第6話「信仰問題管理室」
すでに日が落ちていた。
マノ鮮魚店のある住宅街は、23区内だというのに夜の八時頃をすぎると人通りが少なくなる。
僕がたまたま通りかかったのは、今回の捜査で領置した資料を返却した帰りだった。
返却にあたって署名を必要としていたために、持ち主が帰宅する時間に合わせてお邪魔させてもらったのだ。
そして、そのまま直帰していいという藤山さんの指示通りに自宅のアパートに帰ろうとしていた矢先、降三世警視らしい後ろ姿が目に入った。
あの高そうな三つ揃いの格好と長身の後ろ姿は、かの変人警視以外の何者でもない。
その視線の先に、マノ鮮魚店があるということも、後ろ姿が警視であることの証左といえた。
ただ、その姿勢はどうみても張り込みそのものだった。
まったく堂に行っていないところがいかにも現場叩き上げでないキャリア様といったところだったけど。
僕はさすがに思うところがあって、無視をしないで警視の背中に声をかけた。
「降三世警視」
さして驚いた様子も見せずに振り向く降三世警視。
意外と肝っ玉の座った人なのだろうか。
突然声をかけた僕を平然と受け入れている。
「……ああ、久遠くんか。どうしたんだね」
「どうしたじゃありませんよ。こんなところで不審な行動を採らないでください」
「不審?」
「さっきからどんな捜査対象にもバレるような下手な張り込みをしていることですよ。警視のそのやり方だと」
「……実はね、私は張り込みをほとんどしたことがないんだ」
「でしょうね」
素直に自分の不得手を認める姿勢には好感が持てた。
もともと事件解決に際して見せた頭脳の冴えもあって、僕の彼に対する心象は最初の頃とは比べ物にならないくらいに良くなっていた。
さすがは難関である国家公務員試験一種の合格者だと納得できるくらいには。
だが、その現場向きでない彼がどうしてこんなところで張り込みの真似事をしているのだろうか。
僕は彼の手を引いて場所を移動した。
「ちょっと待ってくれ。私はあの店の……」
「張り込みを続けるのなら、ここではすぐに見破られます。もっといい場所へ案内しますので、おとなしく付いてきてください」
「おお……そうなんだ」
僕たちは、少しだけ外れた路地裏へ場所を移した。
多少遠いが、むしろ店全体を観察することができる格好の張り込みポイントだった。
そこを確保すると、僕は警視に問いただした。
「いったい、何を見張っているんですか? あの店は真野修平の逮捕以来、誰も住んでいないはずですよ」
「その説明をする前に、君らは家宅捜索をしたのかい?」
「まあ、しました。それがなにか?」
「変わったものを見かけたりしなかったかい? 例えば、表紙が黒ずんだ皮でできた擦り切れた年代物の本とか、小さな蛙のような像がついたミニチュアの祭壇とかだね……」
「捜索礼状の範囲に入っていないものは任意捜査の見地から調べられないのは、警視だってご存知でしょう。一応、事件に関係ありそうなもの―――ガソリンを入れた容器とか、借金の証書とかは確保しましたけど」
「……地下はなかったかね?」
「記憶にないですね。でも、おかしいですね。警視なら、僕らが家宅捜索をしているときに無理にでも付き合うと思っていたのですが」
「ちょっと事情があってね。うちの管理室は人員が足りないので、他の案件に関わっていたんだよ。おかげで大事なところに付き添いそこねた。この事件ではこんなことばかりだ、ついてないよ」
何があったかは聞く気もしない。
どうせ、信仰問題管理室のやることはそんなに大したことはないくせに面倒なことばかりっぽいからだ。
すると、彼は懐から封筒に入った紙切れを取り出した。
裁判所の発した捜索差押礼状だった。
これは権限のある検察官や警察官しか申請できない真性のものだ。
「一応、もらってきてはいるが、まあ使わないでいけるとは思えるけどね」
「なにをするつもりなんですか」
「いや、ただ、あの家の中にいるものたちに用があってね」
「……あそこは空家ですよ。もう誰も住んでいませんでした」
「そんなはずはないよ。だったら、真野修平はあんな事件を犯さなかったはずだからね」
真野修平は自分の借金返済のために甥を殺したのではないのか。
他になにか動機が存在するというのか。
僕がそれ以上訊ねるのを制して、降三世警視はじっとマノ鮮魚店を見張り続ける。
その目は異常なほどに真剣で、気が狂っているかのように血走っている。
何を言っても聞きそうにない。
ただ、その情熱がなにに向けられているかということに、僕は耐え難い興味を抱いた。
これが好奇心猫をも殺すということだということに気がつかないほど、この時の僕はバカだったのだが。
頼まれたわけでないのに降三世警視につきあって張り込みを続けていると、深夜の二時近くになった。
いい加減に飽きてきた頃、マノ鮮魚店に思ってもいなかった動きがあった。
玄関がそっと開いたのだ。
家の中から。
誰もいないはずの建物から、何者かが顔を出したのだ。
はて、泥棒のたぐいかと警戒していると、おかしな錯覚に囚われた。
真野修平が出てきたのかと思ったからだ。
なぜかというと、その狭い額、平べったい顔つき、まばたきをしないかのような大きな細い目、そして突き出した口元、顔面を構成するすべてのパーツが真野修平のものに酷似していたからだ。
いや、違う。
あまりに人間離れした顔であるがゆえに、同類にしか見えないだけだ。
顔だけではない。
まるで長年水にでも浸かっていたかのように腐り果てたボロの衣服をまとい、灰色の肌をして、跳ねるような足取りで裏口から出てくる。
てらてらと光っているのは、灰色の肌がなぜか濡れているからだ。
そして、直立歩行で歩いているというのに、それは人の歩みというよりも背の高い竹馬でひょこひょこ進むかのようにバランスが悪い。
僕は息を飲んだ。
なぜなら、遠目でも僕には見えてしまったのだ。
呼吸のたびに首元から水が吹き出るのを。
あれは鰓(えら)だ。
手の指と指の間に張った膜は、水かき以外の何ものでもない。
そんな不気味で気持ちの悪い妖怪はただ一匹ではなかった。
マノ鮮魚店の建物から続々と湧いて出てくるのだ。
何匹も何匹も、僕が一度通った裏口を抜けてくる。
いったい、何匹いるのだ。
いや、それどころか、奴らははたしてどこに隠れていたのか。
あの建物は僕たち警察が完全に捜索したというのに。
「……やはり地下室があったみたいだな」
降三世警視が言う。
僕はあまりのことに失念していたが、この変人警視は同じ光景を見ても特におぞましいとは思っていないようだった。
それどころか、薄笑いさえも浮かべていた。
間違いなく常人の反応ではない。
まるで動物園で話題の珍獣をみかけた幼稚園児のように口角を吊り上げていた。
「な、なな、な、なんですか、あいつら」
「おそらく行方不明だという真野洋一の両親や、連絡の取れない身内だろうね。服装のボロさからすると二十年以上は水に浸かっていたのだろう。ただ、なかなか海には戻らず、こんな場所に隠れていたため、あいつらの魚臭さを誤魔化すために鮮魚店なんかを営んでいたに違いないね」
「臭いをごまかすため……」
「ああ、そうだよ。生臭い連中を匿うためには、さらに強い生臭さを用意すればいい。私はあの〈深き者共〉の潜伏先としては築地とか港が相応しいという持論をもっていたが、ようやくそれが立証されたようだね」
あれが人間だったというのか。
どうみてもただの蛙ではないか。
僕は胸がムカついてたまらなくなり、思わず吐きそうになった。
「しっ。静かにしたまえ。私たちがここにいることを勘づかれると、はっきり言って命に関わる。やつらはそれだけ凶暴なのだ。見た目の不気味さ以上にね。かつてやつらに生命を狙われ、そして殺された者は枚挙にいとまがない。アラスカでも、ソーホーでも、ニューオリンズでも」
「……まさか。こ、こ、ここは日本です。法治国家ですよ」
「関係ないさ。奴らの信仰する神は、小賢しい人の作り上げた法なんて毛ほども気にはしない。むしろ、奴らの神への信仰の方がはるかに古く尊重されるべきだとしんじきっているからね。その教義に従えば、逆らう者は殺せ、だ」
おぞましい狂信だ。
しかも、その信者があんな連中だというのならば、奴らの崇める神というのははたしてどれほどに悪夢と狂気に支配された悪魔なのだろう。
悪魔崇拝者。
それがあの蛙に似た連中なのか。
「悪魔ではないさ。正真正銘の神だよ。まあ、どんなに不気味でも信仰の自由はあるからね」
「降三世警視の信仰問題管理室って、あいつらの捜査のためにあるんですか……」
「奴らに限ったわけではないけど、大きなウェイトを占めているのは確かだ。特に私たちが追っている邪智暴虐な神々のことを、あの蛙たちの主神になぞらえて呼ぶことが多いからね」
「……主神?」
「ああ、水淵の邪神、海に沈んだルルイエの眠れる主、旧支配者……」
僕は唾を飲んだ。
語られているものは、ただの二つ名でさえ恐ろしい。
「―――クトゥルフだよ」
その名を耳にして僕は吐きそうになった。
それほどまでにその名前が発する瘴気のごときおぞましさが、僕の脳を震わしたからだ。
恐怖によって。
「け、警視は、奴らをどうするおつもりなのですか……」
僕は問うた。
警視の話をまるごと信じたわけではない。
ただ、この世に生きる常人として、あの吐き気を催す汚穢で冒涜的で、世界に反吐と泥を振りまくような連中のことを、どうにかしなくてはならないという使命感に取り憑かれたのだ。
あれはこの世にいてはならない者たちだ、と……。
「とりあえず存在を確認した。真野修平は奴らを地下に匿っていて、その存在が当局に発覚するのをおそれて、コレラにかかった甥を殺害したのだ。そして、簡単に自供したのも、自分が犠牲になって警察の目を建物から逸らすためだったのだろう」
「いや、そんなことをしなくても大丈夫だったのでは?」
「時間を稼ぎたかったのだろうな。もし、保健所の調査が入れば、建物全体を消毒しなくてはならなくなる。その場合、当然に地下への扉も発見される。もちろん、地下に潜んだあの半魚人―――〈深き者〉たちが露見する。それを嫌がって、あいつはさっさと自白したのだ。誰もいない家ならば保健所の調査もすぐには入らないからね。その間に、仲間たちを逃がすつもりだったんだよ」
そうか、そもそも真野洋一がコレラに罹患したことが露見しなければ、もっと余裕を見て半魚人たちを逃がすことができた。
でも、警視の推理のおかげで真野修平は逮捕され、保健所の調査が明日ということになった。
そうなると、奴らの引越しは今日中にされなければならない。
だから、それを現認するために警視は下手な見張りをしていたのか。
「あいつらはどこに行く気なんですか?」
「とりあえず隅田川だろう。そこから海に戻るはずだ」
「捕まえなくていいんですか?」
「何の罪で?」
確かに、半魚人だからといって逮捕はできない。
我が国の刑法にはそういう罪はないし、特別法もないので、法の根拠がないのだ。
刑法の大原則である罪刑法定主義に反する。
真野洋一殺害は、叔父の修平の仕業であいつらはそもそも関与してはいないし。
「でも……」
「安心したまえ。この件は、警視庁の上の方で処理するよ。とにかく私の仕事は、クトゥルフを始めとする邪神崇拝者の信仰の問題を調査し、それをまとめあげてカテゴリーにわけることだ。そして、あの狂信者どもが関わる事件が将来に発生したときに、やつらを締め上げる為の準備をすることなんだよ」
だから。
だから、信仰問題管理室。
「さて、とりあえず最後まで奴らの生態を観察するとしようか。ついてくるかね、久遠くん」
僕は首を振った。
こんな気持ちの悪いことに付き合いたくなんかなかった。
胸の奥が反吐まみれになったような不快な気分だった。
「では、ここでお別れだ。あと、このことは口外法度だよ」
「……警察の誰もこんなことを信じてはくれませんよ」
「それもそうだ」
そう快活に言い放つと、降三世警視は今度は下手な尾行を始めた。
あのやり方ではもしかしたら蛙どもに見つかるかもしれないけど、そうなったからといって助けてあげようという気は起きそうもなかった。
僕はそれほど熱病にかかっているかのようなダルさを覚えていたからだ。
それが未知のものに対する恐怖によるものだということに気がついたのは、家に帰り、ベッドにくるまってからのことだった。
この世界には知らなくていいことが渦巻いている。
知ることは決して良いこととは限らない。
この日、僕を取り巻く世界が実は狂っていたらしいということを知ってしまったのだった……。
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