八. 前哨戦。

 前哨戦(1)

 大会二日目。フリー。

 午前中に公式練習があり、昼食を買いに外に出て戻ってくると観客席できょうちゃん先輩が陽向さんの横で化粧道具を広げていた。

「ラメ入れてあげるから、目をつむって」

 そういってコンパクトを構えるきょうちゃん先輩の前で、陽向さんは睫毛まつげを伏せた。

 きょうちゃん先輩はふさふさした大きなブラシで陽向さんのまぶたをなでた。長い睫毛の上の肌が、きらきらとし始めた。きょうちゃん先輩は首を傾げて陽向さんの顔をしばらく眺めた。

「うん。かわいい」

 そう言って僕の方を振り返った。陽向さんが目を開けて僕を見た。その目力に、一瞬動けなくなった。

 立ちすくむ僕を見て、きょうちゃん先輩は思い出したように

「ねえねえ。昨日の帰りの子って今日も来てるの?」

 と、果歩の話を始めた。

「制覇君、そろそろ抽選じゃないかな」

 陽向さんはコンパクトをたたむと、急いできょうちゃん先輩につき返した。

「え? まだ早くないですか?」

 滑走順を決める抽選の時間までにはまだ三十分以上もあった。

「五分前行動っていうのはね、ちょうど五分前に行けばいいってことじゃないのよ。先生ももう先に行っているわ。行きましょ」

 優しく諭すようにそう言われ、僕は席を立った陽向さんの後を追った。


 抽選で僕たちは二番を引いた。

 笠井・児島組のあと。

 前日のこともあり、先生は僕に他のカップルの演技を冷静に見れそうかと聞いた。緊張しそうであれば、ぎりぎりまでベンチで曲を聞いたりして過ごすようにと言われる。

 練習滑走が終わり出番までの間、僕は陽向さんと二人でイヤホンを耳に曲に集中した。目をつむって頭の中でフリーを頭から滑った。このイメージの通りにやればいい。練習の通りに。

 そのうちに一組目の演技が終わり先生に呼ばれた。氷に乗り、前の組の得点が出るまでリンクの端の方で控えめにターンをいくつか試してみる。昨日よりずっと、膝が柔らかい。

「調子はよさそうね」

 フェンスの向こうの先生に、うなずいて答える。

 しばらくして、笠井・児島組の点数が発表された。


  Performed Technical Score 23.78

  Program Component Score 22.96

  SD 33.40 FD 46.74 Total 80.14

  RK 1


 続いて僕たちの名前がアナウンスされた。するとそこで、大きな拍手が起こった。前日よりも力のあるものだった。見上げると、観客席が前日よりも埋まっている。

 陽向さんは顔を輝かせてスタート地点へと滑り出し、僕とつないでいる手を高くかかげた。

「昨日の演技が少しは認められたみたいね」

 彼女は僕に向かって片目を瞑った。それからその笑顔を客席へと向けた。客席側の腕を手首から大きく持ち上げてから、まるで投げキスでもするかのようにゆっくりと下ろした。


 スタート地点で彼女は僕のすぐそばに寄り添って立つと、いい演技をしましょうねと言った。彼女の中でたぎっているものが僕へと伝わってきた。この人はきっと今日いい演技をするに違いない。彼女の心の底から何かがあふれてくるのが分かった。昨日とはまるで違った印象だった。昨日はずっと僕に大丈夫だよと笑いかけてくれていた。思い出してみると、あの笑顔は僕を励ますために作られたもののような気がする。演技よりも、僕との初めての試合が上手くいくかを心配して、そこに神経を使ってくれていたのかもしれない。


 陽向さんは水を得た魚のように滑り出した。これがジュニア女子シングルでかつてトップまでいった人の持つ本来の力なのだとぞくっとした。僕はシンデレラである彼女が思い通りに踊れるように、邪魔をしないよう細心の注意を払いながらすぐ隣りを滑った。彼女が何かをする度に客席から拍手が起こった。これが試合というものなのか。

 今日は大成功だ――。


 演技が終わると、観客席からセロファンに包まれた花が降ってきて僕を驚かせた。あちらこちらに、合わせて三つほど。陽向さんは僕の手を引くと、その花を拾いに行った。拾い上げると嬉しそうに観客席に手を振った。観客席では大勢の人が手を振っていて、誰が投げ入れてくれたのかはもう分からなかった。そのうちに得点が発表された。


  Performed Technical Score 30.60

  Program Component Score 32.06

  SD 41.74 FD 62.66 Total 104.40

  RK 1


 今日の得点は62・66。昨日との総合得点は104・4。今日は、やれるだけのことはやった。この点数は、そんなに悪くないはずだ。


 今日の僕たちはどうだった?

 僕は観客席を見上げた。

 昨日あいつからは流斗たちへの感想しか聞くことができなかった。でも、今日はどうだろう? 流斗に張り合えるだけのことを、やれただろうか。僕は。

 昨日より人の多いそこに、果歩を見つけるのは簡単ではなかった。しばらくすると、ある席に流斗たちの名前の書いたバナーが掲げられた。僕がそこに目を向けていると、陽向さんが不思議そうに言った。

「どうして、彼女さんが神宮路・蒼井組を応援しているの?」

「あいつと蒼井流斗と僕の三人は、同じ中学に通っているんです。蒼井は東京のリンクでエントリーされてますけど、モミの木にたまに来るんです。それと……」

 と言って僕は果歩を指さした。

「あいつはモミの木の常連で、彼女ではありません」

 陽向さんは僕の言葉に「そうなの。初めて聞いたわ」と嬉しそうにつぶやいた。


 数分後。流斗たちの演技をこの目で見る時がついに来た。


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