。世界の初めから存在していたすべてのものが今でも存在している。この地球で何世紀も前に起こった出来事は、別の空間の次元に存在し続け、何世紀にもわたってこれから起こる出来事はすでに存在しているが、それらを含む空間の次元に入ることは叶わないため、その存在を知覚することができないだけなんだ。この地球に存在する人物の生涯は繋がりあい、これから送る人生もすべて一つの人生となる。しかも、これまで面々と紡いできた過去のすべてもその人間の一部となるんだな。つまり、時間だけが人の過去と未来から人自身を分離するが、時間そのものは錯覚で、存在しないのさ」
もう本当に意味不明。
いきなり何を語りだしているんだ、この人は。
「要するに、過去の自分も現在の自分も未来の自分も繋がっていて、時間という枠で区切られているだけということさ。時間さえなければ、君は過去のことも未来のことも自分にまつわることならすべて知ることができるのにできなくなっている。だが、時間というものがもしかして錯覚であって、本当は存在していないのならば、人は少し頭を捻るだけで過去も未来も思い出せるのではないか、とまあこういうものだ。ハルピン・チャーマズという頭のおかしい作家がアインシュタインとジョン・ディーをもとに、ヘーケルとダーウィン、ラッセルらの実証主義を批判しながら発表した内容さ」
「その説明だとわかりやすいです」
「時間がないと便利だよ。例えば、君が八十歳まで生きるとしよう。君が八十になるまでに仕入れた知見のすべてを現在の君が所有することができる。そうなると、未来に何が起きるかわかっている君は先読みをして投資することができるだろう。あっという間に億万長者だ」
かちりと何かが閃いた。
警視の話す与太をどこかで聞いたことがある。
「―――もしかして細貝のことですか?」
「さて、どうだろう。そんなことはどうでもいい。で、君は今名前が出たハルピン・チャーマズがどうなったか知っているかい? 当然知らないだろう」
「初耳ですよ」
こっちの問いは無視ですか、そうですか。
「ところで話は微妙に変わるが、ティンダロスの猟犬という存在がいる―――らしい。らしい、というのは実のところ、過去において目撃談といえるものがまったく報告されていないからなんだ。名称自体はかなり頻繁に様々な時代の文献にも散見されるのだが、いかんせんやはり実際に見たことのあるものがいない。それではシュレディンガーの猫と一緒で議論の中にしか出現できない。よって、追跡して調べるのも困難な存在だといえよう。それでも形跡については幾つか報告がある。といっても、それはティンダロスの猟犬によって殺された人間の死体が発見されたというものがすべてなんだ」
また、この変人得意の与太咄が始まった……
―――とは思わない。
さすがの僕でもそろそろ学習する。
さっきまでの時間やら空間やらのある意味ではふわっとした話の中で、具体的な単語や名詞が顔を出したとき、降三世警視の語りは一変するということを。
おそらく、この人のトーク術の特徴なのだろう。
そして、具体的な単語について語られるということは、その単語についてすでにどこかで観察・分析がなされていて、カテゴライズされ、名前までつけられているということに他ならない。
警視が耳にして、それを知識として押さえているのは、すでに過去において何かがあったということとイコールなのだ。
そういえば、さっき警視は「猟犬が見られる」と言っていた。
今、耳にしたのも「なんとかの猟犬」。
これを関係なしと無視できるぐらい僕は盲目な訳ではなかった。
「殺された……ってどういうことです」
「ティンダロスの猟犬はね、狙ったものを殺す存在だ。奴らは自分たちの注意を引いた者をはてしなく追いかけ続ける。常に飢えていて、恐ろしいまでに執念深い性格をしているそうだ。猟犬と呼ばれているのは、匂いを嗅ぎつけたらいつまでもどこまでも追ってくるというところからきているのだろう。とある説によっては犬のように四つ足で歩き回るからだともいう。まあ、あまりにも追跡が執拗なので〈猟犬〉と二つ名がつけられているというのが正しい気はするがね。ただ、ティンダロスの猟犬は闇雲に目標を追いかけてくるというわけではない。一定の条件が必要なのさ。―――この存在が彼らが我々の住むこの世界に出現するためには角度が必要という条件が。……伝え聞くところによると、部屋の角や物品の破片などが形成する鋭角から青黒い煙のようなものが噴出し、それが凝固して実体化するそうだ。すべての壁を乗り越えてやってくるのだから。だから、猟犬から逃れるためには、どこかに隠れるだけでは意味がない。どこにも角度のない部屋に隠れなければならない。たとえば、すべての隅を石膏で覆って丸くするとか、だね」
これだけいわれればわかる。
警視が言っているのは、細貝の〈例の部屋〉のことなのだ。
あの床と天井の四隅を石膏で丸くして、楕円の扉をつけて鍵をかけ、内部から隙間を石膏と接着剤のパテで塞いだあの部屋の。
あの奇怪な内装を見事に語りつくしていたといえる。
細貝という男は警視のいう猟犬から逃れるためにあの部屋を拵えて、その中に隠れ潜むようなことをしていたという訳だ。
実際に、その猟犬の存在の真偽は別として。
「じゃあ、細貝はそのいるかいないかわからない怪物から逃げるためにあの部屋を……」
「十中八九ね。防護のために細貝はその部屋を作ったが、やはりどうにもならずにティンダロスの猟犬によって殺されてしまったというところだろう。凶器が見つからないのも当り前さ。鍵やら密室やらは彼らにとってはまったくもって無意味だ。」
「……仮に、その化け物が細貝を殺したとしたら、この事件は絶対に解決しないのではないでしょうか。犯人がただの化け物だということを抜きにしても」
「それはわからないね。警察はティンダロスの猟犬なんて知りもしないし恐れもしないだろうから。細貝の恐怖など理解できるはずがない」
僕だって、この警視の戯言を鵜のみにはしない。
だって普通ならばただの与太咄で誰も耳を真剣に傾けてくれる内容ではないからだ。
でも、僕はもう知っている。
この警視が携わっている案件がどういうものかを。
信仰問題管理室が手掛ける事件がどういうものかを。
降三世警視の語る与太咄がときに事実として存在するということを。
「―――あとは現場を見てからだね」
珍しく事件のファイル目を通しながら、隣の吉柳と議論している警視が、僕にはやはり異常な世界から来た怪人にしか思えなかった。
◇◆◇
細貝の家は立ち入り禁止になっていたが、とりあえず僕らは中に入ることはできた。
事件解決のために必要な捜索はほとんど終わっているし、あとは犯人が捕まった場合に実況見分での立ち入りがある場合ぐらいしか人は入らないだろう。
すべて犯人がいたとしての話だけど……
「ふーん、あることはあるが、普通の漢籍ばかりだ。オカルティストではないようだね。吉柳、何かあったかい?」
「特段見当たりません」
「では、さっさと殺害現場にいくとするか」
まず、警視が見たがった細貝の書斎へと寄ってから、僕は〈例の部屋〉へ二人を案内した。
系統の違う五か国語の堪能な読み書きができるという警視と、人間の範疇かも怪しい吉柳はざっと見ただけで書斎の中の書籍の素性を読み取ってしまって、すぐに興味を失くしたようだ。
彼ら好みの本が一冊もなければ一切関心を寄せたりしないというのはさすがである。
〈例の部屋〉の中からは事件に関係ありそうなものは根こそぎ持っていかれていた。床に散らばっていた石膏のくずや欠片もすべて塵取りと箒で回収されている。
警視は部屋の中を隅々まで観察して回る。
吉柳に指示して、写真なども大量に撮影したりもしていた。
通常の検証とはまるっきり観るところが違う。
僕が用意した事件当日の写真など一目見ただけであっさりとしたものであった。
やはり事件そのものにはこれっぽちも興味などないのだろうか。
「……なるほど。ここまでやれば、猟犬の追跡を逃れられるのか。空気穴からもトイレからも、角度のあるものは完全に消されている」
「いえ、むしろこの程度で足りると解するべきではありませんか。予想以上に、猟犬の追跡能力が低いのかもしれません。そもそもハルピン・チャーマズにしてもそこまで完璧な対策がとれていたとは考えられませんから」
「細貝の部下の証言ではここに何日か留まっていれば、追跡は止んだらしい。つまり、猟犬が臭いを辿ってきたとしてもずっとまとわりつかれるわけではなく時間があれば、しばらくは逃げられるということみたいだ」
「ドールの邪魔がなければ、の話でしょう」
「いや、耐震補強が進んでいる日本では、地震を起こすだけ壁や床にヒビができたりはしない。震動程度ではかなりの無駄になるだろう」
「そうですね」
「むしろ、私としては問題とされている角度についての発見があったのがいい。チャーマズの残した言葉によれば“They can only reach us through angles.”―――『そいつらは角度を通してしか我々に達しえない』とある。このanglesの解釈について色々と議論があったが、どうやら90度説、120度以下説のどれよりも鋭角である必要があるようだね。かなりシャープな角度でないと出現することができないと考えるべきだろう。あと、その角度の幅もそれなりにないといけないらしい。……そうなると現代の日本においては意外と猟犬に追跡されてもなんとかなるものかもしれないね」
話の内容はアレだが、この二人が研究者であろうということは納得できた。
二人とも真剣に観察をし、記録を取って、議論をして、検討に検討を重ねている。
普段の気狂いめいた様子は、話の内容以外には見当たらなかった。
警察官っぽいかどうかはさておいたとしても、だ。
だが、僕の乏しい頭の中身ではこの話が意味する結果を一つしか思いつかない。
一時間ほどしてから僕はようやく二人の会話に口を突っ込んだ。
「では、細貝はその……ティンカーベルの猟犬という奴に殺されてしまったということになるんですか? じゃあ、僕らがどんなに捜査をしても犯人は絶対に逮捕できないんじゃないでしょう……か?」
僕からすれば、はっきりいってオカルト的な問題や邪悪なバケモノのことなんて本来どうでもいいことだ。
このままでは細貝殺しのホシが逮捕できない。
人が一人理不尽に殺されているというのに警察は何もできないことになってしまう。
被害者の細貝に悪感情も好感も抱いてはいないけれど、殺されてしまうほどに悪いことをしているようでもないのに、仇もとれないのは可哀想じゃないか。
細貝は理由こそわからないがどこからでも侵入してきて、人を殺すことができる化け物に追われた挙句、誰にも看取られることなく死んだということになる。
それはあまりにも不条理だ。
「―――ああ、それは心配いらない。犯人なら引き渡してあげるよ。久遠くんはそいつを自分の手柄にすればいい」
だが、降三世警視はこともなげに言い放った。
僕がまったく想定もしていなかった内容を。
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