不知火先輩は虚無

澁谷晴

第一話 不知火先輩の出現

 六月、限界まで密集した巨大都市〈幻京げんきょう〉は既に真夏の暑さに包まれていた。建造物群は青い空を貫いて、線路や高架や歩道橋は縦横に空間を埋め尽くし、むやみやたらと存在を主張する、実在するかどうかも分からない企業、商品、個人の看板があちらこちらに立ち並ぶ。人々は携帯端末に釘付けになり、猫の静止画や猫の動画、犬の静止画や犬の動画、なんだか触手がたくさん生えている、謎の魚類? みたいな生物の静止画や動画などを見て、合間にサブリミナルで仕込まれた宣伝やプロパガンダを刷り込まれ、特定の商品を買ったり、特定の人物を応援したり、自分でも宣伝したりしていた――「ああ、そのマショマロ、うまいよ。ヒートアイランド現象を利用してドロドロになるように作られてるんだ。いいよ。何か知らないけどいいよ。すぐ飽きるけどいいよ。魚っぽい何かの肉が入ってていいよ。三個入りで九三円(税別)」

 人口密度は依然上がり続け、日和見主義が蔓延り、局地的豪雨が続き、そこまで面白くもないギャグが流行し、少し流行りに乗るのが遅めの小父さんが会社で部下に披露するころにはブームは去っている。

 都市に虚無が蔓延しているのは、疑う余地もなかった。

 虚無人が出現し始めたのはそんな折であった。


 鷹無鶫たかなしつぐみ銅錬寺どうれんじ発の電車に乗り込むと、隣の席に同じ学校の制服を着た女子生徒が座った――これが彼女、不知火真昼しらぬいまひるの出現した瞬間だった。

「君は私と同じ東高の生徒?」いきなりその生徒は話しかけてきた。「何年?」

「あ、えっと」多少戸惑いながら鶫は答える。「一年です」

「ああ、じゃあ後輩なんだ。どう、学校は慣れた? 何か悩みない? ある? ない?」

「あるようなないような」馴れ馴れしいと言ってもいい先輩の質問に対し、ますます鶫は困惑するばかりだった。

「私にだって悩みというのがあって。うちの近所に鳥とか売ってる店あって」

「ええ」

「そこで鳥とか、買うべきかこう、悩むわけだよ」

 鳥とか売ってる店とはペットショップだろうか。鶫は先輩にいくつか質問する。

「その、どうして悩んでいるんですか? 値段ですか? それとも近所に配慮して、よく鳴く鳥を飼いづらいとか? 先輩はマンションにお住まいなんですか? ペットが禁止なのですか?」

「いや、マンションって言えばマンションだけど、それは特に重要ではないんだよね。重要ではないと言えなくもない。思い切って買ってしまってもいいように思うんだけど。君、名前は?」

「鷹無といいます」

「私は不知火という。買ったほうがいいかな、鳥とか」

「迷ったら買わなくてもいいんじゃないですか、そういう衝動がちゃんと沸いてくるまで待機したほうが」

「そうだな」

 不知火先輩の髪は腰ほどまであり、それは真っ白だった。そして彼女の耳は尖っていた。

 不知火先輩は虚無人だった。

 虚無人はどこから来るのか分からない。恐らく別の世界だろう。

 そして虚無人はいつしか消えて、誰の記憶にも残らない。虚無がゆえに。

 二人は東銅錬寺で降りて、学校前のやたら長くて急な坂を登り始めた。

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