現実(3)

 プレシルバーが取れた僕は、陽向さんとより上を目指し突き進んでいるはずだった。

 ところが、突き進むどころか僕は沼に足を取られたかのように一歩も前に進めなくなっていた。新しく課された、「質を上げる」という難題のせいで。


 技ができるかできないかといった目標は目に見えやすい。それに比べて質を上げるという目標は漠然ばくぜんとしていて、何ができればゴールなのかがまったく見えない。

 やるべき課題ははっきりと出されていた。具体的にはこれまでやってきたことの復習。スケーティングやターンといった基本動作からリフトやツイズルといったエレメンツまでを、よりきれいによりしっかりとできるようにと言われたのだけれど、とたんに、今までのように熱意をもって取り組むのがとても難しくなった。日々の進歩が見えづらく、僕はどんどん停滞感ていたいかんを感じるようになっていた。


 陽向さんは自分の満足できないところは自ら何度でもやり直していた。

 僕には何が納得いかないのか全然理解できなかったけれど、彼女には目指すべきものが見えているようだった。

 そばにいて同じ時間を過ごしていても、僕は相変わらず彼女に取り残されていた。

 失敗したわけでもないのにやり直しをする陽向さんに、僕はなぜやり直したいと思うのかを聞いてみた。すると

「何かが違うって感じがするからかな」

 という答えが返ってきた。


 彼女は、満足のいく時とそうでない時の感覚の違いを、僕に語ってくれた。もっとすーっとしなくてはならないのだとか、もっとぐっと押さえなくてはならないのだとか、そういう表現で。

「上手くいくとね、タンゴを滑ったっていう気持ちのいい感じがするのよ」

 他にも色々なことについて話を聞いたけれど、彼女の説明をいくら聞いても、僕には彼女の言っている感覚の違いを理解することはできなかった。


 プレシルバーを受ける前の先生との約束では、バッジテストが終わったらシルバーの練習と共にエレメンツのレベルも上げていこうという話になっていたはずだった。

 レベルというのはエレメンツの難易度で、技を行うときの姿勢や速度、エッジの切り替え方などで四段階に分かれている。僕たちの取り組んでいるエレメンツのほとんどは、最も簡単なレベル1に分類されるものだった。

 ところが僕に新しく課されたのは、シルバーの課題でもなければ、レベル2の課題でもなかった。

「実力のない段階で無理に先に進もうとしたところで、GOEも出ないから意味がないわ。しばらくは『質』に重点を置いて練習していきましょう」


 先生の方針転換の背景には、バッジテストの講評をしてくれた岡崎さんの影響があるようだった。僕のテストの演技を「このままでは困るのよね」と評し、流斗たちの演技を「本物」と評したあの日の岡崎さんの。

 GOEというのが何なのか僕にはよくわからなかったけれど、バッジテストでより上に進むよりも、より難しいエレメンツに挑戦していくことよりも、それは優先されるということなのだろう。


 新しい技をする必要がなくなったことで、先生は僕と陽向さんにつきっきりではなくなった。僕たちはあらかじめ指示されたことを二人で練習することが多くなった。

 先生は時々様子を見に来ては、見本を見せてくれた。僕を真似てどこをどう変えるべきかを言ってくれることもあった。だけどその通りにやってみたつもりでも納得はしてもらえない。

 綺麗に滑れだの動きを揃えろだの、そんな注意は今までに何回聞いてきたことだろう。いや、何回ではすまない。何百回も聞いてきた。もう僕だって十分に分かってる。しっかりやってもいるはずだった。それなのに、繰り返されるのは「前に注意したところ、全然直ってないわよ」というやる気をなくすようなことばかり。


 いつの頃からだろうか、僕は氷に乗っても何周か滑ったらフェンスに寄って、みんなが滑っているのをぼんやりと見ていることが多くなっていった。



 眩しさを増していく日差しとは裏腹に浮かない気持ちでいる僕の前の席が、連休を明けた頃からだっただろうか、たびたび空席になり始めた。

 丸一日のこともあれば、一時間目の途中までのこともあった。


 二日連続で流斗が休んだある日のホームルームに、隣の女子から声をかけられた。

「ねえ。蒼井君って体弱いの?」

「さあ? そういう風には見えないけど?」

「じゃあなんで休んでるのかな?」

「さあね」

「天宮君さあ、プリント、持って行ってあげたら?」

「え?」

 なぜ僕が。

 そう思ったが、その子は「喜ぶと思うよ」と言うと「せんせーい! 天宮君が蒼井君に欠席中の配布物持って行ってくれるそうでーす!」と担任に駆け寄った。

「おーい。勝手に決めんなよー!」

 流斗の家を訪ねるなんて、僕は絶対に嫌だ。

 しかし先生は「助かるわ」と言って僕にプリントの束を差し出した。


 地図を手に歩きながら、どんな顔してあいつに会えばいいんだと考えた。とにかく、どんな豪邸が出てきても驚くもんか。それから、からかわれるようなことを言われても絶対に気にしない。

 歩いているうちに、高い塀と車庫の大きなシャッターのある家ばかりが建ち並んでいる通りにたどり着いた。流斗の家はその通りの中にあった。まわりの家に比べれば流斗の家のシャッターはわりと小さい方だったので、僕は何となく安心した。塀の向こうに松だか何だか知らないけど、和風に刈り込まれた木が伸びているのが見えた。チャイムを押すと上品そうなお婆さんが出てきた。


「あらまあ。流斗さんのお友達」

 きれいに髪をセットしてネックレスを下げたお婆さんが、少し驚いた様子を見せながらも嬉しそうにそう言った。僕もちょっと嬉しくなって、少しだけ笑顔を作って頭を下げた。お婆さんは玄関を入ると二階に向かって「流斗さーん。お友達よ、お友達ー!」と流斗を呼んだ。しばらくすると階段から流斗が顔を出した。

 プリントを持って玄関に立つ僕を見つけると流斗は、

「あれ? なんで来たの?」

 と不思議そうな顔をした。

 誰だよ、プリント持って行ったら喜ぶなんて言ったのは!

 僕は預かって来たものを差し出すと、

「先生から」

 とだけ言って帰ろうとした。

 そんな僕に、お婆さんはほがらかに

「ゆっくりしてらしてねー、ゆっくり……」

 としゃべりかけてくれて、流斗に「流斗さん、今日は何時?」と聞いた。

「五時」

 流斗がそう答えると

「五時まで、ゆっくりしてらしてね」

 と繰り返した。

 五時までは十五分しかなかった。別にゆっくりしていくつもりはないからいいけど。


 玄関を上がり、僕は流斗の部屋に通された。入り口はふすまで、畳の敷いてある八畳の部屋。和室のはずなのにベッドが置いてあって、勉強机の前にはなぜかキャスター椅子が二つも置いてあるという謎なインテリアになっていた。

 あの美少女との写真なんかが飾ってあったら、それをネタに冷やかしてやろうと急いで部屋中に目を走らせたが、残念ながらそんなものはどこにも見当たらなかった。

「アメリカでの相手の写真とか飾っとけよ」

「なにか言った?」

「いや、別になにも」

 何がおかしいんだか、流斗は笑いをこらえるようにくすくす笑った。


 入り口のすぐそばに本棚があった。そこに立っている本の背表紙はみんな英語だった。

「あ、そのあたりにあるのは図鑑みたいなもんだから。言語に関係なく楽しめるよ」

 そう言うと流斗は本棚から一冊の本を取り出して僕に差し出した。

「これ、貸してやろうか。スケートの入門書。すごくいい本だよ」

 もちろんその表紙には英語が書いてある。

「いらねーよ」

 つっけんどんに答えたところにお婆さんがお茶を持ってきてくれたので、僕は必要以上にへこへこすることになってしまった。流斗は笑いながら湯呑の乗ったお盆をお婆さんから受け取った。運んでこられたお茶は緑茶だった。


「元気そうだな」

 僕はお婆さんの姿が見えなくなるとそう言った。流斗は本当に元気そうで、とても病気で休んでいるようには見えない。

「何してたんだよ」

「何してたと思う?」

「いちいちクイズにすんなよ。鬱陶うっとうしいなー」

 僕が嫌そうにそう言うと、

「勉強だよ」

 と流斗は勉強机の方を指して素直に答えた。

「なんで勉強なんかしてんだよ。っていうか、なんで休んでんだよ? 女子が怪しんでたぞ、体弱いのかって」

 流斗はにこっとすると

「なんで休んだんだと思う?」

 と聞いてきたが、僕が面倒くさそうな顔をしているのを見て笑うのをやめた。

 流斗はキャスター椅子に腰かけると、ぽつりと言った。

「不登校。」

「えっ」

 驚く僕を確認するとすぐに流斗は声を立てて笑った。

「なーんちゃって」

「お前なー。怒るぞ」

「はは。ほんと真面目だねー。面白い奴。よかったらそこ座って。話せば長いことながら」


 僕がベッドに腰かけると、流斗はしゃべり始めた。

「俺はさあ、最初みんなで一緒に神戸に住むものだとばかり思ってたんだよね」

 それは流斗がアメリカから日本に戻ることが決まった時のことらしかった。流斗の父親の転勤先は、ここ京都ではなく神戸だった。

「だけどうちのかえでさんがもう疲れたって言うからさ、だから俺は楓さんの実家であるこの家までついて来たんだ」

「楓さん……?」

「うちの母親」

「ああ……」

 僕は以前車の中で見た物静かな人を思い出した。流斗の家族は身内を「さん付け」で呼ぶのか。いや、確かこの前は呼び捨てだった。変わった家族だ。

「じゃあ、お父さんは遠くまで通ってんだ」

 流斗は首を横に振った。

「親父だけは神戸に住んでるんだ。そこならすぐ近くにリンクがあるってわかってたんだけどね。だけど、楓さんが俺とは絶対に離れたくないって言ってたからさ。だからこっちに来たんだよ。なのに今度は俺の送り迎えに疲れてきたんだって」

 流斗はまるで人ごとのようにさらっと言った。

「アメリカにいた頃は、『言葉がほとんど通じなくても歓迎してくれる場所があるって嬉しいね』って言って喜んでリンクまで連れてってくれてただけにかなり残念だよ。でも疲れてしまったっていうなら、仕方がないけど」

 こんな話をしながらも、流斗は話の間中ずっと笑顔だった。

「さっきの人は? お前のばーさん?」

「そっくりでしょ?」

「えっと……そっくりって言われたいわけ?」

 彼の弁当がどうして彼に不似合いなほど渋いのかがこの日分かった。


「不規則な生活につき合わせるとみんな疲れちゃうみたいだからさ。だから翌朝に練習がある時は、夜の練習に出たあとこっちに帰ってこないで、親父が借りてくれた東京のマンションに泊まるようにしてるんだよ。最近練習増えてるからさ。その方がいいかなって思って」

 流斗は立ち上がると、窓辺に寄って外を見た。

「そうやって朝練に出てから帰ってくると、学校に間に合わなかったりするんだよね。中途半端な時間から行くのもなんか格好悪いしさ。それで休んでるってわけ」

 窓の外に何かを見つけたのか、流斗は下をのぞきこんだ。

「ごめん、そういうわけで家庭教師来た」

「家庭教師!?」

「ま、そゆことで明日は学校行けるから。あ、そうそう。俺はこれまで出られなかった練習にも出られるようになったから、多分今まで以上に上手くなると思うよ。だから追いかけてくるんなら、真剣に追いかけてきた方がいいよ」

「俺は……」

 どう言い返せば流斗に負けずにすむだろうか。たとえスケートで負けているとしても、口でまで負けたくはない。


「俺はお前のことなんて追いかけるつもりはないから。自分なりに目指したいものを目指すだけだから。その過程でたまたまお前を追い抜くことはあるかもしれないけど」

 最後の一言は僕の希望的な話でしかなかった。今のところそれが実現しそうなきざしはまったくない。

 そんな僕の言葉に流斗は笑って言った。

「そう? それは良かった」

 僕はまったく笑えなかった。


 彼の登校の状況は、それからますます乱れていった。



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