第13話『キズナ』

 外が暗くなった頃、そろそろ帰ろうか、という話になって、俺達は外に出た。

 パフェえげつないくらい高いんだけど……。来月、ジョーのライブブルーレイが出るんだけど。金足りなくなっちゃったんだけど。

 母ちゃんから借りなきゃ……。


 俺達は薄暗い帰り道を歩きながら、


「いやー、いつか食べてみたかったからいい機会だと思って」

「梢ちゃんは遠慮という物を母親の腹の中に落としてきたのかな?」


 焦っていたとはいえ、奢るなんて言わなきゃよかった。


「悪かったってー。半分払うからさー」

「いいって、奢るっつったんだから」


 男に二言はねえ、と言って、俺は梢の肩を叩く。


「俺に奢るって言った時は覚悟しろ」

「えぇ……」


 梢が「なんでそんなかっこ悪いこと言うの?」とでも言いたげに、顔をしかめた。当たり前だ。こっちはバイトもしてない学生ニートなんだぞ。

 本とCD買ったら財布消し飛ぶんだ。


「志郎のケチっぷりはよく知ってたけど、まさかそこまでとは」

「ケチじゃなくて倹約家だから」


 いや、そんな事はどうでもいい。

 とっとと梢を送り届けよう。雫が来ない内に。

 好きな人と一緒に話して、一緒に歩いて、そんなことをしただけなのに、こうもあっさりと大事なことを忘れられるなんて。


 色ボケか?

 俺らしくもない。そんなことを思っていたら、まるで俺に対する罰なのだと神が言っているようなタイミングで、薄暗い夜道の向こう側から、雫が現れた。


 わかっていたし、覚悟もしていたのに、俺は背筋に冷たい汗が流れ出すのを感じ、こっそりと頬を噛んだ。覚悟を決めたのだ。


「志郎ちゃん……」


 俺は梢を自分の後ろへ庇うように手で押しやった。


「どいてよ。志郎ちゃんがどいてくれないと、巻き込んじゃうよ」


 雫は俺を見ていなかった。ずっと梢を見ていた。こいつさえ居なかったらすべて上手くいく、そういう確信と憎しみが溢れている鋭い目だった。


 正直言って、俺は逃げ出したくてしょうがなかったけれど、ここで逃げ出したら、俺はただの臆病者だ。ちゃんとしなくちゃ……。雫がどういうスタンスであれ、わかってくれないとしても、根気よく話し続けていかなくちゃいけないんだ。


 雫が手に持っている小さな包丁を見て、それを決意する。雫がそれを振るうなんて事、あってはならない。


「雫、お前、そんなもん持ち出したら冗談じゃ済まなくなっちゃうぞ」

「……冗談? 私が志郎ちゃんに冗談言った事ってあった?」


 その言葉が、俺は一番悲しかったかもしれない。

 確かに、雫は冗談を言った事がないし、いつだって真剣だった。でも、好きな人や仲のいい人の前では、気を抜いてちょっと軽口の一つや二つ、出てしまう物なんじゃないのか?


 ……雫にとって、俺は、機嫌を取らなくちゃいけない相手なんだと思うと、悲しかった。


「ない、よな。お前にとって、俺は、そういう相手じゃないんだもんな」

「……どういう、事?」

「俺も、お前に冗談言ったこと、多分ないよな……。こうして口にすると、なんでもないことだけどさ。でも、きっとそういう小さい事だったんだと思うんだ」

「わかんないよ……っ! どうして私にわかんないことばっかり言うの!? 私はただ、その子から離れて、って言ってるだけなの!」

「できないって言ってるだろ。……悪いとは思ってるけど、それでもさ」

「いいよ、志郎」


 俺がなんとか言葉を続けていこうとしたら、今度は梢が俺の肩に手を置いて、一歩前に出た。


「志郎は甘いんだよ。はっきり言っちゃえばいいじゃん。「俺は渋谷梢が好きだから、山桜雫とは付き合えません」って」

「……私と志郎ちゃんの間に入ってこないで」

「入ってきてるのはそっちじゃんか、マドンナ先輩」


 雫の肩がピクリと跳ねる。少し、震えているような気もした。


「前々からあんたにはガツンと言ってやりたいと思ってたのよ! 志郎だから、アンタがそんなもん取り出しても、さっきみたいな態度で接してくれるのよ? 普通だったら警察呼んでるっての」

「……うるさい」

「そもそも一度嫌われてんでしょ? だったら、そんなことして好きになってもらえるわけないじゃん。もっと嫌いになるだけだっつーの」

「うるさい、うるさいの! 志郎ちゃんが私を嫌うわけない!!」

「なんでそんな事言えんのかなあ。だって実際、志郎はあたしを選んでるわけだし、諦めてくださいよ、マドンナ先輩。マドンナ先輩なら、他の男は選り取り見取りでしょ?」


 ブツリと、糸が切れた操り人形みたいに、雫は俯いた。


「その、あだ名を……」


 雫は手に持っていた包丁を握り直し、一歩大きく踏み込んだ。


「そのあだ名を、呼ぶなぁッ!!」


 雫が真っ直ぐ、梢に突っ込んでいくその瞬間、俺は世界がスローに見えた。雫が何をしたがっているか、梢がまだその現状を把握していないことも、すべてがわかった。


 もう怖いとか、そういう気持ちが全然なくて、ただ、雫がしたことの責任を取らないととか、梢を守らないととか、そういう事を考えて、梢の前に飛び出した。


「しろ――っ」


 名前を呼ぼうとした、梢の声が聞こえる。

 でも、それに答える前に、雫が俺の胸に飛び込んできた。


「ぐ……っ!」


 雫の体温が伝わってくる。だから俺は、雫をそっと抱きしめた。

 腹の中に、冷たい何かが入ってきたなと思った瞬間、そこが一気に熱くなって、それが痛みだと気づくのに数秒かかった。


「えっ……あれ……?」


 よたよたと、俺から離れていく雫。

 腹と、俺の顔を見て、どんどん顔を青くしていくのがわかった。雫が抜いた包丁が地面に落ちて、やっと「狼狽えてるんだな」と気づき、できるだけ優しく微笑んだ。


「心配すんな……怒ってねえから……」


 もう足に力が入らなくて、俺は地面に倒れ込んだ。


「しっ、志郎!?」


 梢が俺の頭を抱きかかえるように、抱え込む。

 ローファーが地面を蹴るような音が聞こえて、雫がこの場を離れたことを悟った。


「あっ、逃げんな先輩ッ!! ――っち! なにやってんの志郎! あんた、甘いにも程があるよ! 死んだらどうすんの!?」


 刺された位置を触ってみる。血は多いが、急所ってわけじゃない――と、思う。脇腹辺りか……。なんかもう腹が全部痛くて、よくわからない。


 だいたい、ここに一撃で死ぬような臓器がないとはいえ、普通に怖かった。


 死ぬかもしれない。そう思ったら、怖くなって震えてきた。


「梢……」

「あ? なによ! ちょっと黙ってて! 今救急車呼ぶから!」


 ブレザーのポケットから、俺の血で濡れた手でスマホを取り出す梢。でも、電話の前に、約束してもらわなきゃいけないことがある。だから、俺は梢の手を取って、もう数少ない体力を注ぎ込み、握った。


「雫がやったって……誰にも言わないでくれるか……。これは、通り魔って事にしといてくれ……」

「バッ、バッカじゃないの……! なんで、アンタがそこまですんの!? アンタのしたことって、そこまで重罪じゃないでしょ!?」

「うるせえ……っ、いいから、約束してくれ……」


 俺は、思いっきり梢の手を掴んだ。死にかけとはいえ、俺の手もまだ、梢の顔を歪ませる程度の握力はあるらしい。俺の言ってる事の、バカさ具合に呆れているという可能性もあるが。


「わ、わかった! 約束するから!」

「……絶対だぞ」


 梢が救急車を呼べるようにと手を離す。

 助けてもらう立場なのに、なんだか面白い構図になってしまった。


 俺はさ、これで雫が冷静になってくれる事を祈ってるんだ。

 冷静になって、俺を刺してしまった事を、忘れるとは言わないけど、なんとか記憶の中から薄めて、新しい人生を歩みだしてほしい。そう思っている。


 きっとそう上手くはいかない。

 でも、俺にできることはそれくらいなんだ。

 ずっと心配してる。でも、俺は、お前のそばにいれない。


 ごめんな、雫。

 ありがとう、梢。


 俺はゆっくりと目を閉じた。なんだか非常に疲れてしまって、とりあえず寝たかった。

 遅刻するとしても、二度と起きられないとしても、眠気には逆らえない物だ。



  ■



「うおっ!?」


 ジリリ、と急かすように鳴る目覚まし時計が俺を起こしてくれた。

 酷い悪夢だ。寝汗がべっとりで、心臓の動悸が収まらない。


 周囲を見渡せば、ここは確かに俺の部屋で、時刻は朝の七時半。いつも通りの起床時刻。


 寝間着のスウェットの腹を捲る。そこには確かに、雫に刺されたあの傷があった。あれから数ヶ月が経って、傷はふさがって、包帯も取れた。


「……チッ」


 俺は舌打ちをして、ベットから降りた。

 シャワーを浴びたり制服に着替えたりと身支度を整え、俺は、いつもの生活を送っている。


 ――雫は、あの事件の後、すぐ転校したらしい。

 入院している時、お見舞いに来たシバケンや千尋から教えてもらった。どうにか連絡を取れないかと、教師に訊いてみたりしたのだが、俺が追えるのはどうやら田舎の方へ転校してったことらしいという情報くらい。


 幸せになっているといいな、そう思うが、それが俺の都合のいい妄想である事を否定できない。


 でも、俺ができることはなにもない。きっと、一生この傷と付き合っていかなくてはならないのだろう。そう思うと、心の傷も、腹の傷も、どうしたらこれができないように立ち回れたのかについて、思いを馳せてしまう。


『もし』とか『たら』とか『れば』とか。

 そんなものに意味が無いことは、もう痛いほどわかっているのに。


 身支度を終えて、家を出る。

 今日も一日が始まった。





 玄関の前には、いつものように、梢が立っていた。あれから少し、髪が伸びた梢だった。どうやら、本人はしばらく髪を切るつもりはないらしい。このまま、ロングヘアにするのだとか。


「……おはよう、梢」


 俺は、梢に微笑み、二人で並んで学校へ向かう。


 あの事件から、梢は俺の事を、志郎ちゃんと呼ぶようになった。それは、雫しかしない呼び方で、梢からその呼び方を聞いた時は大層驚いたのだが、俺はそれを拒絶はしなかった。


 ……雫が俺の腹を刺した事は、梢の中で大きな変化を起こしたらしい。


 志郎ちゃんと呼ぶようになり、束縛がきつくなった。他の女の子に話しかけるのも、できるだけやめてくれ、とも。


 俺はそれを、受け入れた。

 受け入れるしか、ないのだ。


 もう誰かを俺の勝手な行動で傷つけるのは嫌だったし、梢は多分、心配なのだろう。


「ねえ、志郎ちゃん」

「……なんだよ?」


 梢が腕を組んできたので、黙って受け入れる。


「勝手な事、しないでね。心配、かけないでね、あたしにさ」


 少しだけ悲しくなって、俺は梢の手を握った。


「あぁ。ごめんな、わがままに付き合わせて……」


 梢の目からは、光が消えていた。

 まるで雫を思わせる、あの目だ。

 ……俺は、やっぱり間違っていたのだろうか。雫への対応を、梢への思いやりを。


 だから、俺はまた、俺を思ってくれる女の子に、こういう目をさせてしまうのだろう。

 心を傷つけると、そこからまた新しい傷ができる。一度傷ついてしまうと、痛みが止まる事はない。


 それでも、痛い痛いと藻掻きながら生きていかなくてはならない。


 雫もきっと、そうしているはずだから。 

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