紙袋のわたしと花を喰らうわたし
女の一日は鏡から始まる。
それが母の教えでした。けれども、わたしは鏡が嫌いでした。癖のある金の巻き毛も、血色の悪い蒼く沈んだ瞳も、痩せこけた頬も、ふつふつと現れるようになったふきでものも。全てが恐ろしく、一日を憂鬱な気分にさせてしまうものでした。
鏡がなくても顔は洗えますし、髪は梳かせます。ですから、わたしは鏡を見ずに一日を過ごすようにしました。自室の鏡に布をかけ、わたしが映らないようにしました。自分の顔が映るものがない。それだけで、わたしの心は安らいだのです。
安らぎのひとときが来たのは、ほんの少しの間だけでした。
最初に気づいたのは視線でした。母はわたしを心配するようになったのです。身だしなみに興味がない子どもだと思ったのでしょう。前よりもあれこれ口をだしてくるようになりました。髪を梳かすときは鏡を見なさい、服を選ぶときも鏡を見なさい、女は笑顔が大事ですから毎朝鏡を見て笑いなさい。
わたしは耳を塞ぎたくなるくらい、母の言葉が怖くなりました。母がわたしのためにと、髪飾りや服を買ってきてくれるたびに、棚の中にしまい、視界に入れないようにしました。それでも母はわたしに言葉を浴びせます。それがわたしのためで、わたしを大人にするためで、わたしを一人前の女性にするためだと理解していても、逃げ出したくなるくらい怖くてたまらないものでした。
そのうち、食事を摂ることが困難になりました。元々小食でしたが、さらに食が細くなり、物の味さえわからなくなってしまいました。父も心配し、お医者さまに見せてくださいましたが一向に良くなりません。わたしの体はさらに痩せ細り、外に出ることさえ困難になってしまいました。両親は看病してくださいましたが、その二人の中に映るわたし自身の姿にも怯えるようになりました。
眼の中にも、わたしはいるのです。ベッド脇の窓にも、大好きな紅茶の中にも、わたしは「わたし」を見ているのです。
どうして顔というものが存在しているのでしょうか。
どうして人は、顔で他人を比べなければいけないのでしょうか。
わたしはそこで、ふと、あることに気づきました。
顔なのです。顔さえ見なければよいのです。わたしの眼にも、他人の眼にも、わたしという存在の顔が映らなければよいのです。
わたしは母に紙袋を貰い、眼に位置する部分に二つの穴をあけ、頭からすっぽりと被りました。
なぜ、こんな簡単なことに気づけなかったのでしょう。顔さえ隠してしまえば、怯えることもないのです。わたしの心は晴れやかになりましたが、母の顔は青ざめておりました。
紙袋の娘となったわたしは、少しずつ気力を取り戻していきました。顔が見られていないことで、不思議と強気になれたのです。
ただ、困ったことに紙袋の娘は食欲がほとんどありませんでした。食べても戻してしまうのです。必要最低限の量だけ無理やり胃袋に押し込めていましたが、気だるさがつきまとっていました。どうやら紙袋の娘は、普通の娘と違うようなのです。
母はわたしが早く元気になるようにと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくださいました。使用人に任せることはせず、空いている時間をわたしに費やしてくださいました。母の優しさが嬉しい反面、贅沢にも心苦しく感じるようになりました。
ある晴れた日に、母が花を買ってきてくださいました。植木鉢に小さな花が咲いております。いつかあなたが、この花のように元気になれたら。そんな願いをこめて、母は窓際に飾りました。
小さな花は赤子の掌のようでした。薄紅を乗せた花びらは、小柄であっても懸命に咲いています。花びらに触れてみますと、思っていたよりも分厚く、わたしの指先の下で生命の強さを誇っているように思えました。
もし、この花のように元気になれたら。母は不細工でふがいない娘に手を焼くことなどないのかも知れません。
わたしが持っていないものを、この花は全て持っているような気がしたのです。
わたしの澱んだ蒼の眼から、ぽたぽたと可愛げもなく涙が落ちていきます。紙袋の下で、不格好にも泣いてしまったのです。
花はわたしを映していませんのに、わたしにとって毒のように思えました。毒ならばいっそのことと、花びらを掴み、紙袋の下から口の中に放り込みます。柔らかで弾力のある花びらを咀嚼すればするほど、土のような苦みと太陽にたっぷり愛された甘さが唾液と共に混じり合いました。その物体が喉を通り過ぎていったとき、わたしは零していました。
「おいしい……」
食の喜びを、思い出すことができたのです。
歓喜するわたしに母は蒼白となり、どうしてだか倒れてしまいました。
こうしてわたしは、紙袋の娘から花喰い娘となったのです。
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