優美なる箱庭
皇こう
第1話
久代 葵の欲しいものというのは、いつだって発想に富んでいた。幼稚舎の頃初めて自分で欲しがったのは、図鑑で見たサーバルキャットという肉食動物。まるで犬でも飼うかのように購入した。
初等部に上がると今度は天体に興味を持ち始め、小惑星に名前をつけたいと言った。それこそペットに名前をつけるかの如く、葵には容易いことなのだ。
高等部、大学、大学院と知的欲求はエスカレートし、その度に周りの大人たちは四苦八苦したのである。しかしそれが叶うのも全て、久代財閥の御曹司であるが故の特権なのだ。
ところが当の本人には無茶を言っている自覚はなく、ただ純粋に好奇心旺盛なだけなのである。
「三倉、ちょっと来て」
陶器のような肌に色素の薄い栗色の髪、緑味がかった瞳はまるで宝石のようだ。蝶よ華よと育てられた温室育ちの御曹司は、今年で26歳になっていた。
「はい、何かご用でしょうか?葵様」
「今日は午後から絵画を見て回りたい。画廊のオーナーに連絡しておいてくれ」
「かしこまりました。昼食をおとりになったら車を廻させましょう」
「うん」
葵の毎日はいつも単調であった。少し遅めに起きた後、部屋で数冊の新聞を読み耽る。昼食をとった後その日の気分でぶらりと出かけ、夕食時には帰宅。夜は晩餐やパーティに出かけて深夜に帰宅するのだ。
この様な上流階級な暮らしぶりでも、決して驕らず素直に真っ直ぐと育ったのが奇跡と言える。バトラーである三倉も、屋敷で働く使用人たちも皆、いつまでも純真な葵のことが好きだった。
「葵様、お車の準備が整いました」
「ねぇ、このネイビーのジャケットとモスグリーンのジャケットだとどっちが似合うかな?」
「そうですね。どちらもよくお似合いですが昨日のお召し物が青色でしたので、モスグリーンにしてはいかがでしょう」
「ではそうする」
三倉もバトラーにしては若い齢であるが、よく出来た執事であった。葵の父の秘書だったところを、手腕を見込まれ、葵専用のバトラーに転身したのだ。初めは不服なところもあった三倉だったが、葵の純粋な人となりに今となっては全霊を注いでいる。
葵には誰しもを夢中にさせてしまう、そういった魅力があった。
「画廊のオーナーには連絡しておきました。なんでも本日はアートディーラーが来るとのことです。もしかしたらお気に召すものがあるかもしれませんね」
「そうか、それは楽しみだな」
絵画は葵が大学院の頃に覚えた趣味だった。学院時代の友人と美術館巡りをするうちに興味が沸き、今では屋敷の至る所に葵好みの絵画が飾られている。元々飽き性である葵が長年興味を持っているのは、絵画位かもしれない。
画廊に到着するなり、オーナー自らが柔かな笑みを浮かべて2人を出迎えた。
「これはこれは、久代様。いつもご贔屓にしていただきありがとうございます」
「うん。今日はホールに飾る絵が欲しくて出向いたんだ」
「それでしたらぴったりのものがございます。どうぞこちらへ」
VIPのみが通される応接室へと案内されると、オーナーは何枚かの絵を紹介した。
「こちらなど久代様のご趣味にあうと思うのですが」
一通り見て回るも、葵は1度も首を縦に振らない。折角上客が来ているのに気に入るものを出せない焦りから、オーナーの額には汗が滲んだ。
「もう少し躍動感のある絵がいいんだが」
「あぁ、そうだ!調度今アートディーラーが来ておりますので、彼の持ってきている物もご覧になりますか?」
「うん、ではお願いしよう」
「少々お待ちください」
オーナーがいそいそと下がると、三倉の胸ポケットから電子音が響いた。携帯電話を取り出すなり、三倉は小さく会釈する。
「葵様、私も少し外しますのでごゆっくりご覧になっていて下さい」
「わかった」
しんっと静まり返った部屋で、葵は待てをされた犬の様に大人しく座っていた。しばらくするとガチャガチャと音を立てて、男が何枚かの絵画を持って入ってきた。
「よいしょっと、ふぅ。お待たせしました。アートディーラーをしている千家って言います」
そう言い手を差し出した男は、アートディーラーというよりも外で体力仕事をしていそうな色黒の無骨な男であった。線の細い葵とは対極的ながっしりとした体に、無理やり着させられたであろうスーツが全く似合っていない。
「久代 葵だ。オーナーが良い絵があると言っていたんだが」
「あぁ、西條さんからあんたの趣味は聞きました。今日持ってきてる絵で気に入りそうなのはこの3枚くらいなんですが、まぁ気に入らないならそれはそれで構わないです」
千家が壁に3枚の絵画を飾ると、葵は立ち上がり絵画の側に寄った。先程までとは違い、好奇心の瞳で絵画を見つめる。
「これはシャガールか?」
「はい。躍動感のあるやつって言われたんですけど、趣向を聞いたら静物の方がお好みだと思ったんで。あとこっちはセザンヌです」
「…よく僕の趣味が分かったな」
「今まで購入されたものを聞いたら、まぁ大体は」
葵はしばらく絵画を眺めた後、とても良い笑顔で微笑んだ。
「3つとも貰おう。こんな素敵な作品に出会えるなんて、今日はなんて素敵な日なんだ」
それがあまりに純真な笑みだったので、千家はあっけにとられた。彼の中で金持ちというのはもっと貪欲で汚いものだと思っていたからだ。
仕事柄人を人とも思わず、馬鹿にした様な態度を取られることなどざらにある。しかし葵の純真な瞳に、千家の中の常識は打ち砕かれた。
「あ、ありがとうございます」
「千家と言ったね。また良いものがあったら屋敷に持ってきてくれる?」
「え……っ、あ…はい。わかりました」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、千家は一瞬言い淀んだ。しかし高額なものをポンッと買ってくれる客の頼みを断れるはずもない。
これが葵と千家の出会いであった。
それから2ヶ月程経ったが、特に千家からの音沙汰はなかった。中々訪ねてこない彼に痺れを切らし、葵は画廊オーナーに連絡した。それが1週間前の出来事である。
「まさか本当に来るはめになるとは思わなかったな」
見渡す限りの英国式庭園と王宮のようなお屋敷を前に、千家は深く溜息をついた。金持ちだろうことは想像出来たが、まさかここまでだとは思わなかった。
千家は葵に絵画を売ってから直ぐに、買い付けのためにヨーロッパへ飛んだ。買い付けのために世界中を飛び回る彼にとって、突然日本からいなくなることなど日常茶飯事だった。
散々悠々自適な買い付けをした後帰国すると、真っ先に画廊のオーナーが泣きついてきた。そして久代様の屋敷に行ってくれと懇願するのだ。仕方ないと渋々屋敷の門を叩き、現在に至る。
屋敷に入ると数名の使用人に丁重なもてなしをされ、まず応接室へと案内された。応接室には複数の絵画が飾られており、主人の趣味を伺うことができる。無意識に値踏みをしてしまうのも職業柄だ。
「へー…流石いい絵ばっかだな」
どれもこれも相当な値がつく超一流品ばかり。美術館でもなかなかお目にかかれないレアな品だ。
「コレクターが泣いて喜ぶな」
「それは褒め言葉ととっていいのか?」
「おぅわっ!びっくりした…っ!」
いつの間に来たのか、葵が千家のすぐ後ろに立っていた。千家は一歩下がると腰を曲げる。
「すいません、さっきのはその…独り言で」
「別に構わないよ。あと、もっとフランクに話してくれないか?年が近いであろう君に敬語は使われたくない。それより…何故連絡して来なかった?」
葵の表情は明らかに不機嫌そうだった。彼が感情を表に出すのは珍しいことだ。子供の様に唇を尖らせ少し俯く。その仕草が予想していたものと大きく反していたので、千家は堪らず頭を掻いた。
「あー、ちょっと海外に買い付けしに行ってたんだよ。別にあんたを避けていた訳じゃない」
「本当か?今日呼んだことも迷惑だと思ってるんじゃないのか?」
「そんなこと思ってないさ。それに、あんたが気に入りそうな絵も買い付けてきたんだ。見るか?」
先程の不機嫌はどこへやら。その言葉に葵は目を輝かせ、こくんっと首を縦に振った。絵画への期待もそうだが、葵は千家と会えることを心待ちにしていた。そして千家が会えない間も、自分のことを思い出してくれたことが嬉しかったのだ。
「海外は、楽しかったか?」
「あぁ、元々一人旅は好きなんだ。なんにも知らない自分がいかに小さいかを実感出来る」
葵は千家と出会ってから、彼のことを考えない日はなかった。焼けた肌も、漆黒の瞳も骨張った手も。全てが葵の脳裏に焼きつき胸を焦がす。葵にはそれがなんなのか分からなかった。
「これだ。あんたの雰囲気にぴったりだと思ったんだが」
それは水面に浮かぶ睡蓮と美しい水鳥の絵だった。優しい色使いと色のコントラストに、葵は思わず息を飲む。
「…いい絵だな」
「そうだろ?この絵を見た瞬間、あんたの顔が浮かんだんだ」
千家の優しい眼差しに葵の鼓動はどきりと高鳴った。今まで過保護に、大切に、箱の中にしまわれて生きてきた葵にとって、こんな感情は初めて経験するものだった。自分とは全く異なる自由の翼を持つ男。
千家の姿は葵の瞳にとても眩しく映った。
「千家…っ、あの…っ!」
「ん?どうした?」
「僕は、君が欲しいっ」
突然の告白に、千家はシャツの袖を掴まれたまま暫し固まった。宣言した彼はというと、いたく真剣な眼差しで彼を見つめている。
「あー…えーっと、専属のアートディーラーにしたいとかいう話か?だったら俺はフリーの方が性に合ってるから断らせて…」
「違うっ!僕は君自身が欲しいと言っているんだ」
若干苛立ったその返答に、益々千家の表情は曇った。ゆっくり葵の手を引き離すと、両肩を掴み真面目な表情で彼の目を見据える。
「悪いが、俺は金持ちに囲われる趣味はない。あと、そんな色気のない言い方じゃ落ちるもんも落ちねぇよ」
「ぼ、僕は別に君を囲いたい訳じゃない!ただ…千家にはいつも僕のことを考えて欲しいんだ。それと、出来れば側にいて欲しいと思っただけで…」
これには流石の千家も呆気にとられた。まるで色恋沙汰など何も知らない子供だ。しかし今まで欲しいものならなんでも手に入ってきた葵にとって自らの手で是が非にも、ともがいたものなどなかった。
そのせいで、欲しいものをどうやったら手に入れられるかの過程が分からないのだ。
「はぁ……言いたいことは分かった。その、あんたはゲイなのか?」
「わからない。誰か特定の人物を性的対象としてみたことはない」
「そうか…それは、厄介なことだな」
道理で純真そうな訳だ。千家は妙に納得してしまった。そして大きく溜息を吐くと、睡蓮の絵を残し他の絵画を箱に蔵い始めた。身支度を整える千家の姿に、葵は慌てて手を引く。
「か、帰るのかっ?!」
「はは、帰んねぇよ。この馬鹿でかい屋敷には勿論あんたの部屋もあるんだろう?だったら茶でも飲みながら互いのことを知るっていう順序も必要なんじゃないか?」
何も知らない御曹司は、まるで晴天の霹靂かのような驚きの表情を見せた。しかしすぐに顔を緩め、嬉しそうに微笑んだ。
「あぁ、とびきりの茶でもてなそう」
千家 祐一は大学時代、バックパッカーで各国を旅していた。その時知り合ったアートディーラーのブライアンに影響を受け、今の仕事に至っている。元々束縛や拘束されることを嫌い、自由でありたいと常々思っていた。狭い日本で更に狭いゲイという性癖の中で埋もれたくなかった。しかしそれはただ本来の自分から逃げていただけなのかもしれない。
「それで?なんか聞きたいことはないのか?」
もてなされた紅茶は確かに今まで彼が飲んだことのあるものとは比べ物にならない位、気品高い味と香りがした。20畳程ある葵のプライベートルームは、並べられた調度品の数々が、そのセンスの良さを物語っている。
「では、千家の下の名前を教えて欲しい」
「祐一。千家 祐一だ」
「祐一…。では祐一と呼んでもいいか?」
「別に構わないよ。それにしても…はは、あんたの趣味は分かりやすいな」
千家は飾られた絵画の前に佇むと、楽しそうに笑った。その笑みに葵の胸の奥がどきりと高鳴る。
「あんたじゃない。葵だ」
「あぁ、悪かったよ葵さん。俺もこういう精悍な絵は好きだ。それに葵さんの家にあるような絵画は海外でも中々出会えない。今日ここに来れたのがラッキーだと思うよ」
「好きなだけ見ていって構わない。この部屋にある絵画はコレクションの中でも特に気に入っているものばかりだ」
葵はそう言いながら千家の隣に立つと、頭1つ分大きな彼の顔を見上げた。
「僕は、欲しいものはどうしても手に入れたくなる性分なんだ。絵画も、祐一も」
「そうか。そう言われると意地でも突っ撥ねたくなるな」
少しの沈黙の後、2人の距離は少しづつ縮まると、そっと唇が重なった。葵の腕がするりと千家の首に回され、千家は葵の細腰を抱き寄せる。まるで磁石のように、2人は引き寄せられた。
「…祐一、どうしたら僕のものになってくれる?」
「そうだな、気が向いたらということにしておくよ」
「酷い男だな」
「嫌ならやめればいい」
2人は抱き合い、再びキスをした。例え千家にとってそれが挨拶程度のものでも、葵の胸は幸福で満たされていく。その男らしい腕が自分の髪を梳くだけで、今まで感じたことのない感情を覚える。
ゆっくりと唇が離れると、葵は千家の胸に頭を預けた。
「…誰にでも、こういうことをするのか?」
「まさか。そこまで軽薄な男じゃない。それにどこかの御曹司程モテはしないんでね」
「そういう言い方は好きじゃない」
直ぐに臍を曲げる様に、千家はまるで子供のようだと思った。しかしその子供のような純真さに惹かれているのも事実で。見下ろした際に憂う長い睫毛も、口づけで濡れた小さな唇も、今の千家を煽るには十分過ぎる材料だった。
「そろそろ帰る」
「もう帰るのか?」
「そんな顔をするな。会いたいのならまたあんたから誘えばいい」
「誘ったら来てくれるのか?」
「そうだな。精々俺が来たくなるように色っぽく誘ってくれ」
そう軽く笑うと、葵は顔を赤らめた。とことん色恋沙汰には不慣れな姿に、千家は軽く触れるだけのキスをする。
「いいね、グッとくる」
何か言いたげな葵を置いて、千家は部屋を後にした。
その日の夜。千家は久しぶりにゲイの集まるバーに顔を出していた。カウンターに座ると顔馴染みのマスターがおしぼりを手渡す。
「千ちゃん久しぶりじゃない!元気だった?」
「あぁ、また海外に飛んでたんだ。これ土産」
「あら嬉しいっ!いつもありがとね」
外観は髭を蓄えたナイスミドルも、口を開けばオネェ言葉の飛び出す陽気なマスターだ。お土産の美容パックを受け取ると、代わりにジンライムをカウンターに置いた。
「なんか嬉しそうな顔してるけど。いい子でも出来たの?」
「そんなんじゃないさ。ただ久しぶりに興味が湧くクライアントに出会ってね」
「あら、あの超絶ドライな千ちゃんが珍しっ!なになに、その子可愛いの?」
「まぁね」
カラカラとグラスの氷をかき回すと昼間の出来事を思い出し、千家の頬は緩んだ。その表情にマスターは心底驚いた顔を見せる。長年付き合っているが千家のこんな顔など見たことない。驚き半分、そんな顔が出来るようになったことを少し安心した。
「へぇ…でもあんまり虐めると逃げちゃうわよ」
「善処するよ」
「あらあら…素直になっちゃって。明日は雪でも降るのかしらね」
そう言い窓の外を眺めると、千家はいつものように豪快に笑うのだった。
葵の千家への恋心は、直ぐに秘書である三倉の知るところとなった。というのも葵が引っ切り無しに千家を自宅へ招くので、無視出来ざるを得なくなったのだ。
元々ぼーっとしていた葵だったが、千家と出会ってからそれが酷くなった。更には葵の周りを色のついたフェロモンが始終垂れ流されるようになったのだ。
「葵様、本日の夜の晩餐会ですが」
「あぁ、今泉夫人主催の晩餐会だろう。わかっている」
「はい、そこで今泉夫妻の長女である凪子様がお近づきになりたいと申しております」
「…興味はない」
こんなものは三倉にとって想定内の反応だ。
三倉が葵に使えるようになってからの5年間、この御曹司には一度も浮いた話はなかった。葵の両親は一人息子に自由にのびのびと育って欲しいと、一切そういった干渉を向けない。
三倉が気を利かせて容姿端麗な娘を紹介しても、彼は一切の興味を示さなかった。もしかしたら女に興味がないのでは、と思ったこともあったが、そこは目を瞑っていた。
なにしろ普段からマイペースでぼんやりとした御曹司である。ただ性に疎いだけかもしれないと大らかに構えていたのだ。
「葵様、銀行の頭取である今泉様はあまり無下には出来ません。夫人はお嬢様と葵様が仲良くして下さればと思っているように存じます」
しかしあの画廊に行ったあの日から、葵の様子は明らかに変わった。アートディーラーの千家に向ける眼差しが熱を帯び、彼を呼ぶ声に色が付いている。それは誰が見ても一目瞭然だった。
「三倉、僕はそういうのが嫌いだとわかっているだろう」
「…申し訳ございません」
「もうすぐ祐一が来る。席を外せ」
「かしこまりました」
誰よりも近くにいるバトラーだからこそ分かっていた。葵は千家に恋をしている。ただそれに気が付きたくなかっただけなのだ。それと同時に自分の中にあった秘めたる感情にも目を向けざるを得なかった。
しかし三倉は優秀なバトラーである。玄関のチャイムが鳴らされると朗らかな笑みを浮かべ、主人の大事な客人をもてなすのだ。
「これは、千家様。いつもご足労頂きありがとうございます」
「どうも。葵さんは部屋にいる?」
「はい、千家様の来訪を心待ちにしておられます。どうぞごゆっくりおくつろぎください」
「ありがとう」
それが例え一介の画商であっても。主人の部屋に向かうその足を止めることなど出来ないのだ。
「祐一っ」
千家が部屋に入るなり、本当に待ちわびていた様に葵が胸の中に飛び込んだ。千家はそれを抱きとめ、よしよしと頭を撫でる。
「こんにちは。はは、犬みたいだな」
「2週間振りだ。このぐらい許して欲しい」
2人は短い時では1日おき、長くて1ヶ月空くというスパンで会っていた。決まって会うのは千家の都合がつく時のみ。葵が誘ったからといって必ず会える訳ではなかった。
「仕事が立て込んでいたんだ。働かなきゃ飯も食えない」
「それはわかっている。祐一は忙しい…でも、僕は会いたかった」
「あぁ、俺も会いたいから来たんだ」
千家のたった一言で、葵は一喜一憂してしまう。2人の間に明確な名前などないのに、それでも葵は期待せずにはいられない。
葵の中で千家の存在は日を増して大きくなっていく。それと同時に、ゆっくりと呼吸するように2人の距離は縮まっていった。
「ベッド行くか?」
「…いや、まだ話していたい。セックスしてしまうといつの間にか朝になってしまうから」
「そうか」
いつからか2人は身体の関係をもつようになった。初めはごく自然な流れで、葵もそれを拒まなかった。しかしいくら身体を重ねても、千家が久代邸に泊まることはない。葵はいつも朝方1人、広いベッドの中で目を覚ますのだ。
「祐一、君は何故ここに泊まらないんだ?」
「俺には仕事があるからな。こんなところで寝ちまったら朝起きれる気がしない」
「それでも朝祐一が隣にいないのは…寂しい」
見るならにしゅんっと肩を落とす葵が可愛くて、千家はよしよしと頭を撫でる。
「俺の何がそんなに気に入ったのかねぇ、このお坊ちゃんは。とりわけ何かに秀でているつもりはないんだが」
「その呼び方はするな。それに好きになるのに一々理由がいるのか?」
「はいはい、そうですね。あんまり可愛いこと言ってくれるなよ」
千家もとうに気づいていた。この可愛らしく純真な御曹司に惹かれていることを。一度共に夜を明かせば、離れがたくなってしまうことを。
いつか離れなければならないのなら、傷は浅い方がいいに決まっている。それは千家が今までの人生で学んだ護身術だ。
不貞腐れてしまった葵の機嫌をとるように、千家は葵を自身の膝の上に座らせた。
「今度一緒に外に出かけよう。どこにでも…とまではいかないが、葵さんの行きたいところに連れて行ってやる」
「本当か?祐一と外に行くのは初めてだ。嬉しい」
目を細め微笑む姿に、千家は若干罪悪感を覚える。とりわけ優しくしている訳でも、甘やかしてやる訳でもない。それでも自分に向けられる好意は千家の胸に刺さるものがあった。
「あんたは本当に可愛いな」
「祐一?どうしたんだ、急に」
嬉しげな葵の頭に手を回すと、千家はグッと引き寄せキスをした。臆病な大人のお遊びだと割り切っていた筈なのに、いつの間にかズブズブと深い沼にハマってしまっている。千家の中で葵の存在も、日を増すごとに大きくなっていったのであった。
優美なる箱庭 皇こう @koh_suneragi
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