第四話「悲しみの炎」

 それから一年の月日が流れた。


 魔竜王の闇の世界は、日に日に勢力を拡大してゆく。

 今やこの世は、魔竜王の支配下にあると言っても過言ではなかった。


 人々は物音に怯え、訪れる夜を恐れ、暗闇に恐怖する。

 そして、無事に朝を迎えられた者は、そのことに心から安堵する。


 しかし、その辛い日常の中でも、人々の目から希望の光は消えていなかった。

 深い闇の中に浮かぶ一筋の光、『白銀の勇者』と呼ばれる者の存在である。


 白銀の勇者は、魔物に支配された都市を次々と解放し、人々に希望の光を示してゆく。

 今や彼の手により解放された都市は、十を下らなかった。






「グギャアアアッ!!」


 城内に断末魔の悲鳴が響き渡る。


「白銀ノ……勇者メ……!!」


 直立した竜のような姿をした魔神は、大理石の床の上に崩れ落ちた。


 白銀の勇者と呼ばれた青年は、手にした剣をビッと横に払う。

 刀身についた魔物の体液が飛び散り、下から白銀に輝く刃が現れた。

 取り巻く魔物たちの間に、戦慄が走る。

 その魔物たちを睨みながら、青年は口を開いた。


「ジャグナスに伝えろ! アドニスが来たと!!」






 瘴気が立ち込める暗黒の巨城。

 夜よりも深い闇、魔の巣窟、それが魔竜王が住まう城、ダークパレス。


 しかしこの城は、一年と半年前までは違う名で呼ばれていた。

 そのときの名は、ホワイトパレス。

 エメラルダ姫が治め、アドニスが仕えていた城だ。


 だが、魔竜王の力を手にしたジャグナスは、城を奪うと鋭い爪で大地を引き裂いた。

 城は大陸から切り離され、数多の魔物が巣くう孤島の魔城へと変貌を遂げたのだった。


 その魔竜王の城に、単身で乗り込んだアドニス。

 白銀の閃光が走る度に、複数の魔物の胴体が二つに分かれる。

 その強さは、一年前とは比べものにならなかった。






「ジャグナスはこの先か!」


 アドニスは豪奢な階段の前で足を止めた。

 それは、玉座の間へと続く階段だった。

 城内に入ったときから感じていた、どす黒い邪悪な意志のようなもの。

 奥に進めば進むほど強くなる不快感は、この先からより強く感じられる。


「姫……もう少しです」


 アドニスはつぶやき、そして走り出す。

 魔竜王が待つ玉座へと向かって。


 階段を駆け上がると、目の前に両開きの大きな扉が現れた。

 扉を開け、中に飛び込むアドニスを、自然の光が照らし出す。

 そこは、屋根のない広い庭園となっていた。


 よく手入れされた庭園。

 そのところどころに、魔法の従者ゴーレムたちの姿が見受けられる。

 彼らは、城の主が変わった後も、これまでと同じように手入れをしてきたのだろう。


 アドニスは庭園を進むと、一本の大きな樹の前で足を止めた。

 葉は青々と茂り、いくつもの白い花が頂生し、風に揺れている。


「姫は、この花が好きだったな……」




―――




 アドニスがエメラルダ姫と初めて対面したのは、親衛隊“姫の騎士”の叙任式のときだった。


「よろしく頼みましたよ」


 心を打つ、透き通るような声。

 直視することすら憚はばかられるような神々しさが、そこにはあった。


 世は戦乱の時代。

 各地では、神々の遺恨ともいえる魔物の被害が後を絶たなかった。


 姫は王国騎士団を率いて、自ら戦場へと赴く。

 アドニスたち姫の騎士は、襲い来る魔物の手から姫を守り続け、エメラルダは数多くの魔物を封印していった。






 それから半年後――


 エメラルダ姫は、大陸の北部を支配していた魔物の将を封印することに成功する。

 だが、その戦いは熾烈を極め、王国騎士団、そして姫の騎士にも多くの犠牲者が出ていた。


 その帰路、これまでの疲労も蓄積した騎士たちは、うつむき、口数も少ない。

 憔悴しきった表情は、とても勝利者たちのものとは思えなかった。

 そしてそれは、アドニスたち姫の騎士も例外ではなかった。


 その様子を馬上から見ていたエメラルダは、不意に足を止めた。


「……姫?」


 首を傾げる声には応えず、姫は騎士たちへと向き直る。


「みなさん……この度の戦いでは多くの者が命を落としました」


 静かだが、よく通る声。


「犠牲となった者たちの中には、家族であったり、親友であったり、そして恋人だった者もいることでしょう」


 姫は胸に手を当て、何かを押し殺すかのように瞳を閉じた。

 表情に、悲しみの影が走る。


「……私も、長い戦乱の中で両親……王、そして王妃と死に別れました」


 騎士たちは、思わず息を呑む。


 しばしの沈黙の後――

 ゆっくりと開かれた瞳には、強い決意の色が灯っていた。


「……ですが! その犠牲を無駄にしないためにも私たちは進まねばなりません! 魔物の手により王、そして王妃を失った我が国ですが、まだ私がいます! 私の封印の力があります! そして……」


 姫は、騎士たちに視線を巡らせる。


「……そして、貴方たちがいます。これからも私に力を貸してください! この掛け替えのない世界を、愛すべき者たちに託された未来を共に守り抜きましょう!」


 一同から沸き起こる、嵐のような歓声。

 そこに、もはや陰りの色は見えなかった。


「未来をこの手に!」


 馬上の姫は、天に向かって手を掲げる。

 

「未来をこの手に!!」


 騎士たちも武器を掲げ、そして凱歌をあげるのだった。






 幼い頃から神の生まれ変わりと崇められ、尊敬と畏怖の目で見られてきたエメラルダは、齢十六にして純然たる王者の風格をその身にまとっていた。


 姫ならば、この世に平和をもたらすことができる!


 誰もがそう思っていた。


 だが……


 帰還後に、ふと訪れた深夜の庭園。

 そこで一人たたずむ姫の姿を見たときから、アドニスの思いは覆されることとなった。


 白い花が頂生する大きな樹。

 寝衣のままのエメラルダは、その幹に体を預けて夜空を見上げている。

 アドニスの存在には、気が付いていないようだった。

 空で静かに輝く星々と、所々に設置された魔法の灯りが、憂いを帯びた表情を淡く照らしだす。


「お父様……お母様……これでよろしいのですよね?」


 悲しみに沈む声が聞こえた。


「わかってます……私は上に立つ者として、決して人に涙は見せません。でも……人の死が辛いのです。戦いが怖いのです。心が、痛いのです……」


 そこに、これまでに見た強い姫の姿はなかった。

 それは悲しみと重圧に押し潰された、一人の少女の姿だった。


 小刻みに震えるその体を前に、アドニスは思わず拳を握りしめる。

 しばしの後、アドニスは意を決すると一歩進み出た。


「エメラルダ姫」

「アドニス!?」


 不意にかけられた声に驚いた姫は、慌てて後ろを向くと目をこする。

 そして、精一杯平静を装って口を開いた。


「い、いつからいたのですか?」


 しかし、その声は装いきれず、上ずったものになっている。 

 アドニスはその問いには答えず、目を細めて姫を見つめた。


「姫……泣いてもいいのですよ?」

「な、何を言うのです! 私は泣いてなど……」

「辛いときは涙を流していいんです。その先にはきっと、求める幸せが待っていますから」


 アドニスの言葉に、姫は胸に手を当てた。

 その口が開く。

 が、姫は言葉を飲み込むように、ぐっと口を閉じた。


 訪れた沈黙。

 風が葉を揺らす音だけが聞こえてくる。


 その風を胸いっぱいに吸い込むと、姫はアドニスに向き直った。


「ありがたいお言葉ですが……それはできません。私は世界に平和が訪れるまでは、人に涙は見せないと誓ったのです」


 そう言って、そっと微笑みを見せる。


「そうですか……でしたら」


 アドニスは古代語の合言葉キーワードを唱えた。


「『我が命に応じ、灯りよ消えろ!』」


 その言葉で、庭園内の魔法の灯りは瞬時に全て消え失せる。

 不意に訪れた暗闇。

 夜空の星明かりのみが、辺りを照らしている。


「……これでもう、私の目には姫は見えません。今、姫を見ているのは夜空の星たちだけです」

「アドニス……」

「だからもう、我慢などしなくてよいのです」


 その言葉に、エメラルダの瞳から一滴の涙が頬を伝った。


「あ……」


 思わず頬に手を当てる。

 両の目からあふれ出す滴は、姫の手を濡らしてゆく。


 姫は後ろを向くと、樹の幹に額をつけた。

 アドニスも姫に背を向け、夜空を見上げた。


「う……っく……ううっ……お父様、お母様……もっと話がしたかった……もっと感謝を伝えたかった……もっと愛してるって言いたかった」


 ずっと抑えていた気持ちが、言葉が、堰せきを切ってあふれ出る。


「お別れの言葉すら、言えなくて……私は……私はーっ! ……わぁぁぁぁぁぁ!!」


 姫は泣いた。

 ひたすら泣き続けた。

 その声は、夜の中に吸い込まれてゆく。


 王と王妃。

 二人はきっと、今でもあの空から姫を見守っていることだろう。

 見上げた夜空では、星が静かに瞬いていた。




「ありがとう……ございます」


 しばしの後、口を開いた姫にアドニスは向き直る。

 そこには、目を腫らした――

 だが、澄み切った表情の姫がいた。


「辛くなったら……またお願いしてもよろしいでしょうか?」

「いつでもどうぞ」

「ふふっ……ありがとう」


 そう言って姫は微笑んだ。


「それにしても……アドニスには泣かされてしまいましたね。城の皆が聞いたらなんと言うことでしょうか」

「ひ、姫、それは!」

「ふふふ、冗談ですよ」


 エメラルダ姫は笑いながら身をひるがえす。

 その動きに合わせ、寝衣の裾がふわりと舞った。






 それからしばらくして、姫は魔竜王の封印に成功する。

 多大な犠牲の上に、ようやく手にした平穏のとき。 


 だが――

 それは、ジャグナスの裏切りによって、もろくも崩れ去るのだった。 




―――




「今こそ、全てを取り戻すんだ!」


 アドニスは庭園を走る。

 この先にある扉を抜ければ玉座の間、魔竜王との決着のときだ。

 長かった旅も、これで終わる……


 しかし彼は、扉を前にしてその足を止めた。


 目の前に、黒いドレスを身にまとった一人の女性が現れたからだ。


 夜の闇で染め上げたような漆黒のドレスは胸元が大きく開いており、そこには宝石の入ったネックレスがきらめいている。

 戸惑いを隠せないアドニスに、女性は優しい笑みを送った。


「久しぶりね、アドニス」


 透き通った声、鮮やかな金色の長い髪。

 そして、この微笑みは忘れもしない。


「ディアドラ、何故ここに!?」


 しかし、彼女はその問いには答えない。


「あなたの活躍は聞いていたわ。冒険者になり、白銀の勇者と名乗って魔竜王の軍勢を次々と撃破してゆく……簡単にできることじゃないわ」


 ディアドラは、両手を広げ褒め称えた。

 だが、アドニスは表情を崩さない。


「そんなことを言う為に、ここまで来たのか?」


 その瞬間、ディアドラの表情が変わった。


「違うわ! 私……これ以上あなたに進んでほしくないの!」


 その顔から笑みが消える。


「確かにアドニスは強くなった……でもね、それでもジャグナスには勝てない! 次元が違いすぎる! 魔竜王は神でもなければ倒せない存在なの!」


 ディアドラは、必死にアドニスにすがりつく。


「ねえ、お願い、わかって……お願いだから……」


 悲しみの色に染まるその瞳は、真剣そのものだった。


 ややあって、アドニスは口を開く。


「……すまないが、やはりそれはできない」


 アドニスはディアドラの肩を両手でつかむと、すがりつく彼女を優しく引き離した。


「そっか……うん、そうだよね……アドニスならそう言うと思ってた」


 ディアドラは少しだけうつむいた後、顔を上げて笑顔を見せる。

 だが、その刹那、ディアドラの目が鋭く細く変わった。


「でもね……そうもいかないの」


 低く冷たい声でそう言うと、腰に帯びた細身の剣をスッと抜き放つ。


 次の瞬間、ディアドラは素早く剣を突き出した。

 刃はアドニスの頬をかすめ、切られた金の髪が数本宙を舞う。

 その頬に一筋の赤い線が走った。


「今のはワザと外した……」


 冷淡な声を響かせて彼女は背を向ける。

 そして、二歩、三歩と距離を取った。


「先に進みたければ、私を倒してから行って!」

「バカなことをっ!! お前と闘うなんて、俺にはできない!」

「来ないなら、こっちから行くわよ!」


 振り向きざまに放つ、ディアドラの鋭い一撃。

 それを後ろに飛び退いて避けるアドニスの瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。


(ディアドラ……泣いていた!?)


 彼女が振り向いた瞬間、頬を伝う涙が飛び散ったのが見えたからだ。


「やめろ、ディアドラッ!!」

「あなたが引けないように……私にも引くことができない理由がある!」


 鋭く睨むその瞳に、もはや涙の影は見られなかった。


「戦ってアドニス……このまま無抵抗で死ぬつもり?」


 ディアドラは、無意識のように胸元で輝く宝石を握りしめる。

 その背後で、壁に掛けられた灯台の火が大きく揺れた。


「それでも、俺はお前とは戦わない!」

「そう……なら、戦いたくなるようにしてあげるわ!」


 次の瞬間、灯台の火から〈炎の矢ファイア・ボルト〉がほとばしり、アドニスの胸を直撃した。


 だが――


「な……避けない!?」


 アドニスは避けるどころか、防御すらしなかった。


「バ……バカにしてっ!!」


 次々と〈炎の矢ファイア・ボルト〉が放たれる。

 そして、それらは全てアドニスを直撃した。


「ぐっ……!!」


 アドニスが身に着けている白銀の鎧には、対魔法防御の力が込められている。

だが、いくら魔法の鎧といえど、これだけの攻撃を受けて無事でいられるわけがない。

 全身は傷つき、いたるところから出血をしていた。


 だが、それでもディアドラを見つめる瞳には、一片の曇りもない。


「な、何でここまでされても!!」

「お前が、苦しんでいるように見えるから……苦しいよ、痛いよ、怖いよって……必死に叫んでいる気がするから」

「な、何を根拠に……」

「その目だ」


 懐かしそうに、アドニスは目を細めた。


「ディアドラは、感情がすぐ目に出るんだ……嬉しいこと、悲しいこと、全て」


 ディアドラは、慌てて目をそらす。


「それは今も変わらない……純粋な瞳で俺を見つめてくる」

「やめて……私はそんなんじゃない……」


 ディアドラの拳が、強く握り締められた。


「私は、純粋なんかじゃないーっ!!」


 叫ぶと同時に、ディアドラは呪文の詠唱に入る。


「『灼熱の息、烈火の心……破壊を司る炎の精霊王よ……』」


 先ほどよりも複雑な印を描くディアドラに、アドニスの顔色が変わった。


「『その姿を、今ここに示せ……その力で全てを塵に……その炎で天と地を焦がせ……』」


 首から下げた宝石が赤く激しく輝く。


「こ、これは〈烈火大爆発ファイア・イクスプロージョン〉!!」


 至る所から火柱が吹き上がり、それは渦巻きながら上空に集まってゆく。


「やめろ、ディアドラ!! ここでそれを使ったら、お前まで炎で焼かれるぞ!!」

「ふふ……それも……悪くはない……」

「ディアドラ!?」

「一緒に……焼かれようか……」

「まさか……炎の王に飲まれている!?」


 宝石の輝きが更に増し、それに呼応するかのように大気が震えだす。


「あの宝石、精霊石か!!」


 精霊石は、術者が精霊との交信を潤滑に行うための補助的効果がある。

 また、精霊の力を掌握し制御する効果もある。

 そのため、精霊使いは好んでこれを身に着けていた。


 そして、それは純度が高ければ高いほど、その効果も高くなる。

 ディアドラが身に着けている高純度の精霊石は、精霊の王との交信も可能にする力を持っていた。


 だが、精霊王との交信は強大な力を得られる分、危険も多い。

 力を制御しきれず、その力に飲まれてしまう者もいる。

 今のディアドラが、まさにその状態だった。


「くそっ!!」


 上空では、いくつもの炎が渦巻き球を成している。

 それは、次第に大きさを増してゆく。


「ディアドラ、しっかりしろ!!」


 アドニスはディアドラの肩をつかみ、強く揺らした。


「燃え散ろう……アドニス……」


 紅い瞳、逆巻く髪、真っ赤に染まる精霊石。


「炎の王と、意識が同調しているのか!!」


 このまま上空の炎が炸裂したら、二人ともタダでは済まないことになる。


「どうすれば……!!」


 炎はどんどん大きくなってゆく。

 もう、一刻の猶予もない。


 そのとき、アドニスの脳裏にあることがよぎった。


「炎の王とのつながりである、この精霊石を壊せば……!」


 アドニスは、ディアドラの胸で紅く輝く精霊石を握りしめた。


「熱っ!!」


 だが、強すぎる炎の力を受けた精霊石は、まるで灼熱の炎のよう。

 その熱は籠手をすり抜け、アドニスの手を容赦なく焦がしてゆく。


「ぐ……ぐぁ……」


 辺りに、皮膚が焼ける嫌な臭いが漂った。

 しかし、それでもアドニスは手を離さない。


(た……ためらっている暇はない! 今はこれを壊すことだけを――)


 石を握った右手に左手を添える。


「うおおおお――っ!!」


 そして、気合いと共に力を込めてゆく。


 手の中で、炎が暴れているような熱さ。

 しかし、同時に石がきしむ手応えも感じていた。


「ディアドラ……」


 アドニスは、渾身の力を込める。


「帰ってこい、ディアドラ――――ッ!!」


 ――ピシッ!!


 甲高い音が鳴り響き、精霊石は手の中で粉々に砕け散った。


「や……やった!」


 だが、制御を失った上空の炎球は、その瞬間に暴走し始める。

 球から溢れ出た炎は飛散し、周囲に滝のように降り注ぐ。

 空中に残された巨大な炎の核は光を強め、みるみるうちに収縮してゆく。


 そしてそれは、ある一定のところまで収縮すると、目がくらむほどの輝きを放った。


「くっ!!」


 アドニスは、とっさにディアドラに覆い被さる。

 その瞬間、爆発が起こった。


 激しい爆風、降り注ぐ炎、辺り一面は火の海と化す。

 炎球の爆発は、城を半壊させるほどの力を持っていた。

 崩れ落ちた壁、廃墟と化した庭園の中、全てを焼き尽くそうと炎は盛る。


 ……その中で、動く影があった。


「ぐ……」


 瓦礫を押しのけ、アドニスが姿を現す。

 その下には気を失っているディアドラが姿がある。

 彼女は気絶しているものの、その呼吸は安定しているようだ。


「良かった……」


 アドニスの口から、安堵のため息が漏れる。


「しかし……」


 アドニスは、周囲に目を向けた。

 美しかった城と庭園は、今や無残な姿を晒している。


「未完成な力でこれか……もし魔法が完成していたら、どうなっていたんだ……」


 背筋に冷たい汗が流れるのを感じ、思わず身震いをした。


「ア……ドニス……」


 そのとき、不意にアドニスを呼ぶ声。


「大丈夫か、ディアドラ!」


 アドニスは、意識を取り戻したディアドラを優しく抱き起こす。


「戦いは……あなたの……勝ちね……」

「そんなのどうだっていい!」


 しかし、彼女は静かに首を横に振った。


「私の負け……さぁ……私を殺して……」

「な……そんなこと、できるわけないだろっ!」

「そうよね……あなたなら……そう言うと思ってた……」


 アドニスの腕の中のディアドラは、悲しげに微笑んだ。


 その瞳が、突如、冷たい色を放つ。

 ディアドラは、腰に帯びた鞘から音もなく短剣を引き抜いた。

 鍔に赤黒い宝玉オーブが埋め込まれた短剣。

 その刀身は、周囲の炎を映し込み紅く輝く。


「甘いよね……」


 次の瞬間、ディアドラはそれを一気に突き立てる。

 真っ赤な鮮血が、辺りに飛び散った。

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