第三話「想い、伝えたくて……」

 小さな村の宿屋には少々不釣り合いなバルコニーで、アドニスは一人たたずんでいた。

 幾千、幾億もの星が降りしきるような夜空と、時折、頬をなでてゆく心地よい風。

 その星と風に抱かれて飲む蒸留酒スピリッツ。

 それは、最高の気分になれるひとときだろう。


 しかし、傍らにある背の高い円卓にグラスを置いたアドニスの表情は曇っていた。


「……ふう」


 ため息が夜空に響く。

 寄りかかった手すりが、ギシリと音を立てた。


「俺は、このままでいいのか……」


 闇の中、自分の存在を示すかのように輝く星々に、アドニスはそう問い掛けた。


「やっぱりここにいたのね」


 不意に響く声に振り返ると、そこにはグラスを手にしたディアドラが立っていた。


「アドニスは悩み事があると、昔から星を見上げて夜風に吹かれていたものね」


 ディアドラは、円卓に置かれたグラスの横に自分のグラスも置くと、アドニスの隣に並び、同じように手すりに寄りかかった。


「子供の頃は、それで風邪を引いたこともあったっけ……」

「ディアドラ……傷はもういいのか?」


 険しい表情を崩さないアドニスを和ませるように、彼女は微笑んでみせた。

 ディアドラは、昼間のダークエルフとの戦いで瀕死の重傷を負った。

 アドニスの〈癒しヒーリング〉で傷は回復してはいるものの、失われた血液まで再生できるわけではない。

 おそらくは立っているのも辛いはずだ。


「そんな顔しないで、アドニス」


 しかし彼女は、そんなことはおくびにも出さず、逆にアドニスを励まそうとする。


「村の人たちだって、怪我人は出たけど亡くなった人はいなかったんだから」


 確かに、あれだけの魔物に襲われながらも、二人の活躍により死者は出なかった。

 これは誇っても良いほどの快挙と言えよう。

 にもかかわらず、アドニスは首を横に振った。


「俺にもっと力があれば、誰も傷つかずに済んだかもしれない!」

「でも、結果的にはみんな無事だったんだし……」

「お前は、死に掛けたんだぞ!!」


 語気を強め、アドニスはディアドラの肩をつかむ。


「ゴブリンに襲われていた姉弟だって、一歩遅かったらどうなっていたか……俺にもっと力があれば、あんなに怖い思いをさせることはなかったんだ!」

「ちょ……ちょっと落ち着いて!!」

「姫がさらわれたときも、俺は……俺は……!!」

「アドニス、痛いっ!」


 ディアドラの悲鳴にも近い叫び。

 その声で、アドニスは我に返った。

 慌てて肩から手を放す。


「……すまない」

「うん……」


 少し広めの襟元からのぞく、細く白いその肩には、くっきりと手の跡が付いていた。


「アドニス……エメラルダ姫がさらわれたこと、まだ自分せいだと思っているの?」


 その言葉に、アドニスは目を閉じる。


「でも、アドニスは立派に戦ったじゃない!」


 しかし、アドニスは力なく首を横に振った。


「俺以外の親衛騎士は全て殺され、大切な姫を目の前で奪われた……」


 吐き出すように言うアドニスは、自分の胸を強く握りしめた。


「俺はもう……誰一人として失いたくないんだ……」


 二人の間を夜風がすり抜ける。

 風は、色の違う二人の金髪を優しく揺らしてゆく。


 沈黙――


 二人の間の静けさ。

 口を開くのがためらわれるような空気が、そこにはある。

 静かな夜の中、ただ聞こえて来るのは風の音だけだった。


「……ディアドラ、いつもありがとうな」


 その沈黙を破って、アドニスは笑顔を見せた。


「な、何よ……改まって……」 


 不意に見たその笑顔を前に、胸の鼓動が早くなる。

 それを隠すために、ディアドラは一際明るい声を出した。


「ねぇ、乾杯しない?」


 二人は、グラスを取ると静かに合わせる。

 星が瞬く空に、澄んだ音色が響き渡った。


「……それじゃ、夜も遅いし、そろそろ休むとしようか」


 程なくして、グラスの蒸留酒を飲み干したアドニスは、そうディアドラに言う。

 しかし、彼女は笑顔のまま首を横に振った。


「私は、もう少しここで星を見てるわ。アドニスは先に休んで」

「そうか……ディアドラ、風邪引くなよ」

「昔のあなたじゃないから引きませんー!」


 少しだけ微笑んだアドニスに、ディアドラはべーっと舌を出して答える。


「あははは、おやすみ」


 笑いながらアドニスは、部屋に向かって歩き出した。


「心配してくれてありがとう……」


 すれ違いざま、ささやくように言うアドニスに、ディアドラは笑顔で手を振って見送る。






 その姿が完全に部屋の中に消えてから、彼女はくるりと外に向き直った。

 手すりにもたれかかり、輝く星空を見上げる。

 口から、ため息が漏れた。


 ディアドラは、そっと瞳をとじる。

 幼いときのこと、これまでの冒険、アドニスとの数々の思い出が、鮮明に蘇ってくる。

 それらを全てこぼさぬように掌を胸に当て、そして、ゆっくりと瞳を開いた。


「アドニスが好き……明日、この想いを伝えよう」




―――




 部屋に戻ったアドニスは、グラスを置くとベッドに横になった。

 仰向けになり、天井の木目を眺める。

 その瞳は何かを決意していた。


「俺は……」


 それぞれの想いを乗せ、夜は静かに更けてゆくのであった……




―――




 静かな闇、そして輝く星々が次第に息を潜め、空の端が色付き始める夜明け。

 光と闇が混じり合うこの刻。

 太陽と生活を共にしている者以外は、まだまだ夢の中にいてもおかしくはない。


「はぁ……」


 が、部屋の中に響くため息。

 ここには、すでに目覚めている者がいた。

 村の宿屋の粗末なベッドで毛布にくるまり、横になったままのディアドラは一人ため息をつく。


「あれこれ考えていたら、あまり眠れなかったな……」


 夕べ、アドニスに自分の想いを伝えようと決めてから、あっという間に時が流れた気がする。


「私……なんでアドニスのこと、好きになっちゃったんだろ」


 幼馴染である二人は、一緒にいるのが当たり前だった。

 常に側にいて、ともに笑い、ともに泣き、そして高めあう存在。

 だが、そこに恋愛感情は存在しなかった。


「でも、あのとき……」




―――




 十歳のとき、ちょっとした冒険心からアドニスと二人で森の中へと入った。

 森の中は神秘的で、本や、人の話でしか知らない景色が広がっていた。


「もっと奥へ行こう!」


 そう提案するとアドニスには反対されたが、無理やり説得し、強引に足を進める。


 きらきらと輝く木漏れ日の中で、見たことない草木に心躍り、見たことない動物たちを追い掛ける。

 空腹になれば切り株に腰を下ろし、手提げ籠バスケットに入れてきたディアドラの手作りクッキーを食べた。

 生まれて初めて作ったクッキーは砂糖の分量を間違えていたり、焼き具合が甘かったりしてとても食べられたものではなかったが、それでもアドニスは無言で全て食べてくれた。


 初めての冒険。

 そこには、何ものにも代えがたい充実感があった。


 だが、その代償は大きかった。

 案の定と言うべきか、二人は道に迷ってしまったのだ。


 次第に日は暮れ、森の中はどんどん暗くなってゆく。

 それと共に、優しかった森は表情を変えた。

 大木は月の明かりを遮り、うっそうと茂った草木は、二人を通すまいと枝葉を広げているように感じる。

 どこかで、狼が遠吠えしている声も聞こえてきた。


 後悔、恐怖、悲しみ、そして空腹。

 様々な感情が、幼い胸の中で渦を巻く。

 うつむく視界が涙でにじんだ。


 そのとき、不意に手が強く握られた。


「泣くな、ディアドラ!」


 顔を上げると、そこには真っ直ぐな瞳でこちらを見るアドニスがいた。


「大丈夫、心配いらないよ!」


「なんで……そう思うの?」


「直感かな。俺の直感は当たるんだ! だからさ……帰ったら、またクッキー作ってほしいな」


 その予想外の言葉に、ディアドラは一瞬言葉を失う。


「……バカ! どうして今、そんなこと言うの……?」


「え? ……だって」


 アドニスは少し照れ臭そうに頬をかいた。


「美味しかったから……かな」


 そう言って見せる屈託のない笑顔は、ディアドラの心に深く深く刻み込まれるのだった。






 その後、アドニスは背負い袋バックパックから松明を取り出すと、それに火を付けて歩き出す。

 暗い森の道を、松明の明かりを頼りに進む二人。

 そこに言葉はない。

 だが、その手は強く握られたまま。

 確かな温もりと、高鳴る胸の鼓動を感じながら、ディアドラは手を引かれて歩いた。


 やがて、捜索に出ていた大人たちに保護されて、二人の初めての冒険は事なきを得るのだった。




 

―――



 

 それからだ。

 それから、アドニスを異性として見るようになってしまった。


 彼への想いは、日に日に大きくなってゆく。


 だから、アドニスが冒険者になると言ったときは、ディアドラも迷わずその道に踏み込んだ。

 姫の親衛騎士に選ばれたときも、ずっと側で支え続けてきた。


 二人で生きてゆく。

 それが、変わらず続く未来だと思っていた。


 だが……


「未来どころか、明日さえわからない状態で、私はちゃんと告白できるのかな……?」


 不意に、昨日のダークエルフとの戦いが脳裏に蘇り、ディアドラは身震いをした。

 初めて隣に感じた死の存在。今になって恐怖が込み上げ、毛布で顔を覆い隠す。


「私もアドニスも、明日は生きている保証なんて……」


 つぶやきながら、細い指先で胸を押さえた。

 思わず吐息が漏れる。


 次の瞬間、ディアドラは激しく頭を振って起き上がった。


「違う!」


 毛布が床に落ち、不意に肢体が現れる。

 その恰好は下着姿だった。

 均整の取れた体つきがあらわになる。


「明日がどうなるかわからないからこそ、私は想いを伝えなきゃいけないんだ!」


 ディアドラは下着のままベッドから下りると、窓を開けた。

 輝く朝日と、少しひんやりとした爽やかな風が部屋の中に流れ込み、絹のような頬と形の良い胸をなでてゆく。

 それはまるで、光の精霊と風の精霊が祝福してくれているかのようだった。


 少し気持ちが軽くなったディアドラは、窓から広がる景色に目を向けた。

 宿屋の三階にあるこの部屋。窓からは、村の広場に向かう道が見える。

 その道を挟むようにして、若い木々がさながら街路樹のように立ち並んでいる。


 しばしの間、その緑を眺めていたディアドラは、窓の下の道を歩く人の気配で我に返った。


「こんな朝早くに……」


 つぶやくディアドラ。

 だが、その者の姿を見た途端、表情は一変する。


 口を開く。

 しかし、上手く言葉が出てこない。


「なん……で……」


 二度、三度と口を動かし、ようやくうめくような声が漏れた。

 次の瞬間、はじけたように部屋を飛び出すと、廊下を走り、階段を駆け下りる。


 まだ薄暗い宿屋の中に、ディアドラの足音が響き渡った。




―――




 ひんやりとした早朝の空気の中、静かに開いた宿の扉から一人の青年が姿を現す。

 青年は、宿の前の広場に向かう道を歩く。

 広場の先には、この村の出口がある。


 通りを少し進んだところで、青年はふと足を止め、ゆっくりと振り返った。

 静かな瞳で見つめる先、それは宿屋の三階の部屋の窓だった。

 開け放たれた窓。

 そこに人影はない。

 朝の風だけが、彼に優しく触れてゆく。


 しばしその窓を見つめていた青年は、やがて前を向くと、再び歩き出した。


「待って、アドニス!!」


 そのとき、不意に響く声。

 振り向くと、そこには下着姿のままで走り寄ってくるディアドラがいた。

 彼女はアドニスの元に辿り着くと、肩で息を切らせながらも笑顔を作る。


「こ、こんな朝早くにどこに行くの? 旅支度までしちゃって……まるで、今すぐ出発するみたいじゃない」


 アドニスは目を伏せると、身に着けていたマントを外して、ディアドラの肩にそっと掛けた。

 その悲しげな瞳に、彼女の顔が不安に染まる。


 二人の間を一陣の風が吹き抜けてゆく。


「そ、そう……じゃ、じゃあ、私も急いで準備してきちゃうから!」


 ディアドラは笑顔を作り直すと、くるりとアドニスに背を向けた。

 長い金髪が、動きに合わせてふわりと舞う。


「いや、そのままでいい。話を聞いてくれ」


 走り出そうとしたディアドラの手首をつかみ、アドニスは首を横に振った。


「実は……」

「ね、ねえ!」


 しかしディアドラは、背を向けたままアドニスの話を遮って話し出す。


「次は、どこに行ってみようか?」

「違うんだ……」

「私は、どこでも大丈夫よ!」

「ディアドラ、もう一緒には……」

「あ……あのね、この前すごく美味しい果実酒を見つけたんだ! 次の街に売ってるかな? 私の手作りクッキーにも合うから、アドニスもきっと気に入って――」

「話を聞くんだ、ディアドラ!」


 話し続けるディアドラの肩をつかみ、無理やりに自分の方へ体を向けさせる。

 次の瞬間、アドニスは言葉を失った。

 目の前には、笑顔を浮かべたディアドラがいる。


 だが……


「ディアドラ……泣いているのか?」


 涙をこらえ、必死に笑顔を作るディアドラ。

 しかし、頬を伝う涙は抑えられない。


「すまない……」


 その言葉で、ディアドラの心の箍は崩壊した。


「やだ……やだよ……」


 喉の奥から漏れるように声が出る。


「なんで……なんで一人で行こうとするの? なんで私を置いて行くの? 私……魔力マナだって前より上がってるし、今は古代魔法も勉強してるんだよ?」


 全ての魔法は、魂の力である魔力を精神の力で練り上げ、呪文を唱えて発動させる。

 アドニスの神聖魔法は神と接触しその加護を受け、ディアドラの精霊魔法は精霊と交信しその力を借り、それを術者の練り上げた魔力と掛け合わせて行使する。


 それに対し、古代魔法は自らの魔力のみを用いる、神々の時代に栄えた王国が生み出した力だ。

 魔力を練り、古代の言葉を詠唱することで、様々な力を発動させることができる。


 精霊魔法と古代魔法、どちらも非常に強力で便利ではあるが、使いこなすには熟練を要する。

 その二つを使いこなせる者が仲間にいたなら、間違いなく旅の力になれるだろう。


 しかし、アドニスは首を横に振った。


「違うんだディアドラ、そういうことじゃないんだ。これからの旅は、間違いなく困難なものになるだろう。昨日のように大怪我……いや、次は命を落とすかもしれない」

「そのときは、私の力が足りなかっただけ! アドニスは気にしないで……」

「そうはいかない!」


 アドニスは、悲しみの瞳でディアドラを見つめた。


「俺は……もう誰も失いたくないんだ!」


 アドニスの手は、爪が食い込み血がにじむほど固く握られている。

 親衛騎士たちをはじめ、これまで沢山の人たちが命を落としてきた。

 魔竜王ジャグナスのために。


「じゃあ……じゃあ、もう旅なんて、やめちゃえばいいじゃない!」


 それは、口にしてはいけない。

 わかってはいるはずだが、昂った感情はもう抑えがきかないのだろう。


「ねっ、そうしよう? ジャグナスは、きっと誰かが倒してくれるよ!」

「ディアドラ……それ、本気で言っているのか?」

「だって……だって……」


 ディアドラは泣きじゃくりながら言葉を続ける。


「……だって、アドニスが死んじゃうかもしれないんだよ?」


 とめどなく溢れる涙。

 頬を伝い、流れ落ちた滴が地面に黒い染みを作ってゆく。


「そんなのやだ……いやだ……」


 アドニスはディアドラの頬の涙を指で拭うと、微笑みながら首を横に振った。


「大丈夫、俺は死なないよ。俺には神の加護がある。必ず帰ってくると約束する!」


 そして、遠くを見るように目を細めて空を見上げた。


「それに……姫は、きっと俺を待っている」




―――




「それじゃ、元気でな」


 別れを告げて、アドニスは背を向ける。

 しかし、ディアドラに言葉はない。


(アドニスのあんな表情……見たことなかった)


 空を見上げたアドニスの瞳に浮かんでいたもの。

 それは世界を救うという使命感だけではない。

 譲ることのできない強さが、そこには感じられた。


(アドニスは姫のことが……)


 気付いてしまった、アドニスの想い。


 胸が痛い――


 息が苦しい――


 アドニスの背中が、どんどん小さくなる。

 感情に身を任せ、あの背中を追い掛けたい。


 だが、ディアドラにそれはできなかった。


 今は、胸を裂く痛みに耐えて見送ることしかできなかった。

 涙でにじむ愛しい背中を、ただ見つめることしかできなかった……

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