それは自覚なく始まった(3)

「アイスダンスをやってみてもらえないかな」

「は?」


「やったこともない奴に馬鹿にされるのは本当に嫌なんだ。でも、やってみた上でやっぱり評価に値しないって言うんだったら、仕方ない、俺も受け入れるよ」

 ずっとすましていた流斗が、初めて真剣な顔をした。

「いやー、でも、ちょっと待って。そりゃ無理でしょ!? だって……」

 僕はただただ困惑した。

 やってみるっていったって、そんなに簡単にできるものなのか!? 第一、誰か女子と組まなくてはならないんだろ。確かにここに女と思ったことのない女子はいますが……。


 果歩がどういう反応を示しているのか、怖くて隣を見ることはできなかった。

 それにもし誰かと組んだところで、ジャンプもしないというのでは何のためにやるのかが理解できない。頼まれてやってみるだけとはいっても、目的もなく女子と一緒に滑るなんてありえない。手をつないだりするのかもしれないけれど、そういうことが恥ずかしいとかいう以前に、滑稽こっけいだとしか思えなかった。あまりにも無意味すぎる。ダンスというからには、氷の上で一生懸命踊るとでもいうのだろうか。その姿を想像してみる。馬鹿っぽい自分の姿が思い浮かぶだけだった。ますます意味が不明だ。


 しばらくの沈黙の後、流斗が吹き出すように笑った。

「うそうそ。冗談冗談」

 その弾けるような笑い声に僕は一気に拍子抜けした。

「なんだよ、それ……」

 そうこぼした僕に、流斗は晴々した声で言った。

「真面目だね~。そんなものやれるかって怒ればいいのに。ま、でも分かったでしょ。ボール受け取って『ちょっと投げてみてよ』って言われるのとは、随分違うって。そんなもんだよ。中学生の男子には引かれるのがフツーなの。分かったのならもういいよ。ってことで、諸々もろもろ、他言無用でお願いします」

 そう言って僕たちの前から流斗が去ろうとした時だった。これまで押し黙っていた果歩が、突然強い口調で流斗を引き止めた。


「ちょっと待って、蒼井君。制覇はアイスダンスやります」

 僕は驚いて隣を見た。流斗に向けられた果歩の目は真剣だった。

「何、勝手なこと言ってんだよ! お前!」

 突然人を巻き込むような発言をしておきながら、果歩はあっさり僕を無視して流斗に語り始めた。


「蒼井君はなんだか矛盾してる。平静を装って、どうでもいいだとか、冗談だとかそんなことばっかり言ってるけど、もし本当にそう思ってるんだったら、そもそも最初から色んなことを口に出すはずがない。蒼井君、あなた何かあきらめてるんじゃない? あきらめきれないものがあるくせに。私もスケートに思い入れがあるから分かるんだけど……」

 果歩はじっと流斗の顔を見た。


 いつもの果歩だ! 僕は思った。口調も、押しも、さっきまでの果歩とは全く別人だった。この時まで一体何が果歩を抑えさせていたのかは分からない。そしてなぜこのタイミングで、いつもの姿に戻ったのかも。でも僕はやっとこの日感じていた違和感から解放された気がした。

 流斗は驚いたような面持ちで果歩のことを見つめた。

 果歩の目にはいつもの輝きが戻っていた。

「でも、あきらめるくらいだったら、このリンクでできることを探せないかな。このリンクでできることだったら、私は何でも協力するよ。私はこのリンクを、世界で一番夢のあるリンクにしたいと思っているから」

 果歩はそう言ってにっこりした。


 世界で一番夢のあるリンクに――それは果歩がよく口にする言葉だった。そういう想いに燃えているから、いつでも強引、熱烈なのだろう。そしてこの日も例によって、流斗の勧誘活動が始まった。なぜだか僕を巻き込んで。


「例えばアイスダンスにしても――」

 そう言うと果歩は突然、そっと僕の手を取った。

「えっ!?」

 お互い手袋を着けていたから直接接したわけではなかったけれども、僕の鼓動は驚きで大きくなった。


 果歩は僕の手を引くと、すっと流斗に近づいた。そして僕の手を流斗の手に乗せた。そのまま僕たちの手を重ね合わせて握らせると「はい」と、にこやかに笑った。

「へ?」

常葉木ときわぎさん、これはどういう……?」

「蒼井君はほんとは制覇にも理解してもらいたいって思ってるよね、アイスダンスのこと。だったら、蒼井君が制覇と滑ってみるといいよ。私が制覇と滑っても、蒼井君が分かって欲しいと思っていることを伝えることはできないから」

「え……えーと」

 流斗は面食らったように言葉を失っていた。緊迫した空気も徐々に薄れ始めていた。僕は話がどうでもいい方向に流れだしたことを悟って、その場を去ることにした。人を食ったような態度をとるからこういうことになるのだ。流斗のことをいい気味だと思った。果歩も元気を取り戻したようで本当に良かった。それにしても相変わらず発想がぶっとんでるなと思う。昔からたまに果歩はそういう時があった。そういう時は、果歩んちのおじさんがITベンチャーなのを思い出して、やっぱそういう家の奴は違うよなあと思ったものだ。やれやれ――――。


 その場から離れようと数歩滑り出した僕に、なぜか流斗がついてきた。さっき果歩に握らされた手がまだそのままつながれている。

「ついて来んなよ」

「何言ってんだよ。いきなり二人きりにされても困るよ」

 流斗が小さな声でそう訴える。

 嘘つけ! そんなキャラじゃねーだろ、お前!

 僕は流斗を振り切ろうと速度を上げた。僕たちは果歩を残して走り出した。取り残された果歩は、僕たちに向かってにこやかに両手を振っている。

「彼女、いつもあんな感じなの?」

 隣からひそひそと話しかけてくる。それが聞きたくてついて来たのか?

「ああ、少し変わってるってこと? ちょっとマイペースなとこあるからね~」

「そこじゃなくて……一生懸命と言うか……」

 流斗の表情にわずかに嬉しそうな気配が見えた。

「誰にでも、あんなだよ。リンクに誘うためならあの手この手。クラスの皆にはウザがられてるくらい」

「なんだ、そうなんだ。びっくりした。俺に気があるのかと思った」

 僕は聞こえないふりをして「手、離してくれる?」と素っ気なく言った。

「あ、ごめん。手を離す習慣がないものだから」

 謝っておきながら流斗は手を離さなかった。僕たちはすでに一周近く走っていた。


「それより、さっきから気になってるんだけど」

 流斗はイライラした口調でそう切り出した。

「君、いつもこんなにのらりくらりとしたエッジに乗ってるの?」

「エッジって?」

「だから……あー、もう、イライラするな~」


 流斗は我慢ならないというような声を上げると、僕の手を一度強く引き寄せた。そして僕が反対の足に踏み替えようとした瞬間。

 ――――――――!

 僕はこれまでに経験したこともないほどの加速を感じた。果歩が遠くで何かを叫んでいるのが聞こえた。それもリンクの雑踏に紛れてすぐに消えて行った。

 たったの数ストロークで、僕はほぼトップスピードに達した。

 ――――――すごい!

 胸が高鳴るのを感じた。


 別に僕はつながれた手で流斗に引っ張られているわけではなかった。もちろん後ろから押されているわけでもなかった。

 僕は明らかに自分の足でいつもよりずっと上手く氷を蹴れている手応えを感じていた。だからこれは僕が自分の力で進んでいるに違いなかった。少なくともそう感じた。でも自分一人で滑っても、このスピードは出せないのは明らかだった。前日までの自分には出せたことのない感覚だった。手をつないだことで何が起こったというのだろう――?


「三歩だよ、三歩。いいエッジに乗っていればたった三歩でこのスピードまで持って行ける。それをだらだら何歩も何歩も……。手をつながれてるだけでストレスが溜まるっ!」

 流斗は厳しい口調でそう言った。

「だったらさっさと手、離せよっ」

「うるさいっ! それよりもっとワンストロークをしっかり乗って!」

「何だよ! ワンストロークって!?」

「右なら右、左なら左っていう一歩一歩をしっかり長く乗れって言ってんの!」


 僕の左側を滑っていた流斗は、自分の左手に僕の左手を持ちかえた。そして空いた右手でこぶしを作ると僕の腰骨の左側に当てた。

「重心が体の真ん中にある時間が長すぎるんだよ! もっとさっさと乗り替えて!!」

 流斗の言葉の意味を理解することはできなかった。ところが腰骨に手を当てられ動きを制限されたことで、僕は自然に流斗の要求に応えることができた。

「あ。なるほど」


 長い距離を進むのに歩数はいらないということが突然分かった。一回蹴っただけで、僕は長く、安定して進めるようになっていた。たった一歩からものすごい推進力が生まれてくることをひしひしと感じた。両足で交互に氷を蹴って進んでいるというより、片足で立ってグッと踏み込むと、その瞬間そのすべての力が進行方向へ進む力に変化して体が飛び出していくような感じだった。


「やればできるじゃん」

 思いがけずほめられた。

「流斗、お前何者? コーチ?」

 僕は驚きの声を漏らした。その言葉に流斗は気を良くしたようだった。

「よし! ではこの際、常葉木ときわぎさんの提案に基づいて、今日は特別に無料体験させてあげよう! 君の場合は、相当これまでにない感覚を味わうことができると思うよ」

 さっきまでの厳しい声とは打って変わって、楽しそうな声だった。僕たちは完全に祭りモードに入っていた。


「次のコーナーからクロス入れて」

 僕はコーナーを見据みすえた。

 男同士で何をばかなことをやっているだとか、そんな考えは微塵みじんも浮かばなかった。むしろジェットコースターの列に並んでいるかのように気持ちが高ぶった。


 手をつないだままクロスの体勢に入ると、流斗との距離がずっと近くなった。すぐ隣だ。こんな間近でクロスを入れて、足がぶつかったりしないのだろうか。下を見ようとすると、すかさず注意された。

「下見ないで。絶対ぶつからないから。それより変な姿勢される方が危ない」

 僕は顔を上げた。さっと視界が開けた。風が頬にあたる。気持ちいい。

 いつもよりずっと上手く滑れている。

「女の子だと初対面でここまで乗ってこないんだけどなあ。男だとやっぱ度胸がちがうのかな」

 流斗が呟いた。

 彼は相変わらず僕の腰に軽く手の甲を当てていた。多分そうやって僕の動きの何かをコントロールしているのだと思われた。そのせいだろう。いつもよりもずっと力強く氷を蹴れている気がした。


 そのうちに、僕は流斗と周期を合わせて氷を蹴っていることに気付いた。昔、ブランコで二人乗りをした時のことを思い出した。最初は息が合わなくて鎖がガチャガチャ音を立てていたのに、一旦息が合うと空までも届きそうなくらい高くげた。あの時と同じ感覚。

 お互いの相乗効果で僕たちはますますスピードを増していた。でもスピードよりも何よりも、これまで感じたこともないような傾きと力――遠心力だろうか?――を感じながら進んでいることが心地良かった。


 これがアイスダンスっていうんだったら、マジですごいよ。


「気持ちいいでしょう?」

 流斗はまるで僕をサイクリングにでも連れ出したかのように得意げにそう言った。



 その時、ふと僕は果歩が追ってきていることに気が付いた。「やめろ」「止まれ」と合図を送られる。ハッとした。確かにやめた方がいい。僕はさっきから自分で制御できない程のスピードを出していた。僕は果歩の警告に焦った。


「流斗。やめよう。それか、もっとスピード落として」

「なんで? どうかした?」

「危ないよ。あんまり飛ばしてちゃ」

 流斗は前を向いたまま、僕の顔も見ずに朗々と答える。

「危なくないよ。ただ滑ってるだけだしね」

「いや、他の客もいるし」

「大丈夫。ぶつからないから」

 なんですぐそう言い切れる。変に自信を持たれても、腹立たしいだけだった。

「あのねー」

 仕方ない。強制的にブレーキをかけてしまおう。


 そう考えた僕の頭に、突然別の考えが浮かんだ。

 そうだ。五時になったらもう一つのリンクに移ろうと言えばいい。流斗は恐らく向こうのリンクに移るメリットを正しく理解していない。僕だって最初からリンクのルールを素直に受け入れたわけではなかったじゃないか。


 僕がダブルジャンプを跳べるようになり始めたのは、一年前のちょうど今頃だった。面白くなった僕は、ここに来るとジャンプの練習ばかりをするようになった。

 それが秋口のことで、その後すぐにリンクは混雑する季節に入ってしまった。だけど僕はリンクの状況が変化していることにはまったく気がつかず、ジャンプを飛び続けた。

 ついにある日、誰かにぶつかったりすると危ないからやめるようにと観月理子に怒られた。

 僕は人にぶつかったりなんかしないと言って反発した。すると観月理子は、実際にはぶつからなくても僕がすぐそばで飛んだりこけたりするのを見るだけで、驚いたりころんだりする人間もいるのだと言った。

 それはそいつの勝手だし、そんなことまで気にしてたら何もできない。僕はそう言ってリンクを去った。しばらくして果歩から観月理子のことを聞いた。


「あのリンクはすそ野を広げるのが役割なんだって」

 と果歩は言った。

「理子先生の夢はスケートを楽しむ人の数を増やすことなんだって。だから、私たちみたいにある程度滑れる人が自分の楽しみを優先させて、他の人を追い出すようなことをしちゃいけないんだって。分かってあげて」

「だから上手くなったら我慢して何にもしちゃいけないって言うんだな。もういいよ、行ってもしょうがないから。面白くないよ」


 僕の返答に果歩はがっかりしていたけれど、僕には観月理子の考えを受け入れることはできなかった。

 そんなことがあっても果歩は僕をリンクへ誘い続けた。僕は誘いに応じることはできなかった。

 しばらくして冬も終わりかけた頃、フィギュアだのスピードだのにリンクが割り当てられることになったと聞いた。決まった時間帯でなら、ジャンプやスピンをしてもいいというのだ。果歩からその話を聞いて、僕はまたリンクに顔を出すようになった。


 そんなやり取りを通して、僕はリンクのルールを受け入れるようになった。


 流斗には滑るのを止めようと言うのではなく、向こうのリンクならもっと自由がきくという説明をしよう。そうすれば果歩も喜ぶ。

 そう思って流斗にその事を告げようと思うのに、僕はどうしても口を開くことが出来なかった。

 向こうに移ったとして、一体どうするんだろう。

 そんな疑問がよぎる。

 また一緒に滑ろうと言って組むのだろうか。僕が? まさか。あらためてそんなことをするなんて、どうかしてる。じゃあ、向こうに移ったとして……。

 それでどうする……?

 何かが引っかかってならなかった。


 ――――――何だろう。この、もやもやとした感情は。


「なーんてね。心配ならやめようか」

「え?」

「真面目だね。いいよ。まあここで何か起こしても、アイスダンスがますます肩身狭くなるだけだしね」

 流斗の手が僕から離れた。

 良かった――

 と、ほっとする暇もなく、隣のリンクから拡声器で大きな叫び声がした。

「こらー! そこの少年二人、止まりなさい!」

 観月理子だった。

「あはは。怒られちゃった」

 流斗は、とても怒られている人間とは思えない愉快そうな笑い声をあげた。

「面白かったね。じゃ、俺、長居したくないんで適当に滑って気がすんだら帰るから」

 急速に速度を落とす僕の元から、鳥が飛び立つかのように流斗は揚々ようようと離れて行った。

 勝手に気がすむまで滑って帰れ……。

 そんな気持ちで見送る僕を、ふっと果歩が追い抜いた。追い抜きざまに僕を叱責しっせきした。

「あんたたち、どんだけ大暴走してんのよ! もう!」


「制覇くん! お友達を止めましょう!」

 隣のリンクからこちらへゆったり移動してくる観月理子が、拡声器で僕に話しかけてきた。

「大音量で名指しかよ! 最低だな!」

 そう叫んでにらんでも、観月理子は聞こえているのかいないのか、拡声器を振り回して流斗を追えというようなしぐさをするばかりだった。

 だけどこれだけ離れてしまっては、追いつくわけがなかった。しかももともとのレベルだって違うのに。

 それでも僕はグッと氷を強く蹴ってみた。さっき感じた加速を再現できることを願った。

 強く踏み込んだあとにさっき感じたのは、そこから遠く遠くに伸びていくような感覚……。

 僕は体に残った記憶を呼び戻そうとした。

 まるっきり納得いかなかった。絶望的に下手だと思った。

 僕はこれまで自分のことをそこまで下手だと思ったことはなかった。というよりは、むしろ上手い方だと内心思っていた。僕は少し先を走る果歩の方へ目をやった。果歩はどうなんだろうか。どの程度上手いんだろうか。果歩もそれなりに上手いけど、僕は自分とそれほど差があるようには思っていなかった。人混みに出たり消えたりする果歩の後ろ姿をそっと目で追う。

 果歩にだって、流斗には追いつけるわけがない。僕にだって追いつけないんだ、果歩になんか、追いつけるわけがない――!


 そうだ。流斗は僕たちとは違う。あいつは、桁違いに上手いのだ。

 一緒に滑ってみてよく分かった。

 どうしてあの感覚を、流斗と対等に自分で作り出せているような、そんな錯覚さっかくに陥ったのだろう。

 流斗がいなければ、あの感覚は作り出せない。

 流斗と組むからあの爽快感を味わうことができるのだ。

 流斗と組むから――。

 鼓動が速くなった。胸のあたりが異常に熱い。

 それは、これまでに感じたこともないような心地悪さだった。


 観月理子がこちらのリンクに到着した時にはすでに、流斗は帰った後だった。

 僕に告げた通り流斗はあっという間に数周まわって、僕と果歩に接触せずにすむゲートからさっさと出て行った。

 僕と果歩は観月理子に召集された。

 リンクには整氷車が走りだした。


「さてさて、君たちは何を興奮していたのかな」

 リンクサイドで、観月理子が腕組みをしながら僕たちの顔をうかがった。

「別に興奮していたわけじゃないですけどね」

 無愛想に答えた。僕はいつも観月理子に対しては大体そんな態度だった。だけどそれ以上に、原因不明のいらつきを抑えることができなかった。

「転校生なんですよ! 理子先生! 見ました? さっきの子! 滑ってるところ!」

 果歩は流斗を精一杯フォローしようとしていた。僕は二人の方から視線を外して、ただ氷の上を走る整氷車を眺めた。

「あの子、どこへ行ったの?」

 観月理子の声は落ち着いていた。別に僕たちをとがめようと思っているわけではなさそうだった。

「もう帰ったよ」

 突き放すような返事をした。

「そう。残念。じゃ、今度来たら先に私のところに連れてきてくれる? 氷に乗られてからじゃ、手に負えそうにないから」


 今度来たら……という言葉を聞いた途端、また鼓動こどうが速くなった。そこから先、二人が何を言っているのかまったく耳に入らなかった。立ち尽くす僕のまわりを、ただ整氷車の走る音だけが単調に行き来していた。

 胸の中がざわつく。

 理由が分からなかった。なぜ自分がそんなに落ち着かないのか、自分のことなのに、理由が分からなかった。

 ただ、一つだけ認識できた気持ちがあった。



 負けたくない!



 こんなにも強く、そんな気持ちを抱いたのは初めてだった。

 かつて一番悔しい思いをしたのは、六年生の時だ。学校対抗の駅伝の選手を目指して早朝と夕方に一年近くも練習をした。それなのに僕は正式なメンバーに入れなかった。あの時はすごく悔しくて悲しかったけれど、だけどあの時ですらこんなにも追いつめられるような気持ちにはならなかった。

 スケートなんてあの時の頑張りに比べたら全然で、ただの遊びとしてやってきただけなのに。いつも果歩に挑発されて、そうなると挑戦せずにはいられなかったけど、当然こんな気持ちになることなんてなかった。なる必然性だって、全然ない。

 僕は自分の手を固く握りしめていた。


 時計が五時を告げた。

 うなるように響いていた整氷車の音が消え、鏡のように整えられた氷が目の前に広がった。とび出すような勢いで一人二人と滑り始めた。

 いつもならいち早く参戦するところなのに、僕は全く動けずにいた。果歩と観月理子のやり取りが、僕の耳の外を通過した。


「彼を連れて来たらどうするんですか?」

「そうだな……。なんかカッコ良かったし、お兄さんがいるかでも聞いてみよっかな。彼氏募集中でーす、ってことで」

「それだけですか、先生? それだけじゃないですよね? あの子はジャンプも跳んでないし、悪いことは何にもしてない。それなのに先生はあんなに上手い子のことも、抑えつけようとしてるんじゃないんですか?」


 果歩はその言葉を、どんな表情で、どんな声色で発したのだろう。

 観月理子の言うことには何でもYESなのだと思っていた果歩が見せた珍しい光景。その光景も僕の目には、ただの景色としか映っていなかった。


 身体中を熱い血がめぐっている。その時の僕に感じることができたのは、ただその感覚だけだった。

 果歩はこの日、なぜ様子がおかしかったのか。果歩は一体何を抱えて前に進んでいるのか。僕には気づく余裕もなかった。


 こうして僕たちのファーストステップは始まった。


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