第5話『シクラメン』

 昔からの癖、だったと思う。


 困っている女の子、悲しそうな女の子を見ると、胸が苦しくなって、歯が痒くなって、地に足がつかなくなったような不安感に襲われる。


 だから、できるだけ早くその顔を笑顔に解消やりたくなって、おせっかいで首を突っ込んだりしていたのだ。


 自分でも、いつからこんな質になったのか、覚えていないけど。

 でも、それが俺だった。


 こんなんだから、友達には「女に弱い」とか「モテたいの?」とか言われるんだけど。でも、俺は恋愛は好きじゃない。


 だって、恋愛って、苦いし辛い。


 楽しいだけじゃないし、一生一緒になんていられないし、嫌いになって別れるかもしれない。


 人を嫌いになるのって、嫌いなんだ。

 嫌われるのも嫌いだし。


「なんか……疲れたなぁ」


 デートを終えて、俺は薄暗い帰り道で、ふぅ、とため息を吐いた。そういや、最近本を買ってないということを思い出してしまった。


 読書をする人ならわかると思うのだが、小説って読まなくても買いたいという時がある。


 しかし、今は新品の本を買うほど、懐が潤っていない。


 と、なれば、古書しかない。


 そうだ。久しぶりにあそこへ行こう。学校の屋上、自室に次ぐ、俺の第三の憩いの場。


 柏手を打ち、自分のナイスアイデアを褒めてやって、俺はさっそく、その古書店へ向かった。


 最近、古本屋などと言うと、大型中古取扱い店を思い浮かべる人が結構いるけれど、俺はあそこ、実はそんなに利用しない。行かないというわけではいが、そっちよりも、利用している古書店があるのだ。


 それが、ウチの近所にある『支倉古書店』である。


 大きな樹の根本に寄り添うような形で立てられた古臭い建物に、薄汚れた看板で『支倉古書店』と書かれた、なんとも寂れた古書店である。


 まあ、こういうとこって、実際あんまり客入らないから、趣味でやってるようなところが多いらしいが。


 ガラガラとうるさい音を立て、開きにくい引戸をなんとか引っ張って、中に入ると、そこにはたくさんの本棚が並んでいた。


 足の踏み場がなんとか確保される程度に、本棚から漏れた本が積み重なっていて、それを茂みに入るみたいに慎重な足取りで奥へ進んで行くと、そこにはカウンターがある。


 照明と内装の力なのか、上からは木漏れ日のような優しい光が降り注いでいて、そのカウンターの中には、コーヒーを飲みながら、一冊の文庫本を読む女性が座っていた。


 寝癖なのかクセ毛なのか、あっちこっち好き勝手な方向に跳ねたショートの黒髪と、サイズの合っていない大きな丸メガネ。


 大きな胸を黒のタートルネックで締め付けていて、長い脚にその白いチノパンはよく映える。


 彼女の名は、支倉絹代はせくらきぬよ。俺の初恋――憧れのお姉さんであり、俺に読書を教えてくれた人。御年27歳である。


 現在は結婚していて、ここで店番をしながら、旦那さんを支えるという生活らしい。


「あれ、久しぶりじゃない志郎くん」

「ちっす、キヌさん」

「何ヶ月ぶりよー。この店で数少ない常連さんが来ないなんて、寂しいじゃないのー」


 少し気怠げな喋り方だが、この人は覇気とか、そういう物からは程遠い存在で、なんというか、エネルギーみたいな物が無いのだ。


 目は無駄に輝いてるけど。


「何ヶ月も経ってないですよ。二週間ぶりくらい、ですかね。前の本読みきらないと来ないんで」


 じゃないと、俺の部屋の積み本がどえらい量になる。

 ただでさえ足の踏み場も無いくらい本がとっ散らかってて、母さんが捨てる、売ると言い出す手前くらいなのだ。


 俺は本を売ったり捨てたりが好きじゃない。だって、読みたくなったらまた買うなんてしたくないしね。


「そんな寂しい事言わないで、お姉さんに会いたいから、位の理由でもっと頻繁に来なさい! 友達じゃない!」

「あはは……。そっすね」


 昔は、友達と言われるとなんだかイラっとしたものだが、今となっては光栄だ。


「コーヒー、飲むでしょ。また本の話でもしましょうよ」

「んじゃ、いただきます」


 カウンターの横に置かれていた木製の椅子に腰を下ろし、店の奥に引っ込んでいったキヌさんの背中を見送り、なんだか安堵のため息が勝手に漏れた。


 やはりここは落ち着く。この本の匂い、暖かな照明と、雰囲気。


 できればここに住みたいくらいである。や、初恋のお姉さんの家だという事を差っ引いてだよ?

 未練とか、マジでないからね?


「はいっ、お待たせー。コーヒー、ブラックでよかったでしょ?」

「はい、ブラックじゃないともう飲めないですよ」

「かーっ、生意気な。昔は、ほぼコーヒー牛乳みたいな比率で飲んでたくせにぃ」


 と、キヌさんが、俺の肩を人差し指で突く。この気安い接触が多いところが、男子を勘違いさせるんだと思うんですよ。


 ……昔は、キヌさんの前でそんなガキ臭いコーヒーを飲むのが嫌で、必死にブラックコーヒー飲めるようになろうとしたんだっけ。


「こないだ買ってった本、どう、面白かった?」

「面白かったですよ。やっぱミステリと、探偵小説って、個人的には違うジャンルな感じしますね。名探偵のキャラクター性が光って面白いのは探偵小説って括りっつーか」

「へえ、志郎くんはそういう解釈なんだ? 私はあんまり、そういうの気にしないなあ」

「好きなんですよ、決めるべきとこで、ビシッと決める探偵。なんつうか、周りに流されないで決断できるの、大人って感じでかっこいいじゃないですか」


 どれだけ傷つき、裏切られようと、自分のルールを決して曲げない。そんな男がかっこよくて、憧れる。


 俺とは大違いだ。


 何をどうイカれたら、女の子二人から嫌われる、あるいは、どっちとも付き合う、なんて発想が出るんだか。


 いまでもそれしかないと思ってはいても、やはりすげえダサいと思ってる。


 こんな状況に陥る前にできたことが、何かあったはずなのに。


「……志郎くん?」


 いつの間にか俯いていた俺は、その声で、顔を上げた。


「んっ、あ、いや、なんでもないです! ほんとに!」

「へったくそな隠し方だなぁー……」

 

 まるで「私はわかってるけど、自分から言いだした方があなたの為よ」と言いたげな母親みたいに、目を細めて俺を見るキヌさん。


 言いたい気持ちがないわけではないが、こんな事言いだしたら、流石にキヌさんから軽蔑されそうな気がする。


 俺、というか、大抵の人間はそうだと思うが、人に嫌われるのが嫌いだ。

 それが初恋の、憧れのお姉さんから嫌われるとなったら、俺は恋なんてしないとか言い出すと思う。


「いや、ただ、俺もこう……探偵小説に出てくるようなかっこいい大人になれるのかなー、なんて思ってですね」

「ははぁ、私も高校くらいの時は、太宰の様に退廃的生活に憧れたけどねー」


 太宰的生活に憧れるのはやばいだろ。

 あの人、聞きかじっただけでも冗談抜きにやばいエピソードあるし……。


 走れメロスが、旅館に泊まったけど金無くて、友人を人質にした自分の体験談を元にした小説だった、とか(ちなみに帰ってこなくて、将棋してるところをとっ捕まったらしい。友達でも半殺しレベルだと思う)。


「でも、かっこつけるのって難しいのよねえ。かっこつけるのって、タイミングが大事じゃない」

「それは……まあ、そうですね」

「私は、かっこつけることなんて無い方がいいかなー。かっこつけるって事は、かっこつけなきゃいけない状況に出会す、って事だからねえ」

「でも、人生で結構来ません? そういうタイミング」


 キヌさんは、胸の下で手を組んで、照れくさそうに笑った。


「私は常に、自然体がモットーなんで」

「すごい説得力ですね……」


 キヌさんは意地とかプライドとか、そういうのから縁遠いもんな。無い、っていうんじゃなくて、見せる事が無い。見せる必要がある事は絶対しない、って感じ。


「小さいかっこつけならあるけどね。でもそういうの「なにかっこつけてんだよ」って後でネタになったりすること、結構あるし」


 うわぁー、すっげえそういう流れ覚えがある。

 小学校の頃、掃除の時間、机を移動してるのに難儀している女子がいたので手伝ったら、何故かそうやって笑われた。


 と、いうより、俺の人生、結構そんなことがあるのだ。


 女の子の為に何かすると、かっこつけだと笑われる。


「ふむ」


 小さく、キヌさんは息を漏らして、俺の目をジッと見た。

 そして、なにをどう頭の中で歯車回したのか、わからないが、何故かめちゃくちゃニヤニヤしていた。


「はぁー……志郎くんも、色づいたか」

「やめてくださいよ。なんでも色恋沙汰にしたがるの、おばさんになった証拠ですよ」

「残念、私は若いからそんな戯言効かないわ」


 すげえその発言がババアっぽいが……。

 まあ、あんまり女性相手にそんなところをつっつく気もないので、これ以上何も言わないが。


「そうかぁ、いや、実は心配してたのよ志郎くん。今どきの男子高校生にしちゃあ、本読みすぎだし、女の子の話聞かないし、彼女とかいないんじゃないかって。あ、彼氏でもいいんだけど」

「いや、彼女なんていないですし。っつーか、彼氏も作らないです……」

「あらそう」

「キヌさんの考えてるような事じゃないんで、期待しても無駄っすよ」


 むっ、と、少し眉を吊り上げ、唇を釣り上げるキヌさん。


「私が、暇で志郎くんの悩みを掘り下げようとしてる、なんて思ってない?」

「い、いや。そんなんじゃないですよ!」

「まあ、言いたくない事を言わせる気はないけど、これだけは覚えときなさい、志郎くん!」 


 いきなり、鼻先に人差し指を突き出され、俺は少し背を反った。その威圧感、ちょっとただ事じゃない。


「かっこつけるってのはね、自己満足なの。表立って理解を求めた瞬間、かっこよくなくなるわよ」


 少し考えて、俺は、わかるんだかわからないんだか、よくわからない気分になった。極端な考え方だと「俺ってかっこいいだろ?」とか言ってるやつがさっぱりかっこよくない、みたいな理屈だろう。


「だから、もし、自分が『いい』って思ったら、誰になんと言われても、全部失う覚悟で突っ走りなさい。無茶なギャンブルに全財産賭けるくらい、考え無しでいいから。だけ、気をつけなさい」


 ね? と、首を傾げるキヌさんに、俺は一言。


「昨日、何読んだんですか?」

「麻雀放浪記……」


 照れくさそうに、ほんのり顔を赤くして(かわいい!)傑作ギャンブル小説の名前を挙げた。


 ……わかる。これだよね、かっこつけるタイミング。

 気に入った小説の名台詞とか、言えるタイミングがあったら言いたいよな。

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