賭旅 ~カケタビ~

朽犬

第1話 旅の始まり

 旅の始まり


 どうしようかな―――と、僕は考えていた。

 時刻は午前五時ほどだろうか。

 博多を出た乗客もまばらな始発の普通列車の中で、シートの下から吐き出される暖房の熱でふくらはぎを暖められながら、僕はそんなことを考えていた。

 朝と呼ぶには暗すぎる十二月三十日の午前五時。ときどきコンビニエンスストアが見える以外に明かりはない。自動車のヘッドライトさえない。

 まだ十分に温まりきっていない普通列車、そのひとつの車両の中で数人の乗客が、耐えるように首を縮めて、体を強張らせて、それぞれボックスシートに座っている。同じようにそうしている僕の目は、背もたれからちょこんと飛び出ているいくつかの人の頭を見ている。

 列車が線路の継ぎ目を踏み越えていく。心なしか、昼間に聞く走行音よりも静かに感じる。眠りたい人に遠慮して足音を控えめに走ってくれているのだろうか。あと少しだけ気を利かせて列車内の電灯を暗くしてくれれば、子宮の中のように眠れたことだろう。

 慣れない早起きをしてしょぼつく目を擦っていると、乗客のいない駅に着いた。ひとりの男性が体を固く閉ざして足早に降りていった。

 夜明けを待つ駅のホームを窓から眺めて、自宅からの最寄り駅に似ているな、と感じた。しかしJRの駅だ。周囲の風景が見えなければホームの構造など似ていても当然だろう。

 ほどなくして列車が再び走り出す。窓から隣の線路を眺めると、停車中の列車があり、その車窓の向こう側のホームを歩く人が見えた。まるで映画のフィルムを見るかのように、車窓に区切られてコマ送りに歩を進める人。列車が駅を離れると、フィルムも人も消えてしまった。

 あとには外灯しか見えない暗い景色が広がり、僕はまた視線を列車の中に戻す。

 そうして、考える。

 どうしようかな―――と、斜め前のシートに座る人を見つめながら。

 次の駅まで続くであろう人の沈黙が、列車内に満ちる。がたんごとんと列車は唸る。

 その人は女の子で、とても可愛らしい顔立ちをしていた。通路側のシートでスマートフォンをいじる彼女の顔は、僕からは一部分しか見えていないが、とてもきれいな顔だった。

 年のころは僕と同じくらいに見えた。つまり、十六歳くらい。栗色がかったショートボブの黒髪。長い睫毛をぱちぱちとさせているあたり、夜明かししたのではなく、僕と同じように早起きをしたのだろうか。ぱっちり開けば花が咲くように彼女の魅力になるはずの大きな目は、まどろむように半眼で、それはそれで魅力的だと思えなくもない。

 シートの下から吐き出される暖房の熱で温まった脚を、無意味に組んだりして、僕はそわそわと視線をさまよわす。中吊りの広告が長崎旅行とお得な切符をおすすめしていた。

 十二月三十日の午前五時の僕が、「どうしようかな」と考えているのは、つまり、「声をかけようかな、どうしようかな」ということだ。

 どちらまで行かれるんですか、と、斜め前のシートに座る可愛い顔立ちの女の子に。

 早い話がナンパだ。電車の中の可愛い女の子に声をかける若い男が、ナンパ目的でなくてなんだというのか。

 しかし―――ただのナンパよりかは、もう少しだけ〈縁〉を感じたのだと、言い訳をさせてもらいたい。

 場所は列車だ。僕にも、その女の子にも目的地はある。降りる駅がある。話しかけたところで、幸運にも連絡先を交換できたところで、今日のところはどちらかの目的地が来れば「はいそれまで」で終わる出会いだ。

 けれど、僕は知っている。偶然に知りえた。今日の〈彼女〉の目的地がどこであれ、乗り継ぎを繰り返して僕と同じ列車に長く乗ることになる。それも数時間だ。どうかすると六時間くらい同じ列車かもしれない。

 午前四時四十六分に博多駅を出た普通列車が、またどこかの駅に着く。

 大学生くらいの三人の男女が談笑しながら乗ってきた。走り出してからも、彼らは話し続けていた。列車の中の沈黙が彼らのためだけに奪われた。

 視線の先で、僕が話しかけようか悩んでいた女の子が、スマートフォンの操作をやめてしまった。眠るつもりなのだろうか。だとすれば動くべきは今なのだけれど、なんとなく、先ほど乗り込んできた大学生風の三人の男女に見張られているような気がして、動けなかった。

 彼らが降りたら、と、僕は自分に誓う。

 しかし、ほんの数駅で三人の男女が降りていってからも、僕は動けずにいた。

 窓の外では、徐々に動く自動車が増え始めていた。きっと乗り降りしてくる利用者も増えてくる。列車は貸し切れない。僕と〈彼女〉のためだけに走っているわけではない。

 どうしようかな、と、僕は煮えきらずにいた。

 その理由は「恥をかいたら嫌だな」というもので―――〈旅の恥はかき捨て〉ということわざを思い出すのにさらに数駅かかった。

 そのときには、じわりと夜が白んでいた。朝の到来が僕を前向きにさせたのだろうか。あるいは単に時間に急かされただけだろうか。事実、この路線の終点が徐々に迫っていた。

 意を決して僕は立ち上がり、俵のように大きなリュックをシートに残して、〈彼女〉の座るシートへ歩を進めた。

 ためらったらだめだと思った。

「あの、こんにちは」

 一言目さえ切り出せればあとに引けなくなるし、躊躇したら不審だ。

 幸いにも眠らずに車窓の景色を眺めていた〈彼女〉は、車掌でもないのに突然声をかけてきた僕に、当然驚いていた。

 正面から見ると、やはりとても、可愛い女の子だった。男がほっとかない感じの。

「突然すみません」

「……えっと、なんですか?」

 当然の質問は、ありありと不審の気配を漂わせていた。

 眉間に皺を寄せて見上げてくる〈彼女〉に、僕はとりあえずの、笑顔。

「いや、その、怪しい者ではなく……」

 怪しいに決まっている。必死の笑顔も貼り付けたように見えただろう。

 ここは正直に、手早く申し開いてしまおう。

「……俺も、あなたと同じ切符で博多を出たんです」

 そう言って僕はジーンズのポケットの中から、栞ほどの大きさの切符を取り出した。

 それは、金のない高校一年生の僕にとっては、夢のような切符だった。

 長い時間と引き換えに、何分の一にも安い値段で、列車がどこまでも遠く運んでくれる、夢のような切符。

 僕の差し出したそれを見て、〈彼女〉はある程度の納得を示した。

「きみも〈青春18きっぷ〉で旅行中なの?」

 それが、期間限定で売り出されるJRの切符の名前だ。

 僕は少しだけ緊張が解けた。

「そうです。博多から東京まで。冬休みを使って」

「ふぅん」

 と、〈彼女〉はちらりと僕の身なりを確認した。ジーンズにパーカーにダウンの上着という、どれを取っても安物な風体を。

「高校生?」

「……です。はい。高校一年生です。はい」

「ふぅん」

 てっきり僕は〈彼女〉を同い年くらいと思っていたが、口調の変化などの態度から、どうやら少しばかり年上らしいと感じた。

 小柄な体格を、すっぽりと膝まで前を合わせたコートで包んだ〈彼女〉に、長く温めてきた問いかけを口にする。

「お姉さんは、どちらまで行かれるんですか?」

 今日の僕の目的地である広島までに〈彼女〉の降りる駅があれば、「そこに着くまでお話でもしませんか」と誘うつもりだった。広島よりも遠くに〈彼女〉の目的地があればなおさら好都合だった。

 ただのナンパではないと、改めて言い訳させてほしい。

 僕が利用する〈青春18きっぷ〉というのは、特急券の要らないJRの列車を終日好きなだけ乗ることができる切符なのだが―――当然に道中は鈍行が多い。今日の僕の目的地までは、普通列車を乗り継ぎ、最短で、約六時間の道のりなのだ。話し相手くらい欲するのは、当然の希求と理解してもらいたい。

 さらには、僕の目の前にいる可愛らしい顔立ちの〈彼女〉もまた、同じ切符の利用者なのだ。〈彼女〉がどこまで行くつもりなのかは知らないが、一度同じ列車に乗り合わせたからには、もしかするとかなり長く、僕と同じ道程を辿ることになるかもしれない。

 午前四時三十分に開放された博多駅の中、彼女が改札で駅員に切符を見せたときから、話しかけるタイミングを伺っていた。

 退屈な列車の時間を楽しい旅の思い出に変えてくれるかもしれないと、夢見て。

 ―――さて、「お姉さんは、どちらまで行かれるんですか?」という僕の問いに対して、〈彼女〉の返答はというと、

「決めてない」

「……え?」

「決めてないの。私の旅行は、そういう旅」

「目的地のない旅行を、されてるんですか?」

 僕の質問に、うん、と〈彼女〉は頷く。

「決めてる途中って言えばいいのかな。今日はどこに行くか、どこまで行くか、ぼんやり考えながら旅をするのが好きなの」

 そう言って〈彼女〉は、ふわぁ、と口に手を当てて大きくあくびをした。

 退屈そうに。

 そんな〈彼女〉の様子を見て、僕は引き下がることにした。

「それも、いい旅ですね。楽しんでください」

 諦めると決めたら、全ての緊張が抜けて自然体で話すことができた。

「きみもね。東京旅行、楽しんで」

「はい。ありがとうございます」

 それじゃ、と頭を下げて、僕は踵を返す。

 うまい返答だな、と僕は少しだけ感心していた。

 目的地を決めていない、というのはこの場合、ナンパをまくにはうってつけの言葉だろう。明確な行き先を告げないでおけば、どの駅で降りても不自然ではない。東京に行くと告げた僕には〈彼女〉に付いていく理由がない。誰も傷つけない言い訳だ。

 ―――と、考えていたのは心の半分くらいで、もう半分では、やっぱりだめだったか、恥をかくだけに終わったか、という、ネガティブな感情でいっぱいだった。

 次の乗り継ぎからは、〈彼女〉とは離れて座ろう。そのほうが〈彼女〉も過ごしやすいだろう、などと考えて、自分の座っていたシートに戻ろうとした。

「……ちょっと待って、きみ」

 不意に〈彼女〉に呼び止められた。

 振り返ると、しげしげと僕を見つめてくる〈彼女〉が、ちょいちょいと、こっちに来るように僕に向けて指で合図を送っていた。

 僕が再び近付くと、〈彼女〉はこう言った。

「きみ……私とどこかで会ってない?」

「……いえ、初対面のはずですよ?」

「うん。それはそうなのよ。私ときみは、初めて会ったはずなのよ。……でも、」

 それから〈彼女〉は、不思議そうに首を傾げた。

「それならなんで、私はきみの名前を知ってるんだろう」

「え?」

「きみの名前は〈松島まつしま銀朱ぎんしゅ〉くん。そうでしょ?」

 見ず知らずの女性に名前を言い当てられ、僕は困惑した。

「はい、まぁ、そうです。俺の名前は松島です」

「やっぱり」

「でも、どうして?」

「……どうしてかな。なんでかな。……芸能人じゃ、」

「ないです。絶対に。それは見てのとおり」

「だよねだよね。そんな感じじゃないよね。……なんか悪いことした? 新聞に載るような」

「十六歳です。少年法が……いや、してません。両親に誓って」

「じゃあ何か、表彰されるようなことは?」

「いや、別に……人に自慢できるようなことは……」

 と、ここまで僕が言い差したところで、僕と〈彼女〉のふたり同時に、ひとつのキーワードが舞い降りてきた。

 言葉を交わす一瞬前から、お互いが〈正解〉を知り、まるで旧知の知り合いに偶然出会ったかのように、ふたりの表情が明るくなる。

「〈金龍杯〉!」

 僕と彼女の声が、大きく、重なった。

 突如として車内に響き渡った大声に、ほかの乗客が何事かと僕たちのほうを見つめてきた。そんな周囲の反応にも構わずに、僕と〈彼女〉は、今にも踊りださんばかりに興奮して言葉をぶつけ合う。

「思い出した思い出した!〈金龍杯〉の決勝戦に出てた松島くんでしょ?」

「そうですそうです! その松島です! でも、あの決勝戦って、公式サイトの動画でしか、」

「見たよ見た見た! 何回も見たよ! っていうか松島くんの周りは誰も見てないの? 誰も『すごいね』とか、『馬鹿なことやったな』って言ってくれる子いないの?」

 悪意はきっとない。だが、思わず苦笑してしまう。確かに僕はそれくらい〈馬鹿なこと〉を、金龍杯というとあるゲームの大会の決勝戦で、やらかした。

「いませんね。大会に出たことも家族以外は誰も知らないはずですし」

「うそー。もったいないよぉー。もっと自慢すればいいのにー」

 自慢にならない〈馬鹿なこと〉だから、それもできない。

 しかし今日、僕は報われた気分だった。

「八月の大会のことで、動画を見た人に気付かれたのは、これが初めてです。だから全然心当たりがなくて」

「そーなんだそーなんだ。確かにそーかもねー」

「でも……嬉しいです」

 先ほどまでと打って変わって、僕に対して興味を示してくれる〈彼女〉について、変わった人だなと思った。それというのも、〈普通の女の子〉なら、金龍杯という〈とあるゲーム〉の大会になど、まるで興味を持たないからだ。

 列車のアナウンスが流れた。もうすぐ門司に着くとのことだった。

「いけない。乗り換えなくちゃ」

 そう言って〈彼女〉は立ち上がり、脇に置いていたリュックサックを背負った。何が入っているのか、がちゃがちゃと音の鳴るリュックだった。足元にはキャリーケースもある。

 同じ切符を持っているどころではない。〈松島銀朱〉という僕を知ってくれている貴重な人物と出会ったのだ。この路線の終点まで乗るつもりだった僕は、何とかしてこの会話を続けられないだろうかと考えていた。

 すると、

「何してるの? 松島くんもここで降りるんでしょ?」

「え? いや、俺は終点まで行くんですけど」

「終点って門司港駅のこと? 何か勘違いしてない? 門司港駅の先に線路はないよ?」

「え?」

「本州に行くなら門司で乗り換えなくちゃ。そのつもりだったんじゃないの?」

 そう言われて、ここでようやく、僕は〈門司駅〉と〈門司港駅〉を間違えていたことに気付き、慌てて荷物を取りに自分のシートに戻った。


 俵のように大きなリュックを背負った僕と、大きなキャリーケースを転がす〈彼女〉は門司駅で降り、下関行きの列車に乗りこんだ。

 自然とボックスシートの向かい合わせの席にふたりで座ると、〈彼女〉が話しかけてきた。

「東京までってことだけどさ、今日はどこまで行くの?」

 先ほどと同じ質問が、今度は逆方向に返ってきて、僕は笑ってしまった。

 広島です、と答えると、〈彼女〉はふんふんと頷いて、こう言った。

「私も広島まで付いてっていいかな? ついでだから一緒に観光しようよ」

 少しびっくりしたのは、その答え方にあった。

「あの……お姉さん、本当に目的地のない旅行してるんです?」

「さっき言ったでしょ?」

 僕にしてみれば、ついさきほどの〈彼女〉の答えは、ナンパを振り切るための方便だとばかり思っていた。

 しかし、断る理由がなかった。元を正せば僕が望んだこと。願ったり叶ったりとは、まさにこのことだった。

「俺でよければ」

「きみじゃなきゃ付いていかないよ。広島に着くまで、〈金龍杯〉の話とか聞かせてよ」

「それはもちろん。……でも、その前に、お姉さんの名前を、教えてくれますか?」

 僕からの質問に、そうだったそうだったと、〈彼女〉は頷く。

 すっと、〈彼女〉は右手を差し出してきた。

「私は〈常磐ときわ若菜わかな〉。……〈トキワカ〉って呼んでくれたら、きみは友達」

 乗り換えても相変わらずに、乗客の少ない普通列車の中。

 にこりと微笑む〈彼女〉―――トキワカさんの右手を、僕も笑みで受け取った。何とか恥じらいを見せぬよう平常に振る舞って。

「広島までの道中、よろしくお願いします、トキワカさん」

「こちらこそ」

 これが僕の―――

 ―――いや、僕とトキワカさんの旅。

 その、始まり。

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