新しい季節 (2)
それからしばらく経った五月に入ったばかりの日曜日。朝から果歩がうちにやってきた。僕は強引に家から連れ出された。
「あのさー、果歩。僕、忙しいんだけど」
「分かってるって」
分かってない。今からリンクに行こうと思っていたところだったのに。
僕は入学祝に買ってもらったスマホで、自主練は午後からになると急いで陽向さんに連絡した。
「どうせ練習でしょ? でもね、スケートの偉い先生が言ってたよ。練習だけやっててもいい演技はできないって。もっと他のことも楽しみなさい、芸術とか自然とかステキなものに触れる機会は大切なんですよ~って」
果歩がきらきらして言った。その言葉はリンクへ行こうとする僕の足を、少しだけ寄り道させる魔法の力を含んでいた。
「だから制覇は、こういう所に来た方がいいんだって」
僕の腕に通した果歩の腕が、僕を前へ前へと引っ張る。
「だけど木野だってまだ部活始めて一ヶ月だろ? ろくな演奏できるとは思えないし、聴きに来られても困るんじゃない?」
「そんなことないよ。ぜひ来てって言われたもん! それよりお客さんいない方が寂しいって」
高校に入って木野は軽音部に入ったらしかった。その初めてのライブがモミの木の裏にある公園で開かれることになっていた。
五月の風が吹き抜けた。
新緑が眩しい。公園に入ると揺れる木々の下にフリーマーケットが並び、人々が行きかっているのが見えた。広場の中央に設けられた小さなステージからは、楽し気な音楽が聞こえてくる。
気持ちのいい景色だ。芸術や自然に触れろと言って迎えに来た果歩の笑顔を思い出す。
流斗に負けて以来、僕はたまに考える。僕はアイスダンスをスポーツとして捉えすぎていたと。僕にはアイスダンス選手として、欠けているものがどうやらたくさんある。
この景色のどこかにも、僕のスケートを変えてくれる何かがあるんだろうか。
「果歩、お前さ……」
「うん?」
「なんでたこ焼き食ってんの?」
こいつ、つい今まで、シリアスな話してなかったか? それがなんで、いつの間にたこ焼き!?
「木野君に券もらってたんだよ。あ! ごめん。気が利かなくて。制覇にもあげるよ、半分!」
僕は別にそんなことを気にしてるわけじゃないんだけど。
「別にいーよ」
「ううん。遠慮しないで」
果歩はたこ焼きを楊枝に刺し、僕に近づけた。
「ほら、あーん」
「いいってば。あっ! つー!」
結局、口に放り込まれた。熱かった。
「あ! ほら、木野くんの番が来たよ。もっとステージに近寄ろ!」
ステージの前に
彼らは仲間五人で顔を見合わせると、膝でカウントを取った。マイクを持つ一人が顔をこちらに向け、笑いかけてくるので、つられて僕も一緒に体でカウントを取っていた。
ドラムの音が弾けると、まわりから歓声が上がった。そこにボーカルの声が飛び込んで、興奮が膨れ上がる。通りがかった人たちが、ステージの前で次々と足を止めた。
隣で体を揺らす果歩。ステージを眺め、笑顔を浮かべている。そして僕も、一緒になって体を揺らしていた。
あれ? なんで僕たちこんなことになってるんだ?
気がつくとステージのまわりを囲む僕たちはみんな、五人のハーモニーに引き込まれていた。自然と体が動いていた。
自然と――
心地よい4拍子。音楽に包まれると、自然と体が動く。自然と表情が和らぐ。
誰でもそういうものなのかもしれない。
スティーブン先生に何度も言われたことが蘇る。心で踊れと。もっと楽しくと。
あの頃の僕は必死にリズムに合わせ、笑顔を作ることに一生懸命になっていた。軽快で楽し気に「見える」ように、技術を磨くだけになっていた。でも今思えばあれは形だけだった。心で踊るっていうのは、もっと違うんだ。
ずっと理解できていたと思っていたことが、突然違う形ですとんと胸に落ちた。
体中が音楽に満たされて、自然と動きだしたい衝動に駆られる。
それが、ダンスというものなのかも――
隣で果歩が手拍子を始めた。曲が終盤に近付き、歌声と演奏に熱が増していた。
「木野君、おつかれ~。よかったよ~」
「おー。常葉木。来てくれてたかー。嬉しいなー」
「お前、一年なのに上手いんだな。驚いた」
「サンキュー。一年っていっても兄貴のいたバンドだからな。結構前から混ぜてもらってたんだよ」
僕は彼らが弾いていた楽曲の名前を尋ねた。流行っているのに知らないのかと木野に驚かれた。僕が曲に興味を持ったのを知ると、今日弾いていた曲だけじゃなくて、お気に入りの曲をいくつも教えてくれた。
その夜家で、色んな音楽を聞いてみた。木野に教えてもらった曲や、全日本のパンフレットに載っている曲を検索してみる。
音楽を楽しむなんて久しぶりだった。去年一年間、なんだか無我夢中で走っていた気がする。
もっと知りたいな。もっとたくさんの音楽に、出会いたい。
先生の持つ音楽プレーヤーから流れるプレゴールドの課題、アルゼンチンタンゴ。
これまで注意深くこの曲に聴き入ったことはなかったけれど、力強いビートと、それに重なる伸びのある旋律が格好いい。
隣に立つ陽向さんは、たぶんこの曲に乗って滑っている。でも僕は、曲を聞いて自然に体が動くという域には達していない。僕はこの曲をどう滑りたいんだろうか。決められたステップを滑っているのは同じなのに、陽向さんは「踊って」いて、なぜ僕はただ「こなしている」になるのだろうか。
僕の意識のどこかが変わったのに気づいてくれたのか、陽向さんは自分の目指すダンスを語ってくれるようになっていった。
「それでね、制覇君。このアルゼンチンタンゴなんだけど、特にこのくるっとしてパッてところなんかね……じゃなくて」
陽向さんは南場さんにからかわれたことで、説明能力をなんとか向上させようと、苦心していた。
「この前テレビで見たんだけど、アルゼンチンタンゴって本場では振り付けが決まっているわけじゃなくて、男性のリードにその場で女性が即興で合わせて踊るものらしいの。その無言の会話のようなものがね、このクルッとターンして向き合った後のぐいーんってところにね……あー、やっぱりもうだめ! 何度言い直しても語彙力が!!」
とても苦心していた……。
そんなある日、平野がすべてのトリプルジャンプを跳べるようになった。
その日僕は上本に手首を掴まれ、突然更衣室へと連れていかれた。
上本は更衣室に人がいないのを確認して、平野のその快挙を僕に伝えた。そして続けて
「近いうちに六級を取って、ブロック大会に出るつもりらしい」
と言った。
「おー。そうなんだ。それは……」
すごいな、と言おうとしたけど、それを言ってはいけない雰囲気だということに気がついた。上本は僕と目を合わせようとしなかった。
「俺、もうスケートやめようかな」
「え? え? どうしてそういう話になるわけ?」
「俺はもう無理だ。自分の限界を感じた」
「いやいや、何でだよ。平野が跳べたってことは、お前だってがんばれば跳べるってことだろ?」
僕は努めて明るく、「年下に負けて悔しくないのかよ」と励ました。それに対して上本は、
「悔しいよ。だけど、年下だからこそもう無理なんだよ」
と言った。
「俺はこの年までやってもまだトリプルを全部そろえられてないし、成功率だって全然上がらないんだよ。だけどあいつはまだ中二で全種類そろったんだよ。これから先は、もう差をつけられていくしかないんだよ」
僕は上本の話を聞くまで、年上の方が何をするにしても有利だとしか思ったことがなかった。年上を恐れても年下を恐れたことなんてなかった。試合で南場さんの話を聞いた時も、まったく本気にしていなかった。だから、上本の言葉に戸惑った。
「あいつはまだ中二かもしれないけど、僕らだってまだ高一だろ。たった二つしか違わない……」
僕が全てを言い終わらないうちに、上本は僕の肩をつかんだ。
「その二歳が大きいんだって。俺ら、何歳までジャンプ増やせると思ってんだよ。もうあと何年もないんだよ。くそー、アイスダンスは歳食ってからが勝負の競技だもんなー。俺の気持ちは分かんねーんだろーなー。南場さんには相談したくないし。一体誰がこの気持ちを分かってくれんだよ……」
そのまましばらくの間、上本は僕をつかんだままうつむいていた。僕はどう声をかけていいか分からなかった。
「ごめん……。あの、僕、練習に行かないと。上本もさ、せっかく早く来たんだから、練習……したらどうだろう……」
僕には「練習」という言葉しか浮かばなかった。他にどうしてやることもできなかった。
それから数日後、彼は変わった。地方大会にしか出ないのであれば一本しか必要のないプログラムを、ショートとフリー用に二本作ってもらい、これまで通り平野と適度な敵対関係を楽しみながら真剣に滑りこむようになっていった。
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