あざみ堂事始

朝斗

其ノ始 薊堂は狐憑き?

 屋敷の中は意外にも狭く、一階のエントランスホールにはカウンターが備えられているだけだった。

 ホテルのロビーにも似た、オークのフロントデスクの上に金色のベルがひとつ。足を踏み入れた男性が恐る恐るリィンと打ち鳴らすと、間も置かず階段の上でドアが開いた。

 中央階段を静かに、青年がひとり降りてくる。

「いらっしゃいませ」

 出迎えた彼はスラックスにワイシャツというラフな出で立ちで、燕尾服に身を固めた男か中世ヨーロッパの雰囲気を残した給仕の女が降りてくるのではないかと身構えていた客人には心安さが訪れていた。

「あの、ここが薊堂でよろしいですよね」

 入り口で何度も確認したその名を尋ねるのは、不安を抱えた依頼主共通の形式儀礼のようなものだった。ゆえに接客役の彼もまた、柔らかに笑う。

「はい。どうぞ、こちらへ」

 通されたのは二階の重たい扉の先。そこは絨毯こそ敷き詰められていなかったが、やはり復古調の香りが漂う小奇麗な洋間だった。部屋の奥には天井まである大きな窓と執務机。左右壁際には蔵書室めいた本棚。中央には来客用のテーブル、それを囲んでソファが揃っている。


 勧められるままに腰掛けると、青年がコーヒーを運んできた。入り口の側の事務机がひとつしかないのを見ると、接客も実務も全て目の前の青年が兼務しているのかもしれない。

 客人の男は辺りを見渡す。本棚の左隅、窓側に向けて添えられたソファで、誰かが寝息を立てているのが窺えた。


「起きなさい、翠仙」

 背もたれを覗き込むようにして声をかける。やがて観念したように、がもぞもぞと身動きする。そして酷く億劫そうな顔が、ソファの内側から起き上がった。

 少女だった。

 真っ白なセーラーの夏服に身を包んだ、器量の良い娘。何処の制服かは分からないけれど、胸元の薄藍のスカーフが射光に涼しく映えていた。

 くりくりと丸い目に、隠そうともしない微睡。気紛れな小動物のようだ。見た目は高校生くらい、背丈からしてまだ中学生でも通るかもしれない。

「おはよう。お客様だよ」

 穏やかに話しかける常葉を、何も言わずにじっとり睨み上げる。視線に込められた恨みがましさに気付かぬ振りをして、彼もまた少女を見下ろした。すると今度は、それをいいことに元通り横になってしまう。

 再び男からは窺えなくなったソファの向こうから聞こえてきたのは安らかな寝息。

 やれやれと、芝居がかった仕草で常葉が肩を竦める。


「申し遅れました。わたくしは常葉と申します」

 男は珈琲で口を湿らせると、正面に腰を下ろした青年・常葉に向かって焦れた言葉を投げかけた。

「知人から紹介されて来たのですが……こちらで古物を見ていただくことは可能でしょうか」

「古物というのは少々語弊があるかもしれません」

 常葉はにこりと笑う。

「陶器に掛け軸、鏡に刀……綴じ本となればもっと専門にしている馴染みを紹介させていただくこともありますが、どちらにせよお断りする理由はありません」

「ならば、それが幽霊や妖怪の類でも?」

「妖怪ですか?」

「実は――薊堂は狐憑きだという話を耳にして」



 妙な客だと思われるかもしれない。男の心の中にはそう過ぎりもしたが、恥や外聞を気にしていられる頃合いはとうに越えていた。今は誰でも良いのだ。話を聞いてくれない警察が頼れないとすると、自分たちにはここしか残っていない。


「なるほど、狐、ですか」

 男が意気込んでいると、その心配を余所に青年は、ふむ、と首を傾ぐ。

 やがて戸惑いに似た苦い笑みを浮かべた。

「それはおそらく私共が妖に因んだ仕事――拝み屋の真似事のような仕事も請けることが多いからでしょう。何分私共が商うのは骨董品。その中にはいわくのつく品も少なからずので」

「では……」

 その言葉に些か弛緩する。

 凝り固まっていた息を言葉と共に吐き出した。常葉という青年の微笑が、この上ない救いに思えた。


「まずは、お困りごとをお聞きしてもよろしいですか」




 薊堂の面々が依頼主の家を訪れたのは、約束通り翌日の昼過ぎのこと。

「遅くなって申し訳ありません」

「いいえ、時間通りですよ。お待ちしていました」

 夏を呼ぶ強い日差しの下、家に住まう親族を揃えて彼らを迎えた。

 その家は都会と山麓の混じり合う町の……いや、人間が自然を侵食し果てた境目に位置していた。薊堂のある都市からは電車で二時間ほどかかる片田舎だった。

 七変化の青く染まる庭先で彼らは向かい合う。

 丁寧に頭を下げる常葉の後ろには、純白のセーラー服に身を包んだ少女。黒い髪に黒い瞳。青年の影にすっぽりと収まるその姿や表情は蔵の奥に眠る人形のよう。

「貴方が依頼主さんね。今日はよろしく」

「こちらこそ、お手数をお掛けします」

 少女は昨日と打って変わって元気が良かった。片手にラムネの瓶、もう片手に林檎飴を持っている所を見ると、どうやら駅前の露店を覗いて来たらしい。反対に青年、常葉のほうがげんなりしているのは気のせいだろうか。

 少女――翠仙と言うらしい――は、つやつやに輝く林檎飴に噛り付こうとした唇をぴたりと止めた。耳を欹てるようにして、家の縁を取り囲む騒々と揺れる森に目を向ける。

「常葉」

 短く呼ぶ声に常葉が居住まいを正す。心得たように振り向いて言葉を待つ。

「なんかこのへん、気持ちわるい」

あやかしの仕業かな」

「分かんないけど、似た臭いがする」

 翠仙は眉を顰めると、空になったラムネ瓶を常葉に手渡した。カラリ、涼やかな音が洩れる。

「ちょっと見てくる」

「気をつけるんだよ」

 家の裏手につま先を向けながら、彼の言葉に一瞬だけ振り返る。

 そして大分大義そうに笑った。


「あたしを誰だと思ってるの。今のあたしなら、たとえ閻魔大王だって黙らせられるわ」

「はいはい、天下無敵の翠仙様?」


 ――“薊堂は狐憑き”。

 跳ねるように駆けて行く後姿を見送りながら依頼者は、もしや彼女がそうなのだろうかと目を細める。

 蒼天に高く、夏雲と蝉の声が木霊していた。



 依頼主の人間を常葉に任せて、翠仙は歪んだ風を辿り家の裏手の山を登った。山と言っても地図に名前が残るほどの大きなものではない。頂上まで行くのにもせいぜい半時。それにどうやら“気配”が残るのは中腹辺りで、それこそ数分もしないうちに辿り着くことができそうだった。

 ひらひらと、スカートの裾が閃くのもお構いなしに駆けていく。常葉には「はしたない」とお小言を言われるだろうが、幸い今彼は側にいない。

 大体、常葉は口煩過ぎるのだ。人間の形で何を言うのか。

 そう、ぶつぶつと想い巡らせながら。

 足元の、崩れて斜面と同化した階段道は、石やコンクリートで補強されている様子もない。手入れが行き届いていないというのは本当なのだろう。これでは仕方無いと思いながら、翠仙は“そこ”に行き着いた。



「これが、祠ね」

 話に聞いた、何を奉っているとも知れない小さな祠。けれどそれがただの飾りでないことは、色褪せながらも張り巡らされた注連縄と頑丈な石の造りから見て取れる。

『我々のような狐狸の類ではないようですね』

 翠仙は四方八方から遠慮なしに祠を眺めた。歪んだ気は確かに感じるが、ここに来る間に随分薄れてしまったので正体がよく分からない。立ったりしゃがんだりしながら、奇妙な所がないかと探し回る。時折手を伸ばしながら。


『翠仙様』

「わかってる」

 祠の厨子が開いて中が見える。その中には傷付き風雨に汚れたが転がっていた。

 文字通り転がっているのだ。ボロボロの布切れに包まれた何かが正しい場所に納まるでもなく、扉の内側に倒れ込んでいる。翠仙はそれを拾い上げようとして、何かを察して指先を宙で止める。


「翠仙!」


 傾斜を見下ろすと、数メートル下に常葉の姿が見て取れた。足場の悪い道をそろりそろりと登ってくる。

「あら、貴方まで来たの? 別にいいのに」

 翠仙は林檎飴のついていた割り箸を袋に仕舞うと、スカートのポケットに押し込んだ。常葉の到着を待たずに何かを唱える。時の流れのような、滾々と湧きいずる言葉の鎖。それは祝詞のようでも真言のようでもあった。

 そして終にははっきりと、喉の奥から言葉を発する。

 両の手で結ぶのは九文字の印。曰く、。いかなる敵でさえ恐れるに足りないのだと、つまりは挑発だった。

 最後の一文字を結び終わるか終わらないかのうちに、彼女の体を突風が包む。


 風の源は、厨子の中だった。風と共に声が鳴る。


 ――知った口を聞くな、小娘。


 腹の底、脳の奥に直接響くような“声”。男とも女とも、子供とも老人ともつかぬ、それでいて憤りの感情だけは籠った声だった。

 それでも少女が怯む筈は無く。

「小娘じゃないわ。翠仙よ」

 寧ろ堂々と祠の主を見上げる。また別の風が、翠仙を守るように包み込む。


 ――その気配、人の姿はしているが人ではないな。


 ちょっと興が削がれたような顔つきの翠仙と、その側に静かに佇む常葉を見て、声の主が嗤う。


 ――承知、承知。人間の側に寝返った狐が居ると聞いたことがあるぞ。


 暗闇とも陽炎とも判らない、網膜に映りこまないその何か。けれど翠仙の瞳は真っ直ぐに声の主を見据えていた。

「寝返ったわけじゃないわよ。元々はヒトも妖怪も、助け合って生きてきたでしょう」

 誰かの真似をして、つまらなそうに肩をすくめる仕草をする。それから、不敵に表情を改めて傍らの青年に視線をやる。

「――なんて。そんなこと、どうでもいいんだけどね。ねぇ、常葉?」

「そうだね。僕も翠仙も、自分の居たい場所に居るのだから何も問題はない」

 少女に応えるように青年もくすりと微笑する。その言葉に益々気を良くしたのか、翠仙はにこりと笑った。

「それこそ、誰かにとやかく言われる必要もね」

 日の光の下だというのに、眼光が鋭く色付いたように見えた。


「さて、ここからはビジネスのお話よ、御神刀様?」




「お陰様で、妙な事はなにひとつ起こらなくなりました」


 彼が再び薊堂を訪れたのは、それから一週間後のことである。

 以前と同じように二階の洋室に通され、よく冷えた麦茶を勧められながら礼を述べる。少女は眠りこそしていなかったが、やはり長いソファの上で寝そべっていた。


「祠も毎年掃除をするように取り決めました。我が家の側にあるのも何か縁あってのことですから」

「お役に立てたようで何よりです。ご近所付き合いはヒトでなくとも大切ですからね」

 常葉が心から嬉しそうに微笑む。値段があまりに良心的だったため少々不安に思っていたが、どうやら正しいらしい。男は思い出したように、携えてきた袋を常葉に差し出した。

「それから、これを」

 テーブルの上に据えられた白い紙袋。常葉は一瞬だけ怪訝な顔をして、勧められるままに受け取った。取り出してみると、更に紙で包まれた箱が入っている。

「この油揚げをお嬢さんに」

 その言葉に、常葉が驚嘆の表情を浮かべる。

「いただいてもよろしいんですか」

「ええ。ウチは代々にがり屋なもので」

 言い訳染みた言葉ではあったが、男の家が豆富屋であることは事実だった。それにやはり、狐には油揚げが良いと考えたのだ。ちらりと青年の後ろに目をやると、少女もまた首をもたげてこちらを見ていた。


 幾度と礼を述べる常葉に掌を振って、依頼者だった人間は薊堂を後にすることにした。

「またお困りのことがあれば、どうぞ薊堂へ」

 深く下げられた頭に会釈を返す。

 きっとここに来ることはもうないのだろう。そう思うと嬉しくもあり少し淋しくもあった。




 依頼者が玄関を出て行ったのを見送ってから、常葉はいささか早足に階段を駆け上がり、今もソファの上で寛ぐ少女へ呼び掛ける。

「翠仙、油揚げを貰ったよ。どうしようか」

 何やらそわそわと落ち着きを欠いている。本当はあの男を階段下まで見送るのさえもどかしかっただろうに――いつもより喜色の強い微笑みに翠仙は溜め息を吐く。

「どうしようも何も」

 暫く不満げにその様子を見ていたが、やがて目を逸らして呆れ顔。

「早速いただこうか? ああ、こんなに入ってる。これじゃあ一度に食べきれないね。そうだ、冴と結も呼んで、今日の夕飯は稲荷寿司にしよう」

 それから面倒そうに彼の名前を呼んだ。


「……常葉」

「なにかな?」

「しっぽ出てる」


 うきうきとした言葉を断ち切るように。別の依頼で眠気の消えない苛々をぶつけるように。

 それからほんの少しだけ、何事もそつなくこなす彼の弱点を好ましく思いながら。

 常葉はとっさに自らの尾てい骨の辺りを隠す仕草をして、まさに犬が自分のそれを追いかけるようにくるりと体を回した。

 追いかけまわしたからといって、見つけられるはずがないのだけれど。

「嘘よ。冗談」

 視界の端でそれを確かめながら、翠仙は益々呆れたまま肘掛に頬杖をついた。


 時刻は奇しくもお八つ時。

 結局、煮浸しにした油揚げを全部常葉にやって、少女は静かに麦茶で喉を潤していた。

 こうも至福そうに食べる姿を見ると、油揚げはそんなにまで美味しいものだったかと錯覚する。

 ……夕飯まで残っているのかしら。


「ほんとに、人間の真似、上手いわよねぇ」


 滅多に座らない執務机に向かい、薊堂の主人・浅見翠仙は感心したような困惑したような言葉を洩らした。

 それに何を思ったか、常葉は得意げに胸を張る。


「まぁまぁ。それもこれもあやかしのなせる業だよ」


 そう言って悪戯っぽく片目を瞑ってみせるが、満足げに油揚げを頬張る後では到底格好もつかないと、少女は重ねて思うのだった。



                                其ノ始 終

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