第二十八話「白い花のように」
一陣の風が海の上を走り抜けた。
それは、潮が香る海風となり、波の音と共に人々に届けられる。
「シェイル、体には気を付けるのよ」
桟橋に吹く海風に髪をなびかせ、マチルダは微笑んだ。
「うんっ! ありがとう、お母さん」
シェイルは、大きな交易船を背に、元気な笑みを返した。
ここ、ライナの村外れの小さな港には、沢山の人だかりができていた。
冒険者として旅立つシェイルの雄姿を見ようと、村中の人々が見送りに駆け付けたのだった。
「シェイルの姿を見ていると、俺たちの現役時代を思い出すな……」
「そうですね……」
レオンとマチルダは、そっと寄り添って瞳を細めた。
シェイルが腰に帯びているレオンの剣と、額に付けたマチルダの額当ては、動く度に陽射しを浴びて輝きを放つ。
それはまるで、再び冒険の旅に出られることを喜んでいるかのようだ。
「シェイルを……頼むぞ」
レオンは誰にも聞こえないほどの小さな声で、かつての相棒にそうつぶやいた。
―――
人々に囲まれ笑顔を見せるシェイルの様子を、少し離れた物陰から見つめる者がいた。
橙色のワンピースに、肩甲骨まで伸ばされた、つややかな茶色の髪――
ナーイだ。
「私……こんなとこに隠れて……何してるんだろ……」
口から深いため息が漏れた。
「本当は私だって……みんなみたいに笑ってシェイルを送り出したい……でも……」
固く握り締められた手。
それは、わなわなと震えている。
「でも、ダメ……」
こうして陰から見つめているだけで、寂しさのあまり泣きそうになるのだ。
目の前で声を聞き、その手に触れたなら、おそらく号泣してしまうことだろう。
冒険者になるっ!!
と、シェイルが言い出したときから、この日が来ることはわかっていた。
だが、それは遥か遠い先のことのようにも思えていた。
「シェイルの夢が叶う……」
親友の門出を祝福してあげたいが、それと同時に寂しさの海に溺れそうにもなる。
「シェイル……ごめんね……」
ナーイは、胸を強く押さえた。
―――
「シェイルちゃん頑張れ!」
「ありがとーっ!!」
村人たちの歓声に、いちいちお礼を返すシェイル。
しかし、その目はどこか落ち着きがない。
「どうしたの?」
その様子に気付いたマチルダが、声を掛けてきた。
「うん……ナーイの姿が見つからなくて……」
寂しげにそう言い、肩を落とす。
「あたしが冒険者になること……ホントは反対だったのかな……」
うつむくシェイル。
その気持ちを現すかのように、空はにわかに曇り始める。
「ふふっ、大丈夫。ほら、後ろを見てごらんなさい」
促されたシェイルは、マチルダが示す先を振り返った。
「あっ!」
そこには、ナーイの姿があった。
街路樹の陰に隠れるようにして、じっとこちらを見ているナーイの姿が。
「ナーイちゃん、あなたに会ったら絶対泣いちゃうからって、ずっとあそこにいるのよ。夢が叶って旅立つあなたに、涙は見せられないからって……」
マチルダの言葉、ナーイの想い。
シェイルの胸の中に、熱いものが込み上げてくる。
商人たちの、船への荷物の積み込みが終わった。
船乗りたちが、甲板や桟橋で慌ただしく動き始める。おそらく、出航のときが近いのだろう。
「お母さんっ!」
振り返るシェイルに、マチルダは黙って大きくうなずいた。
シェイルもうなずき返すと、弾けたように走り出すのであった。
―――
「う~~っ!!」
ナーイは頭を振った。
「何やってるの、私は! ちゃんと見送りしなくちゃ!」
自分を叱咤し、前を向く。
しかし、その度に涙で視界がにじんでしまう。
「うう……前が向けないよぅ……」
ナーイは、瞳を閉じて上を向いた。
溢れそうになる涙を、なんとか押し止めようするために。
「早くしないと、シェイルが行っちゃうよぅ……」
「ナーイ!!」
そのとき、不意に響く声に驚き前を見ると、まっしぐらに走ってくるシェイルの姿があった。
「わわわわ、ちょ、ちょっと待って!」
泣き顔を見られないよう、大慌てで後ろを向く。
「シェイル……な、何のよう?」
自分のすぐ後ろで足を止めたシェイルに、ナーイは背を向けたまま精一杯平静を装う。
「わ、私は、人混みは好きじゃないの! だから、ここにいるんだからね!」
つい、思っていることと違うことが口に出てしまう。
「ナーイのおかげで、あたしは冒険者になること認めてもらえた……本当にありがとう」
「べ、別に……そんな大したことしてないわ! それより、もう船が出るんじゃないの?」
「うん……」
「じゃあ、早く行った方がいいわよ! 乗り遅れたら大変でしょ!」
(うぅ……私は何でこんなこと言っちゃうの……)
素直になりたい!
だが、そう思えば思うほど、口は逆のことを言う。
その様子に、シェイルも戸惑っているようだった。
(そうよね……こんな私……友達失格だ……)
「……ナーイ、あのねっ!」
そう思った瞬間、不意に明るい声が響く。
「前に、ナーイが貸してくれた本あるでしょ?」
「う、うん……?」
責められると思っていたナーイは、その予想外の言葉に思わず声が裏返る。
「あれね~、最初の方のページ、間違って破っちゃったっ! ごめんね~っ!!」
笑いながら謝るシェイル。
「あと、子供の頃の話だけど……ナーイが大切にしてた熊のヌイグルミ、あったでしょ?」
熊のヌイグルミ、それは、ナーイが十歳の誕生日にもらった、とても大きなヌイグルミだ。
一目でお気に入りとなったヌイグルミはペムと名付けられ、どこに行くにも常に一緒だった。
だが……
あるとき、熊のペムに悲劇が襲いかかる。
「実はね……ペムの腕を取っちゃったの……あたしなんだ」
「え……ちょ……!? あ、あれ、シェイルが!?」
「うん、ごめんね~っ!!」
「ちょ、ちょっと、ごめんねじゃないわよ! あのあと、私がどれだけ泣き明かしたことか!」
「うんうん、それからね……」
「まだあるの!?」
ナーイは、我を忘れて思わず振り返る。
その瞬間、シェイルと目があった。
「やっと、こっち向いてくれたね」
微笑むシェイルを前に、それが自分を振り向かせる為の作戦だと気が付くナーイだった。
「ナーイ、これ見て……」
シェイルは、自慢の長い髪をそっと持ち上げる。
流れるような赤い髪。
その先に、しっかりと結ばれた――
「シュシュ……」
そこには、ナーイが贈った純白のシュシュが輝いていた。
「あたしは、どんなときもこの髪飾りを付けて旅をする……ナーイの想いが詰まったこのシュシュ……あたしは、その想いも一緒に持っていく」
シェイルはシュシュをそっと手のひらに乗せ、そして、ナーイを見つめた。
「だから……あたしはサヨナラは言わないよ! 笑顔で『またね』って、手を振るから!」
風が吹き抜ける。
とても優しい風。
空を覆う雲を吹き流し、二人に柔らかな陽射しを与えた。
それは、二人の心を繋ぐ架け橋となる。
「ありがとう、シェイル……」
「ううん……こちらこそ、ありがとう……」
二人は、真っ直ぐ見つめ合った。
「船が出るぞー!」
甲板から水夫が叫ぶ。
「それじゃ……あたし行くね」
「うん……元気でね」
二人は微笑むと、どちらからともなく手を伸ばした。
「「またねっ!」」
しっかりと握り合うその手は、頭上の太陽に照らされて、影という名の絵を大地に刻み込んだ。
今、このとき、この気持ちを、あたしたちは絶対に忘れない!
二人は、心に固く誓うのだった。
船が走る。
風を帆に受けて、青い海を進んでゆく。
甲板のシェイルは、そっと後ろを振り返った。
もう、ライナの村は見えない。
「結局、ナーイは泣いてたな……」
シェイルは、つぶやく。
「でも……その顔は、笑ってた」
優しい微笑みが、その顔に浮かんだ。
そして少女は、視線を再び前に向ける。
風を、その小さな体いっぱいに浴び、そっと瞳を閉じた。
「お父さん……お母さん……ナーイ……村のみんな……」
自分を、これまで支えてくれた人々を胸に思い描き、シェイルはその名を呼んだ。
「あたし……頑張るから!」
そして、静かに瞳を開く。
どこまでも青い海、どこまでも青い空が、目の前には広がっている。
「さあっ、どんな冒険が待ってるかなっ!!」
シェイルは、期待に満ちた声で言った。
その笑顔は、目の前の海や空のように、どこまでも、澄み渡っていた。
海風がシェイルの髪を揺らす。
その先には、純白のシュシュが輝いている。
それは、掛け替えのない想いが込められた、一輪の白い花のようであった。
―――
「――レスタト様、上手くいきやしたね!」
船底の倉庫の中から響く声。
そこには大剣のアバレールと、ダークエルフのレスタトがいた。
「それにしても、幸運でしたね! まさか、あの村に大陸への船が停泊していたとは! これで、あの娘から逃げ出せるってもんでさぁ!」
「ふむ……アバレールよ、向こうを向いてみろ」
上機嫌のそんなアバレールに、レスタトは静かに口を開いた。
「え? 向こうっすか?」
素直に振り返った、その瞬間――
「はっ!!」
「ぎゃひっ!?」
尻に走る激しい痛み。
レスタトは、アバレールの尻を力いっぱい蹴り上げていた。
「な、なにするんで……」
もんどりうって倒れるアバレール。
その顔は涙目だ。
「俺は逃げるのではない! 大陸で、あの小娘にも勝てる力を手に入れるのだ!」
静かだが力強い言葉。
「今度会ったとき……それがあの娘の最期となるのだ!」
そう言って、レスタトは天に向かって大きく笑った。
「……って、結局は逃げてんじゃねーか」
ボソッとつぶやくアバレール。
「……む? アバレール、あれは何だ?」
「へ? あれって?」
その視線の先を振り返った瞬間――
「ぎゃび――っっっ!!」
尻に走る雷のような衝撃。
レスタトの足は深々とめり込んでいた。
「ま、また同じところ……しかもつま先で……」
「口は災いの元だ」
悶えるアバレールに、レスタトは冷たく言い放つ。
「それにしても……ここは狭いな」
レスタトは、無造作に詰まれた荷物を睨んだ。
「仕方ないですよ、うちら密航なんですから……」
痛む尻をさすりながら、アバレールは言う。
「この屈辱……全ては、あの小娘のせい……」
レスタトは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「あ、あの、レスタト様……あんな小娘、いっそ忘れちまうってのはどうですか? そうすりゃ、楽しい人生が待ってるかも……」
「アバレールよ……」
「へ、へい?」
思わず身をすくめるアバレールに、レスタトは優しい声でささやいた。
「その尻の痛みも……元を正せば、あの小娘のせいなのだぞ?」
「な……!?」
「考えてもみろ……我々がこんなことになったのは、全てあの小娘のせいなのだ」
「そ、そうだったのかー!! くそぅ、小娘!! 許さん、絶対に許さんぞ――!!」
アバレールの叫びが、船底に響き渡る。
だがそれは、幸か不幸か波の音にかき消され、外に聞こえることはなかった。
甲板のシェイルは何も知らず――
大きく広がる青い世界に、思いを馳せるのだった……
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