≒ネバーランド
藍澤李色
第1話 天国に一番遠い街
この世界は天国に遠すぎる。
あまりにも遠くて、遠くて、届かなさそうに見えるから、かえって焦がれてしまうのかもしれない。
「俺、そろそろ『天国』へ行こうと思うんだ」
だから彼からその言葉を聞いた時もさして不思議には感じなかった。
自分にも、確かに少しくらいはその場所に対する憧憬じみた感情があったからだ。
終わらない、終わる理由もないあまりにも長い人生は、時に怠惰なルーチンワークに成り果ててしまう。
「お前、それ、カノジョに言ったのかよ」
あえて意地の悪い質問をしてしまったのは、もちろん引き止めたい気持ちがあったからだ。不思議には感じなかった、というだけで、納得したわけではなかったから。
「言ったさ」
意外にもあっさりと彼はそう答えて。
「好きにしろボンクラ、って言ってたぜ」
「殴られただろ」
「ああ、殴られた」
苦笑交じりに頬を指差された。そういえば午前は姿が見えなかったと思ったが、もしかすると殴られて怪我をした部分を交換しに行ったのかもしれない。
(……これから『天国』に行くのに?)
身辺整理の一環なのか、単に最後に格好悪い所を見せたくなかっただけか。
それでも、彼は行くらしい。
行ったらもう戻ることはない『天国』とやらへ。
「……『天国』はそんなにいいところなのか?」
そこがよくわからない。ほんの少し前まで、彼は『天国』に行くなんて馬鹿げたことだと言っていた。それなのに、どうして。
「さぁ。……でも、いつかお前にもわかる時がくるかもしれない。行きたい、じゃなくて行かなければならない時が、ある日突然来るんだよ」
「なんだそりゃ」
「わかってしまった時は、俺が『天国』で出迎えてやるよ」
「そうか。百万年後に会おう」
「来る気はなさそうだな」
ははは、と乾いた声で笑うと、彼はまるで明日も会うみたいな仕草で片手をあげて踵を返した。
「良い旅を」
背中を向けた彼は、もう振り返りもせずに、ただひらひらと片手を振った。
背を向けられていても、彼が今どんな表情をしているのかは容易に想像がつく。なぜなら、彼は自分と全く同じ顔をしているからだ。
兄弟ではない。血縁などという概念はすでに存在しない。
彼は同じ型の身体を持った『ヒト』だったから、必然的に同じ顔になっただけだ。中身は結構違った。別の個体だから当然か。
彼も自分も、このご時世では珍しくほとんど外見のカスタマイズをしていなかったから、本当にそっくり同じ顔だった。違ったのは髪と瞳の色くらいのものだ。
「アオ! ねぇ、さっきのってギンじゃない?」
すぐそばの建物の窓から、女の子の声が聞こえてくる。
アオ。自分の名を読んだ彼女は、二階の窓から顔を突き出していた。派手なコーラルピンクの髪が眩しい。
「そうだけど……どうかした? サンゴ」
「どうして引き止めなかったの! ギン、『天国』に行くって言ってたのよ!?」
髪を振り乱しながら叫ぶ彼女に、少しだけ困ったように笑って見せた。
「あー、そうみたいだな」
「他人事みたいに言わないで!」
彼女、サンゴはバタン、と大きな音を立てて窓を閉める。ほどなくしてバタバタと足音が聞こえてきて、やがて彼女はこの庭まで飛び出してきた。
「どうするの!? 戻ってこないんだよ!? 今ならまだ止められるかもしれないでしょ!?」
もう一度、確かめるようにそう叫ぶ。立ち尽くしたまま動かない自分のシャツを、もどかしそうにぐいぐいと引っ張りながら。
「そんなことを言われたって、本人が決めたことだ、仕方がない。それに、ヒスイ姉さんが引き止めなかったのに俺が止めるわけにもいかない」
「えっ、止めなかったの?」
シャツを引く、サンゴの手が離れて。
「殴りはしたらしいけど」
「ああ、うん、ヒスイ姉さんならそりゃ殴るよね」
彼女は長い鮮やかなピンクの髪をくしゃくしゃと指でかき混ぜながら、その場にへなへなと座り込む。
「……ねぇ、アオ、私達『ヒト』はその気になれば永遠に近い時を生きられるのに、どうしてギンは『天国』に行っちゃったのかなぁ」
「それは哲学的命題だな」
わかる日がくるかもしれないと、彼――ギンは言ったけれど。
わかってほしいとは、思っていないようにも見えた。
何せこの世界は『天国』から遠すぎる。
人が血と肉と骨でできていたのは遠い昔の話だ。今の『ヒト』は回路と歯車とジェルパックとスプリングできる今となっては、脳みそすら必要ない。『死』は驚くほど縁遠いものだった。
どれだけ身体が傷ついても、回路さえ無事なら部品交換で何とかなる。多少の傷や不調は修復用のナノマシンが対処してくれる。死ぬことがあるとしたら、データの移し替えが間に合わないほどに、回路が物理的な損害を受けた時くらいなのだ。
今の『ヒト』は半永久的な存在である。
アオとギンがそうであったように、たまに自分と全く同じ姿かたちの『ヒト』に出会うのが困りものなのだが、やはりアオとギンがそうであったように、髪の毛を別の色に植え替えたり、瞳のカラーを交換したりで外見は簡単に変えられる。アオはその名の通り青い髪。ギンは紫銀の髪。お互い見た目で適当につけたのが良く分かる名前だ。
どうしても他人と同じ顔が嫌になったら、顔パーツをオーダーメイドすればいい。『ヒト』は自由だ。外見ひとつも交換でOK。アオのように延々と同じ姿にこだわっている方が珍しい。
そうやって何百年も部品を入れ替えながら生きる。滅多な事では死なない。
滅多な事では、死ねない。
だから時々――ギンのように『天国』に向かう『ヒト』がいる。
永く終わりの見えない人生に疲れた時、ふと虚しさに心が翳った時。『ヒト』は『天国』の門を叩く。
誰もいない場所に行って一人、全ての機能を停止し、初期化する。そうすることで、人生が終わる。『ヒト』はただの死体になる。
つまり、『天国に行く』とは自殺するということだ。
「何故『天国』に行くのか、かぁ」
それはとても哲学的で、寂しくて、不安で、恐ろしくて――どこか憧憬を感じずにはいられない、命題。
「きっと『天国』っていうのは素晴らしいところなんだな」
適当なことを呟くと、サンゴは「嘘ばっかり」と頬をふくらませて見せる。
この世界は『天国』に遠すぎて。あまりに、遠くて。
だからアオは忘れていた。
アオだけではなく、他の誰もが忘れていた。
ヒトは何故『ヒト』になったのかを。
――『天国』が本当はどこにあったのかを。
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